今日の一曲 No.101:ブラームス作曲「交響曲第2番」(ショルティ & シカゴ交響楽団)

「今日の一曲」シリーズの第101回です。

これまでの「今日の一曲」100回分をアーティスト別に整理してみると、登場回数の最多は「ブラームス」で、これは意外でした。今回もまたブラームスを取り上げるのですが、私自身はブラームスの熱心なファンというわけでもないので、もしかしたなら、その時々の関心事の先にブラームスの楽曲がたまたまあった、と言った方が正解に近いのかも知れません。ただそこには、ブラームスの音楽ならではの何かがあるようにも感じます。

さて、ある夏のこと、長男(第二子)が生まれたその年の夏は『とてもとても暑い夏』で、その夏の、どんな関心事がまたブラームスへと結び付いていったのか、今回はこのあたりの事も含めて、諸々語らせていただくことに・・・。

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「その年の夏は『とてもとても暑い夏』だった」と、「本題」に入る前に、先ずは、これまでの「今日の一曲」シリーズの中で書いてきたことのうち、今回の内容に関連する事柄についてその概要をそれも極簡単に?まとめた、《イントロダクション》からお付き合いいただきたく思う(・・・恐縮です)。

 

《イントロダクション1》 

「音楽を聴くこと」、これに関して言えば、洋服職人の叔父からの影響はとても大きかった。

そう、私は、その叔父が我が家に遊びに来るたびに置いていってくれたアナログ・レコード盤のお蔭で、現在に至ってはおぼろげな記憶としてだけの、もう幼少(2~3歳頃)の頃から主に“クラシック音楽”と呼ばれる音楽を聴いて育った。

念のため申し上げておくけれど、「優雅にクラシック音楽を味わっていた」というイメージは持たないでいただきたい。

父も母も音楽には疎い方の人だ。塗装職人の父は、当時、稼いだばかりのお金で直ぐさま他の職人さんたちと呑み喰いしてこれを振舞ってしまうような人だったらしい。恐らくその度であったのだろう、父と母が喧嘩を繰り返していたことのこれだけは皮肉にも鮮明な記憶として残っている。

だから、幼少期の私にとって、叔父が置いていってくれたレコード盤は「救い」だったのだ。

こんな具合に、日常的にやや緊張感が漂う家に育ったお蔭?で、4歳頃には、叔父のそのレコード盤で音楽を聴くために、モノラル・スピーカー付きの小さなポータブル式レコードプレーヤーにレコード盤をセットしてそこに針を乗せる、といったことも自分独りで出来るようになっていた。そして部屋の隅、レコードプレーヤーのその前で正座をして静かに音楽を聴くことも、この頃にはすっかり習慣の一つにあった。

が、ご心配なく、私が小学校に入学する少し前、妹が生まれると、ここから父の様子は幾分か穏やかになって、それは当然母もで、家の中の雰囲気が少しずつ落着きはじめた。理由は、よく分からないけれど・・・。

こうして比較的平穏に過ごせるようにもなって数年が経過、小学4年生くらいになると、それまでよく聴いていたピアノやヴァイオリンの小品曲などよりも、管弦楽曲などの40~50分くらいのやや長めの曲をじっくりと聴いて楽しむようになった。

これには、テレビの影響が多分にある。(「平穏さ」も大きく影響してのことだけど・・・)

クラシック音楽番組がテレビ画面に映れば、必ずそこへと釘付けとなった。オーケストラから奏でられる音のみならず、演奏者の姿や演奏会全体の様子をテレビを通して目で視ることができるようになってからは、古びてきていたポータブル・レコードプレーヤーで聴く音楽も、その「演奏する様子を想像して楽しむ」ようになった。

 

ここから徐々に「本題」へと向かっていくわけなのだけれど、もう少しだけ、このままお付き合いいただきたくお願い申し上げる(汗・笑)。

 

《イントロダクション2》

小学4年生頃からの「演奏する様子を想像して楽しむ」その最大の関心事となったのは、「指揮者」!

が、この関心事をさらに膨らませてくれるものがあった。それは、作曲家で指揮者の山本直純氏が司会を務めていた「オーケストラがやってきた」という民放テレビ番組だ。山本直純氏と新日本フィルとが実験的な演奏をしたり、若き日の小澤征爾氏も度々ゲスト出演してはこれに加わったり、クラシック音楽の色々を面白可笑しく伝えてくれていた。その番組の企画の一つで、時折、アマチュアを対象に「指揮者コンクール」があった。プロの指揮者に近づこうと本格的に指揮棒を振る人もいれば、音楽のイメージを自己流に身体表現的に魅せる人もいて、言うならばこれが、私の関心事の一つにあった「指揮者」という存在を大きく膨らませて、また同時に身近なものにしてくれた、その切っ掛けだったと思う。

実際それは、“レコードプレーヤーを前に正座をして音楽を聴く”という習慣を完全に消し得るものではなかったものの、それでも、腕や手先は指揮者が操る指揮棒の振り真似をその動作として取り入れて、”正座スタイル”のこれも部分的には変貌を遂げるほどの転機をもたらした。(・・・アハハ、大げさかな(笑)?)

さて、中学生から高校生の頃になると、月々の小遣いを貯めながら、これを大抵は自分で選んだレコード盤を買うために使った。また時々は、興味をもった管弦楽曲の「ポケット・スコア(ミニチュア・スコア)」も買って、それを見ながらレコード盤から聴こえてくる音を楽しんだ。・・・この“「ポケット・スコア」を見ながら”の楽しみ方は、楽譜の書かれ方やオーケストラ・アレンジについても、とは言ってもある程度のところまでだけれど、その仕組みを理解することに繋がっていった。

そして、大学生生活を経て社会人となっていった20歳~26・27歳にかけては、岩城宏之著「フィルハーモニーの風景」、小澤征爾著「ボクの音楽武者修行」、フランツ・エンドラー記録「カラヤン自伝を語る」などの書籍類も読んで、指揮者の仕事あるいはその生活ぶりなどにもますます興味・関心をもつようになった。中でも特に、小澤征爾氏の師匠であり叔父でもある斎藤秀雄氏の著作「指揮法教程」には強く惹きつけられて、ここに書かれていた“指揮および指揮棒の動作技術、指揮者の動作と演奏者の反応のその関係性”など、これらを5年間ほど掛けて独学で調べながら、時には、知り合いを辿ってこれに詳しい人のところへ行って教えてもらうなど、まぁ、私にしては珍しく少しばかりのめり込んだ。指揮者になるわけでもないのにね~(笑)。

 

(*「ポケット・スコア(ミニチュア・スコア)」:主にはオーケストラなどが演奏する楽曲の全体を掌握するために指揮者など総括する立場の音楽家が持っている楽譜(全ての楽器・パートの楽譜が載っている「フル・スコア」と呼ばれるもの)のこれを、書式もほぼそのままを縮小して、小さなA5サイズの単行本のように編さいしたもの)

 

さあ、いよいよ「本題」へ・・・

 

 《長男誕生と長女と過ごす夏》

それは、我が子、第二子である長男が生まれた夏のことで、・・・その年の夏は『とてもとても暑い夏』だった。

妻は出産予定日よりも少し早目に病院に入院して出産の準備、そして無事に長男を出産した。

さてと、2歳に満たない幼い長女がどんな反応を見せるのか、だった。

対面の初日、それは確かに長女にしてみれば病院という場にいる母親への心配の方が先だったのだろう、産まれたばかりの弟に目を向ける余裕はほとんどなく、顔は表情を強張らせて、当時すでに口達者でお喋りが得意であったのにこれもすっかり封印して、“だんまり状態”。

ところが、だよ、その翌日に病院へ行くと、すべての状況を一人で理解しきったような余裕のある態度で、産まれてきた弟の存在を直ぐに受け入れた。名付けられたばかりの弟の名を早速呼んでくれるのだった。

妻は出産後、当初よりも少しだけ長めに病院で体調を整えることになった。妻が入院していた出産前と出産後のその間、私は夏休みをその期間に当てて常に長女と一緒に居た。昼間は狭いベランダにビニール・プールをなんとか拡げて水遊び、それから妻(母)と産まれたばかりの長男(弟)に会いに病院へ。そのあとは、スーパーマーケットで買い物、入浴なども済ませて、そして、夕食後はほぼ毎晩ように、それは、遂、長女にせがまれて、アニメ「となりのトトロ」をビデオ鑑賞するハメに(汗・笑)。

ちなみに、その当時のこのときの私は、長女が「トトロ」や「メイちゃん」などのキャラクターたちを単に面白がって観ているのだと、そんなふうに単純に思っていたのだけれど、この話って、よくよく考えてみると、“幼い女の子が病院で療養中の母親に会いに行く話”なんだと、だいぶ時が過ぎてから想い返すようになった。でも2歳だよなぁ~?

その長女が十分に眠りに就くと、私は夜のひと時を、それも毎晩決まった形で過ごした。それはその夏前までの3ヶ月間ほど放送されていた、あるテレビ番組を録画したビデオを観るためだった。

 

《指揮者ショルティによる音楽番組》

ビデオに録画したそれは、イギリスで制作された“子ども向け音楽番組”で、当時の「NHK教育テレビ」が日本語吹き替え版として一つの回を25分間、10回シリーズで放送したものだ。「オーケストラの魅力」というタイトルで(日本では)放送されたように記憶している。

(*「記憶している」というのは、現在に至ってはVHSビデオに録画したこれを観るためのビデオデッキがないので、ここからは番組タイトルが確認できないのです)

 

で、この番組の進行役が、なんと、「(サー)・ゲオルク・ショルティ」だったのだよ!

(サー)・ゲオルク・ショルティ氏は、1912年生まれ、ハンガリー出身のイギリス国籍をもつ指揮者。イギリスでナイトの称号を得たことから「サー・ゲオルク・ショルティ」という呼ばれ方が正式とされる。

日本でこの番組が放送されたとき、ショルティは長く務めていたシカゴ交響楽団の音楽監督の職を退いたものの、そのままシカゴ交響楽団を中心に世界各地で指揮者として広く活躍していた。79~80歳になっていたと思う。だから、番組制作中のショルティも70歳代後半の年齢にあったかと思う。

ところでこの番組、“子ども向け音楽番組”として紹介されていたけれど、実際に観ては、

「いやいやいや、とんでもない!」

「これは、本格的に指揮者を目指す人のための基礎講座だよ!」

 と思うほど、指揮者と音楽に関する事柄がたっぷりと詰め込まれていた。

指揮者としての準備作業、楽曲に対する解釈と演奏へのアプローチの方法、指揮者と演奏者との関係性、本番演奏中の指揮者に求められる能力と技術また心理状態、これらを、トークと併せてオーケストラやオペラ歌手など演奏者とともに実演して見せてくれるのだった。

「こんなに教えてくれちゃってイイの?」

「こんなに見せちゃってイイの?!」

ってくらい、ショルティは自身が培ってきた技術から精神まで、そのすべてを惜しげもなく注いでくれていた。観ている側にとっては貴重過ぎて有難すぎる番組だった。

 

指揮法については、指揮者あるいは音楽家たちそれぞれによってこれに対する考え方や在り方は様々のようだ。指揮法の存在そのものを否定する意見もある。けれど私にとっては、小学生の頃からの関心事の一つとして始まったもので、指揮棒の振り真似から、次には「ポケット・スコア」へと、更には指揮者たちが著作した書籍類も読みあさるほどの探求心へと繋げてくれたものだ。それはクラシック音楽のみならず、あらゆる音楽を聴く耳を少しずつ拡げてもくれて、同時に少しずつ深いところへと誘ってもくれた、「音楽を聴くこと」を育ててくれた大切な鍵の一つだ。

加えて言えば、音楽に限らず、私が長年に渡って関わってきた仕事にも大いに役立つものだった。

だから、当時において、ショルティが進行役となって登場したこの番組を視ていては、「指揮者・指揮法」へ想いを重ねてきた私の小学生の頃から大人としてここに至るまで(その当時に至るまで)の年月を一本の線で結び繋げてくれているかのようにも感じられて、それは言い表しようのない歓びまで我が身に与えてくれているように思ったのだった。

 

《齋藤秀雄氏と「サイトウ・キネン」》

一方、これより前、その5年ほどの間においては、指揮者の小澤征爾氏など、故・齋藤秀雄氏の教え子たちが中心となって結成した「サイトウ・キネン・オーケストラ」がヨーロッパなど海外で公演を重ねていて、やはり、この年の夏(長男が生まれたその年の夏)には、これがクラシック音楽ファンの間での事としてのみならず、日本国内の広く世間の話題としても取り上げられるようになっていた。

《イントロダクション2》で先述したように、私自身はこれよりだいぶ以前に、斎藤秀雄氏が書いた「指揮法教程」について約5年間ほどに渡って探求した経緯もあって、「サイトウ・キネン・オーケストラ」が世間で広く注目を集め始めるより前から、当然と言ってはなんだけど、ライヴ盤CDを集めたり、テレビ放映があればビデオ録画をしたり、これらのチェックには余念がないほどだった。

この「サイトウ・キネン・オーケストラ」の活動は、当時、「日本人の西洋音楽への取り組みが欧米の人たちにどう評価され、またどう受け入れられるのか?」といった尺度でも測られる部分があって、日本のクラシック音楽界にとっては、それは大きな「挑戦」の一つとして捉えられてもいた。

だからきっと、その「挑戦」の意味も含んでのことだったのだろう、結成後数年間、初期の頃(1987年~1992年)の「サイトウ・キネン・オーケストラ」は、ヨーロッパの伝統的な色を継ぐ音楽の、その一つでもあるブラームスの交響曲をプログラムのメインに据えることが多かった。

 

・・・ハイハイハイ、ようやく、「ブラームス」の登場だ!

 

《ブラームスとの接点?》

ブラームスの音楽との出会いについては、第11回(2016/12/15公開)で書き記させていただいた。また、この第11回では、ミュンシュ指揮、パリ管弦楽団が演奏するブラームスの「交響曲第1番」とサイトウ・キネン・オーケストラが演奏するブラームスのそれとを比較して、これも恐縮ながら簡単に述べさせていただいた。

 

で、何を申し述べようとしているのか?というと・・・、

 

つまり、当時からこんな私だものね、

「それなら・・・」

と、ショルティが指揮をするブラームスの交響曲とも、どうしても比較してみたくなってしまったのだ。これもまた、『とてもとても暑い夏』のときにだ。

まぁ、クラシック音楽ファンのおおかたの評判では、・・・ショルティは、ブラームスの作品などよりも、彼と同じハンガリー出身の作曲家で彼自身も師事したことのあるバルトークの作品、あるいはショスタコーヴィッチの作品など、そうでなければオペラ作品などの方がイイ、高く評価できる、・・・と、こうしたことも知ってはいたけれど、

「それでもだよ!」

と、決断が揺らぐことはなかった。

 

そして、ここから後の行動は、もう、いつものパターンしかなかった(笑)。

 

それは小学生の高学年の頃からで、社会人になってからも通い続けていた、例の物静かそうなオジさんが一人で営むレコード店へと向うのだった。ただし、このときは、幼い長女の手を引いて尋ねた。

当然のことながら、時間を掛けて店内をうろつく習慣もこの日に限っては抑えて、「ショルティ」と「ブラームス」のこの2つをキーワードに、これだけを目標にラック(棚)を探った。

そして、サー・ゲオルク・ショルティ指揮、シカゴ交響楽団の演奏で、ブラームス作曲「交響曲第2番」、1978年の録音のものを1987年に再版したCDを見つけた。この日、この店内で、この2つのキーワードを満たす盤はこれが唯一だった。

 

《ブラームス、ショルティ、シカゴが届けてくれたもの》

CDを買って長女と自宅へと帰る。

この頃には、少々丸々とし過ぎているのでは?と逞しくも見えるそのベビーベッドの中の赤ん坊(長男)を、妻と幼い長女との3人で覗き込みながら過ごすようになっていた。

 

早速、買ってきたCDを聴いた。

すると、収録されたショルティとシカゴ交響楽団のブラームス「交響曲第2番」からは、恐らく楽譜に書かれた一つひとつを忠実に音にしているからなのだろう、ここしかない最適と思えるテンポで、かつ、強も弱も澱みない常にバランスを保ったアンサンブルのこれによって起こる響きとともに、それは僅かにアメリカのオーケストラ特有の金管群の色が現れるものの、ブラームスであるからこそのオーケストレーションの巧みさによっても生まれる、優しさ、愛らしさ、優雅さと気品のこれもたっぷりと表現されて奏でられ、すべてが丁度いい具合にブレンドされた音たちとなって聴こえてきた。

これらは、「演奏する様子を想像して楽しむ」という小学生当時の自身にあった、言わば原点みたいなもののこれにも容易に応えてくれて、ショルティの指揮者としての技術と精神、併せて、ブラームスの音楽ならではの普遍的な愛をも感じる底知れね魅力もで、このすべてが相まってこそ伝わってくる音たちなのだろうなぁ~、とそう想わせてもくれるのだった。

・・・・

が、その当時のその瞬間に我が身に届いた音たちは、尚、これだけではなかった。

もう一つ、これまでそこにはなかった新たなる音も加わって在った。

それは、家族がまた一人増えた、『とてもとても暑い夏』の『とてもとても嬉しい出来事』と共に聴こえてくる音だった。

 

「今日の一曲」の第101回は、ブラームス作曲「交響曲第2番」を、サー・ゲオルク・ショルティ指揮、シカゴ交響楽団の演奏で、1978年の録音、1987年に再版したCD、これを取り上げながら諸々と語らせていただいた。

 

いつもながらの長文を最後までお読みいただき、感謝申し上げます。ありがとうございました。

 

本文と関連して、最後に、余計なことを申し述べさせていただきます。

家族とは、たいへん好いものであります。甘いかも知れませんが、そう信じます。

が、時には、たいへん厄介なものになり得るのも実際かと。

流れに任せておいても楽しく和やかに過ごしていては、それは自然と協和音を奏でることもできるのに・・・、時に、何故か、いつの間にか、不協和音ばかりが目立つときも・・・そんな家族もまた少なくないのではないでしょうか。

が、家族であるなら、どうか、できる限り、それは不協和音を鳴らそうとも共に前へと歩んで、また育んでいただきたく存じます。

(「ドメスティックバイオレンス(DV)」や「幼児虐待」などあっては話は別ですが・・・)

不協和音も、一つひとつの音のバランスを意識して鳴らせば、確りとそのアンサンブルに必要な和音となり得ます。その先の心地よき響きを奏でる為には欠かせない和音なのかも知れないのです。

私はこれらを成し得なかった者ですから、こう述べたところで何とも心もとなくまた恐縮に思いますが、それだけに、その大切さを、今更ながら身に沁みて感じております。

どうか、どうか、皆様には、よき日も、そうでない日も、が、幸せに家族と共に歩み続けて、その家族を家族と共に育み続けていただきたく存じます。そう心より願っております。

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《追記》

この頃(前後4~5年間ほど)、ひょんなご縁で、「日本人はクラシック音楽をどう把握するか」の著者である傳田氏と交流があって、傳田氏がちょうどこの本の原稿を書き始めた頃のこと。この同時期にもう一方で、日本語の言語研究などもされていたある方(お名前は伏せさせていただく)、この方がある学校の国語の教師でもあったことからこの方とも交流があって、私はこの方と傳田氏のお二人を引き会わせる役になったのです。そんなことがあったのも、長男が生まれたこの年の『とてもとても暑い夏』ことでした。