「教育を語りあおうよ音楽CafeーBarで」って何?

《きっかけ》---------

「何でこんなこと始めたの?」ってことですよね。

そして、「何をやろうとしている企画なのか?」ってところが、いま一つ分かりにくいかと。

そこでここでは、《問題提起》、《問題解決の糸口》、《企画の目的》、《内容(1・2・3)》と、項目ごと、これらについて順にご説明させていただこうと思います。

 

ですが、先ずはその《きっかけ》から。

 

今でこそ、シンガー・ソングライターとしての活動が中心ですが、実は私、30年余りに渡って教育に携わり、教育現場に居ながら多くの子どもたちと様々な形で(高等学校教諭、進学塾講師、オルタナティブスクール職員として)関わらせてもらってきた者でして、そこでは主に中学生・高校生たちと共に過ごしてきました。

(*2013年からは生活の中心を徐々に音楽活動へと移行しつつあったので非常勤講師や専任講師という立場ではありましたが、最終的には2019年3月まで教育現場に立ち続けました。)

 

その教育現場で子どもたちと過ごすなか、ある違和感を強くもつようになったのは西暦2000年頃からです。

「この子たち、目まぐるしく変化していくであろうこれからの社会や世界で、ちゃんと生き抜いていけるだろうか?」

「このままの学校教育で、より良い(好い)社会を築き上げていく人材など育つのだろうか?」

と。

その当時(2000~2010年頃)も、受け持っていた子どもたち(高校生たち)からは「先生の数学の授業わかりやすい!」などと言ってもらえて、有難いことに、そんな子どもたちの声に助けられてはいたものの、私自身は何か腑に落ちないものをどこかに感じながらで居ました。当然、「子どもたちの現在を活かすことと共に未来を見据えた教育を!」と、それは私なりに挑みもしたのですが、いま現在に至って当時を振り返ると、その10年ほどの間は右往左往していただけであったように思います。

その後、2010年から始めた音楽活動が思わぬヒントを届けてくれました。

音楽活動を通じては、特にライヴツアーなどで各地を巡っては、様々な地域の人たちとも、またこれ以前まででは出会えなかったような人たちとも交流する機会があって、恐らく、教育現場での経験とこれとが相まってだろうと思うのですが、「本当に大切なことって、こういうことなんじゃないの?」といった、それはこの時点では自身の感覚としてでしかなかったものの、何やらヒントめいたものが徐々に明らかになってきたのです。

しかしながら、私個人の感覚や経験則のそれだけで終えてしまってはならないと考えて、2012年頃からは、教育学、哲学、心理学、社会学、経済学、政治学などこれら各分野の基礎的な内容と共に、関連の学術分野における最新の研究成果なども調べて、当初それは“今更”といった感じも正直なところあったのですが、あらためてきちんと学んでいこうと、そう決めて取り組むことにしたのです。

そして、自身が教育現場で経験・実践してきたこと、音楽活動を通じて感じ得たヒント、学術分野における研究成果や理論から学び得ていること、これら総てを併せて、自分自身の考えをまとめ上げておくことも必要に思い、「日本の公教育の在り方」、「自立と自律のための教育」の探求に取り組むようになったというのがここまでの経緯で、こうして現在に至っています。

 

こんな私ではありますが、音楽活動を続けながら、これでも割と真面目に取り組んでいるのですよ。はい(笑)。

 

そこで、この企画「教育を語りあおうよ音楽Cafe-Barで」では、私が探求してきたことをお伝えしたいといった思いもあって、一部分ではこうした事にも時間を割くのですが、かと言って、まだまだ私も分からないことだらけでして(汗)、そんなことで、私が探求してきたそれよりも、様々な立場の人たちと対話を重ね、一緒に知恵をめぐらし考え合っていく、このことの方を重要視して進めていきます。またその方が現実的に物事も動いていく、と考えています。

ただ、熱心に意見や議論を交わし合っていると、こうした「教育」等をテーマにした場合、遂、冷静さを失って、その本来の目的よりも意見・議論を闘わせることばかりにエネルギーが注がれることもありがちかと。

そこで、「音楽Cafe-Bar」という幾分かリラックスできてゆったりと落ち着いた雰囲気の場が必要に思いました(哲学カフェのように)。それで、はじめた企画(2018年~)です。

 

【補足説明】

*「公教育」とは?・・・国や地方自治体が公共の制度・政策として、教育機関(幼稚園・小学校・中学校・高等学校・大学・専門学校(認可校)等の公立も私立の学校も含めて)を通じて実施する教育のことです。

 

*「自立と自律」については、後の《問題解決の糸口》で詳しく述べることにします。

 

《問題提起》---------

ここでは、私が問題・課題としているその事柄について提起させていただきたく思います。その際、皆様方にはその内容から些か悲観的過ぎるそうした面をお感じになる場合もあろうかと思いますが、私としては、そこに、皆様や社会を不安がらせるような意図は全くなく、希望もあるからこそ述べさせていただくわけで、どうか、そのようにご理解いただきたく存じます。

 

で、提起させていただくその中身についてですが、先ずはこれを簡潔に申し上げれば、日本の子どもたちはいま当に危機的状況のその瀬戸際に立たされている、ということになるかと。

但し、ここでは、“いま人類が抱いている観念”のこれも重く診ていて、すなわち、「現在、人類の多くが共通して抱いているであろう“国家”や“資本主義経済”を中心とした社会のこれへの観念はそう容易く変わらないだろう」という、このことを前提に、提起させていただきます。

もう少しだけ詳しく謂えば、前提としている“いま人類が抱いている観念”のこれが続く限りは、人々は(日本の人々も世界中の人々も)今後ますます目まぐるしく変化していくであろう社会・世界のここに居る外なく、併せて、今後ますます予測不可能な事態が増していくであろう社会・世界のここに暮らす外なく、その中で、「日本の子どもたちを取り巻く環境と機会には『深刻な問題』がある」「日本の子どもたちには、いま、彼らのその将来を『危うい状況』へと追い込んでしまうであろうことが、社会または大人たちの手によって、日々日常的に、無意識的に繰り返されてしまっている」との認識で、私からは、以上のような認識から《問題提起》させていただきたく思うのです。

また、ここで言う“日本の子どもたち・・・(日本に暮らす子どもたち…)”についてもこれをもう少し明確に示すならば、それは、いじめの問題を抱えた子ども、虐待の問題を抱えた子ども、自殺にまで及んでしまった子ども、ネット犯罪を繰り返してしまう子ども、など、こうした一般によく上げられる問題のこれらを抱えた子どもたちだけを指すのではなく、更には、学業成績が優秀な子どもも、抱えた病気や障がいなど特にない子どもも、経済的に比較的恵まれた子どもも、家族と仲良く過ごしている子どもも含めてで、つまりは、“日本の子どもたち全て(=日本に暮らす子どもたち全て)が対象である”ということなのであって、そのようにご理解いただけらと思います。

 

いやぁ、早速、悲観的な言葉ばかりが並んでしまいましたかねぇ。恐縮です。

 

皆様のなかには、“これは極端な偏った見方だ”とのご意見をお持ちになる方もいらっしゃるかと思います。もちろん、そう受け取っていただいても構いません。ただ、“深刻な問題”、“危うい状況”といったこれらをまったく無視するような状況にはないこと、たとえ厳しい状況のその度合は兎も角としても、子どもたち皆がピンチなんだよぉ~、というこれについては、少なくともご理解いただきたく存じます。

いや、ご理解いただけなくとも、皆様方それぞれがご自身で、あらためてこの点についてじっくりと丁寧にお考えいただけたらと存じます。

 

【補足説明】

*細かなことを謂えば、ここで述べている“日本の子どもたち全て”のこれに該当しない例外的な子どもたちも、現時点では、それは僅か少数になるとは思いますが、実際には居ると考えています。その“僅か少数の子どもたち”に関しては、同ホームページ「読楽論文」のページで公開中のエッセー「新型コロナウイルス対策と日本の社会を『自立と自律』の教育から視る」の《第1章:日本の社会と教育の現状》の終盤、“少数の大人”に触れて述べている部分があるのですが、これとほぼ同様に考えて良いかと思います。ただ、こうした子どもたちの身にも、先に述べたような「深刻な問題」や「危うい状況」のこれが徐々に迫りつつあることは確かで、こうした場合も含めて、ここでは“日本の子どもたち全てが対象である”としています。

 

では、“日本の子どもたち全て”に関わる「深刻な問題」とは、「危うい状況」とは?

次は、「深刻な問題」と「危うい状況」の、これについて、少しご説明させていただきますね。

 

ずばり、その根底に在るのは、人が育っていかない、人材育成がおざなりにされている日本の“現状”です。もう少し掘り下げて謂うと、いま、急速な変化や予測不可能な事態がますます増えつつある社会・世界において、日本に暮らす人々のうちの多くが、それは子どもから大人までの多くが、「各人が『自立』して生きていくために真に必要となる能力(各人にとってはその土台ともなるべく能力=「自律の力(自律)」)を十分に養い備えもつことができないまま生活をしている」この日本の“現状”です。

要は、『自立』することが難しい、『自律の力(自律)」を十分に備えもつことができない、日本の“現状”のこれにこそ、「深刻な問題」が在り、「危うい状況」が在る、ということです。

 

ここで謂う『自立』とは? また、『自律の力(自律)」とは?

 

●『自立』とは、各人がその能力を活かし、また他者の能力とも活かし合い社会と調和して生活していること、併せて、そうした生活が持続していける状況にあること

●『自律の力(自律)」とは、『自立』に必要な能力で、各人にとっては様々な物事に対応する上で土台となる能力のこと

 

一先ずは、上記のように定義しておこうと思います。

 

続けて、『自立』することが難しい、『自律の力(自律)」を十分に備えもつことができない、その要因についても触れておきましょう。

『自立』することが難しい、『自律の力(自律)」を十分に備えもつことができない、その主な要因は、一つには、日本の教育(公教育)におけるその教育手法と教育システムが長き(20年以上)に渡ってひどく遅れたままであること(*詳しくは後の【補足説明】に記載)。もう一つは、前提としている“いま人類が抱いている観念”とも絡んで、こうした教育の遅れをも長年に渡って補ってくれていた、日本人と呼ばれる人々がかつて古き時代から培い備え持っていた「共感する力」(*詳しくは後の【補足説明】に記載)を、現在に至っては、これを養い磨いていくための環境を多くで失いつつあることが深く関係していると、そのように考えます。

 

その上で、日本の“現状”に在る「深刻な問題」と「危うい状況」について、もう少し詳しく見ていきましょう。

 

先ずは、未来ある子どもたちの身に置き換えて、日本の“現状”を見ていきます。

 

“現状”のこれを、特に未来ある子どもたちの身に置き換えた場合には、子どもたちは“急速な変化や予測不可能な事態がますます増えつつある社会・世界”のここを生きていくために・・・またいずれは『自立』して生きていくために・・・そこで真に必要となる能力(「自律の力(自律)」)を養っていくにもますます困難な環境にその身が置かれていってしまう“現状”に居ることになるわけで、こういったことが既に現実として起きてもいながら更には進行していってしまうことになります。しかも、このとき子どもたちは、自身らが自覚するそれも無いまま、ただ無自覚のうちにいつの間にかこうした環境へと置かれていってしまうのですそして、こうした環境に置かれた子どもたちは、その必要となる能力を備えもつにもこれを得る機会には教育(公教育)の場を含めてこれに出会い恵まれることは殆んどないまま歩んで行くことになるわけで遂には、そのまま社会へと放り出されることに。つまりは、『自立』して生きていくために本来であるなら身に付けるべきその土台ともなるべき能力(「自律の力(自律)」)が乏しいまま大人へと成長していってしまう、そんな現状と未来に立たされ続けていくことになるわけです。

 

こうしたいま申し述べたような“現状”については、本来であるならその解決のために最も頼りになるはずの学校など「教育(公教育)の場」に真っ先に目が向けられて当然で、これを逆説的に捉えて謂えば、その為、「教育(公教育)の場」において在る現状がいま最も深刻であると言わざるを得ないのですが、残念なことに、事はこれだけに収まらない、というところまできてしまっているかと。

それはどうしたって、いま述べた“現状”のこれを、日本の社会全体へと置き換えた場合には、『自立』して生きていくために真に必要な能力(『自律の力(自律)』)を十分に備えもつことができないまま大人へと成長した、そうした「バランスを欠いた大人(=“土台となる能力”のそれをも欠いた大人)」増え続けていく社会に現状はあるわけで現状のこれがこのまま繰り返されてしまうのであれば、この先に待ち受けている社会で子どもたちは、否応なしに、各世代に渡って次々とその後も増え続る「バランスを欠いた大人」に混ざって育っていくことになるわけです。

よって、“現状”のこれを正しく認識するならば、子どもたちだけが、あるいは、「教育(公教育)の場」だけが深刻な問題を抱えているのではなく、これについてはもう、「家庭」や「地域社会」でも、「日本の社会全体」においても、ここで述べている深刻さのこれは現時点で既に常に生み出されてしまっていて、と同時に、深刻さのこれによって浸食され続けてしまってもいると、謂えば、日本の社会も、日本の社会のここに暮らす子どもたちも我々大人たちもそんな危うさを抱えているのだと理解すべきで、いや、私も含めて、大人たちこそが、そう自覚していく必要があるのではないかと、考える次第です。

 

ぅん~、少し悲観的過ぎるかな・・・。

 

が、これについては既にいろいろな形で社会的な問題や事件となって現れ始めていて、そうした出来事から、皆様ご自身もその危うさを感じる瞬間が時としてあるのではないでしょうか。

 

では、“現状”のこれを、より具体的に、それもいま目の前で起きている実際の例を上げて、ご説明しましょう。

ここで例として取り上げるのは、2020年度から小学校・中学校・高校で順次完全実施となる「アクティブラーニング:主体的・対話的で深い学び」そう遠くない将来に導入されるであろう「人工知能AIによる学びの個別化」、これらです。

ちなみに、「アクティブラーニング:主体的・対話的で深い学び」とは、これまでのような教師から子どもたちへと一方向的に知識だけを蓄えさせる授業、その画一的な講義形式中心の授業ではなく、教師と子どもたちとでやり取りされる対話や子どもたちどうし互いが交わし合う対話など、他者と物事を共有するこういった機会を大切にしながら、子どもたち個々が自ら考えたり深く実感したりしながら学んでいけるような、学ぶ側の子どもたちこそが主体となる授業を展開していきましょう、というものです。もう一つの「人工知能AIによる学びの個別化」は、たとえ同学年どうしであっても、子どもたち個々の発育や発達具合には差があるのが当然で(特に小学生低学年においては)、それ故、物事への理解度や、学習においてであるならその習熟度にも差が生じるのはむしろ当然で、こうした点から、子どもたちの学びを子どもたち個々にもっときめ細かく対応していきましょう、というものです。子どもたち一人ひとりの理解度や習熟度をより丁寧に把握して、それぞれ個々に応じた課題をAIに依って合理的(「効率的」ではなく)に示していくことで、少しでもその差を補ってあげられるようにしましょう、というものです。もちろん、AIが可能な範囲(暗記しておきたい事柄など、知識の定着度に関してのことが主になるでしょう)についてのみですが。

 

申し上げておきますが、私個人は、こういった教育手法が教育の場に導入されることのこれ自体には、賛成な方です。

というのも、日本の教育(公教育)においてこれらの教育手法は、先からのべている『自立』や『自律の力(自律)』を養うそこへと繋がるための環境と機会を子どもたちに提供し得るものであり、その第一歩ともなり得るからです。

 

しかしながら、これらは、いま現在のこのままでは、「ここから先の時代にも即した先進的で良質な教育をしますよ~」と謳いながらも恰好だけの見せかけにしか過ぎないものばかりが増えてしまいかねない、そうした状況にあります。

このことは、公教育の場においても、塾や教材販売などに関わる教育ビジネス業界においてもで、多くは実際の運用に当たって正確かつその本来の意味を理解するといった認識が十分に成されていないために引き起こされます。誤った理解や認識不足から、教育を提供する側は然したる罪悪感もなく無自覚なまま、先に上げたような“恰好だけの見せかけにしか過ぎないもの”を提供してしまう、そんな無責任な行為に及んでしまいます。当然のことながら、提供される子どもたちやその保護者たちの側がこれに気付くことはたいへん困難です。それだけに、事は深刻な問題であり、問題の解決に向けてこれが急務であることは最早必須でもあるはずなのですが(*「アクティブラーニング:主体的・対話的で深い学び」と「人工知能AIによる学びの個別化」のそれぞれの現状については、後の【補足説明】に記載)。

では、何らか対策は進められているのでしょうか?

答えは、“NO”です。

現在までのところ、国(文科省等)も、各公教育機関(小・中学校、高校等)も、教育ビジネス業界も、あるいは社会全体としても、このどれにおいても、ここに在る“深刻な問題”を解決していくような動きはなく、対策となる実効的な手立てなどはそれこそ何も進められていないわけで、これが実態です(もちろん、個別的に見れば、きちんと対策を練っている、そうした教師の方は居ますし、またそうした学校等の存在が全く無いというわけではありません。ただ、非常に限られたケースでしかないのです(*詳しくは、後の【補足説明】に記載))。

つまり、現状では、本来であるなら優れた手段ともなり得る「アクティブラーニング:主体的・対話的で深い学び」も「人工知能AIによる学びの個別化」もその効果を発揮しない、むしろ、子どもたちがもつその能力さえも台無しにしてしまいかねない、そうした危うい状況に在る、ということです。

 

以上、申し上げた事柄から、皆様には、子どもたちを取り巻く環境と機会が、いかに「深刻な問題」を抱えているのか、またどれほど「危うい状況」に在るのか、僅かながらでもご理解いただけたらと存じます。そして、「深刻な問題」や「危うい状況」のこれを子どもたちへ押しつけているのは、その子どもたちよりも先に『自律の力(自律)』を失いつつある大人たちの無知と大人たちのこのことへの無自覚と無責任さで、こうした大人たちがつくる社会の、日本の“現状”にあることを、確りと受け止めていただけたらと存じます。

いいえ、そうではなかったですね。これをきっかけに、それぞれがご自身でじっくりと丁寧にお考えいただたらと思います。

 

これら“現状”をあらためて総じて申し上げるなら、子どもたちへの教育、殊、日本の公教育について謂えば、「子どもたちが本来もっている能力を豊かに伸ばして育て上げていく教育」=「各人が『自立』して生きていくために真に必要となる能力(自律の力(自律))を育成していく教育」これは、依然、成されないまま放置された状況に在るということ。また更にこれを日本の社会全体として捉えた場合には、「バランスを欠いたままの教育」と「バランスを欠いたままの社会」の悪循環とでも言うべきでしょうか、こうした悪循環が繰り返されている状況にあるわけです。

当然、これらの問題をこのまま放置するならば、それは子どもたちの能力育成や教育の問題だけに留まらず、やがては、いや遠からず、日本という国全体のここへも深刻な問題が及ぶことになるでしょう。

そして、そのとき、日本という国においては、「常に変化を伴う社会・世界に対して、そこで生きていくために必要な能力を十分に備えもたない人々が増え続ける」、「より良い(好い)社会・世界へとそれを提案・構築していくことができる人材が育成されない」、「急速な変化や未知なる問題・未曽有の出来事にも対応し得る人材が育成されない」といった社会崩壊および国家崩壊への道を辿る、そんな危うい状況が現実となって目前に迫ってくるかと。

 

確かに、前提としている“いま人類が抱いている観念”のこれが簡単に他へと変わることがあるなら、ここで述べていることも然程問題とはならず、自ずと解決の方向へと向かっていくことでしょう。

が、そうではない限り、現状は、「もういくら何でもマズイんじゃないの?」といったところまできているように思います。

とは言え、これらの問題を解決する道(方法)が決してないわけではない、と考えます。

次は、これらの問題を解決するためのその《問題解決の糸口》について述べさせていただきます。

 

【補足説明】

*「自立」および「自律の力(自律)」についても「自立と自律」とともに、後の《問題解決の糸口》で詳しく述べることにします。

 

*ここで述べている「共感する力」とは、「他者の痛みを自然と(=見返りを期待する思惑などなく)思いやる心の感度」と「自らの思考力と行動力」とを併せ伴うもので、こうした感度および能力のことを言っています。ただ単に、他者や多数側に歩調を合わせるといった意味ではありません。自ずと(自然と)他者を想う感度とともに、自らの思考と自らの行動のその働きがあってこその「共感」を指しています。・・・「共感」という言葉は色々な意味に解釈されることがあるので念のため明記しておきます。尚、「共感する力」については同ホームページ「読楽論文」のページにて公開中のエッセーのこちらで、詳しく述べさせてもらっています。

 

*私個人は、「アクティブラーニング:主体的・対話的で深い学び」と「人工知能AIによる学びの個別化」に関してはその本来の狙いが見失われることなく正しい認識のもとに運用されるのであれば、好ましい手段・手法の一つであると考えています。誤解無きよう(汗・笑)。

 

*「アクティブラーニング:主体的・対話的で深い学び」に関しての現状を言うならば、これを実践するだけのスキルを備えもった教師・講師らが教育現場のそこにどれほどいるか?です。地域格差やら学校間格差やらのこれも激しくなりつつあるなか、日本全国に渡って眺めた場合には、多くても3割くらいでしょう。つまり、現状では、“本物のアクティブラーニング”を子どもたちの前で展開させられる教師・講師があまりに少ないのです。一つには、現場の教師・講師らがアクティブラーニングを正しく実践する上での、そのための研修や実践的トレーニングを積むそうした環境や機会が殆どないこと、これが要因かと考えます。

 

「人工知能AIによる学びの個別化」に関しての現状を言うならば、教育の場において、特にその教育を提供しようとする側において、“AI”というものについての知識があまりに足りていないということです。AIにも得て不得手があります。また、どのようなデータを基に開発されたAIであるのか、これに依ってもAIはそれぞれの機能や性質が異なってきます。ですが、“AI”というだけで、「先進的なもの」、「効率的なもの」、極端な場合には「完璧で間違いがないもの」といった思い込みで、この程度の認識で利用しようとしている面が多々見受けられます。子どもたちの、どんな場面で、どのようなタイミングで、どういった機能・性質のAIを活用するのか、肝心となるここが見落とされているケースがたいへん目立ちます。悪質に近いケースとしては、客寄せのためにAI導入を謳っているような場合も見受けられます。

 

*日本の国家としての学校教育(公教育)が形創られていったのは明治維新以降ということになります。その日本の学校教育(公教育)ですが、なんと、根本的な教育手法の、これについては、明治時代の中期から現在に至るまで、長きに渡って全く変わっていないのです。もちろん、社会の状況や歴史的な流れから、そこに必要される知識や教育内容、あるいは制度の在り方については色々に変化もして改良もされてきました。しかしながら、根本的な教育手法は、変わらず、「コンテンツ・ベースの教育」と呼ばれる「他者(教師)から得た情報・知識を正確に蓄えることができる人材の育成を目的とする教育」のこれを土台とした手法が用いられてきているのです。現状およびこれから先の社会・世界を見据えては、「コンテンツ・ベースの教育」のこれだけでは、もう幾ら何でもそこにはそぐわない、遅れた「教育(公教育)」を無理やり子どもたちに強いるだけになってしまうわけで、最早、劣化した「教育システム(仕組み)」であると言わざるを得ないでしょう。

 

*日本の教育(公教育)現場を個別的に眺めれば、これまでも、また現在も、現状と併せてこれから先の時代を真に見据えた教育を目指して、これに熱心に取り組む教師がいて、またこうした教師が集まった学校においては、様々に工夫が成された教育が実践されてもいるのですが、それは、ここに出会えた子どもたちに限っての“ラッキー(幸運)”でしかなく、“たまたま”でしかないのです。現状において、実質的に、日本の学校教育(公教育)の「教育手法」および「教育システム(仕組み)」はそのようになっていません。日本国内に広く行き届いているわけではないのです。

 

*上記「コンテンツ・ベースの教育」に対して在るのが、「コンピテンシー・ベースの教育」です。これは、情報・知識を蓄えたところで終えてしまうのではなく、「情報・知識をもとに何ができるのかを考える能力(思考力)の育成、他者と共にコミュニケーションを図りながら問題・課題を解決していく能力(実践的スキル・行動力)の育成、これら能力を合せもった人材の育成、といったこれらを併行的に進めていくことを目的とする教育」で、これに基づいた教育手法を求めています(狭義的な意味だけで謂えば…ですが)。先に述べた「アクティブラーニング:主体的・対話的で深い学び」も、本来はこの「コンピテンシー・ベースの教育」に基づいた教育手法の一つとしてあるべきなのです。

 

《問題解決の糸口》--------

ここからは、厳しい“現状”を踏まえながらも、「希望」へと繋がるその道(方法)について述べさせていただきます。

 

さて、常日頃から、日本の社会で日々起きている問題とそこにあり続ける様々な課題の、それぞれ個々の問題・課題に深く関わって御尽力されている方々のその姿勢と対応には本当に頭が下がる思いでいます。また、この方たちの取り組みがあって、いま、まだ、日本の社会も日本の教育もどうにかこうにかぎりぎりのところでもち堪えているのだと、そのように感じます。

しかしながら、これら各個別の問題・課題のここに共通して潜めくその根本へと切り込んだ対策や取り組みについては、残念ながら、現在までのところ具体的な対策も実効性を伴った取り組みもなく、こういった状況もまた実態なのだと言わざるを得ません。

そして、各個々の問題・課題のここに共通して潜めくそれも、先の《問題提起》で述べた事柄とその根本では同じなわけで・・・。

私としては、子どもたちに在る「深刻な問題」と「危うい状況」のこれとともに、問題・課題の全てを根本的なところから解決していくには、やはり、『自立』することが難しい、『自律の力(自律)』を十分に備えもつことができない、この日本の“現状”を変容させる道(方法)を探る外ない、というように考えたわけです。

 

そこで、各個別の問題・課題に関わってご尽力されている方たちの数々の対策と実践的な取り組みをヒントにしつつ、先ずは私なりにではあるのですけれど、30年余りに渡って教育現場に立ち続けてきた経験と、音楽活動を通じて出会った人たちからやツアーなどで訪れた先の各地域に在る習慣・文化から感じ得たこと、更には、教育学をはじめ、哲学、心理学、社会学、経済学、政治学などの各分野における研究成果を学際的に眺め調べてきたこと、総てを合せて、どうにか解決へと繋がる道(方法)はないものか、とこれを様々な角度から探ってきたわけでして・・・。

その過程においては、一旦、『自立』や『自律の力(自律)』といったことからも離れて、そも、“人が生きて死ぬとはどいうことなのか?”、“人はどう生きたいのか?”、“教育(公教育)が本来果たすべき役割とは?”など、できるだけ根本的な事柄から順に辿っていくように試みたつもりでして・・・。

そうしていくうちに、『如何なる時代や社会・世界を目の前にしても、様々な個人がその能力を活かし合って生きていくための目標・軸』が必要ではないか・・・それはどうしたって、社会・世界は常に変化していくのであって、そこで各個人は生き抜いていくだけの力を養い備えもつ必要があるわけで、しかも、他者との共存も無視はできないのだから・・・といったことを考えたりして・・・。

だとすれば、それは、「お互いの自由を守る(=「自由の相互承認(*詳しくは後の【補足説明】に記載)」)ための目標・軸」であるべきで、併せて、「社会全体にとっても、個人一人ひとりにとっても、それが根幹をなす目標・軸」であるべきではないか・・・。

とまぁ、こういった「目標(道標)」・「軸」が必要ではないのかなぁ、と考えたわけです。

 

で、結論的なこととしては、《問題提起》のところで述べた『自立』と『自律の力(自律)』の定義をあらためて再定義し直すのが好いのではないだろうか、と。同時に、再定義したそれが、各人、その誰にとっても根幹をなす「目標(道標)」・「軸」となるように提示するのが好いのではないだろうか、と考えた次第で。こうして探り辿ってきた先に見えてきたのが、ここで提示する大テーマ、「自立と自律」です。

 

現時点においては、先ずは一つ、「自立と自律」が《問題解決の糸口》になるのではないかと考えています(*但し、ここでも、先の《問題提起》で述べた“いま人類が抱いている観念”・・・「現在、人類の多くが共通して抱いているであろう“国家”や“資本主義経済”を中心とした社会のこれへの観念はそう容易く変わらないだろう」・・・が前提となります)。

 

**【自立と自律】**

以下は、「自立と自律」、「自立」、「自律」それぞれについて、あらためて再定義したものです(*このページ下段に載せた資料「子どもたちの自立力育成を探求して(第1編・詳細編)」と同じく資料「第2編」も参考にしていただけたらと思います)。

 

●『自立と自律』は、各人その個人が(社会のなかで)如何なる境遇にあろうとも、また各人一人ひとりがどのような道を辿って生きていくのかその生き方は様々で自由であるにしても、決して逸れてはならない、誰にも共通した根幹をなす「目標(道標)」・「軸」として提示するものです。このように、『自立と自律』は、先ずは各人へ向けた目標(道標)・軸として提示するものですが、各人その一人ひとりが『自立と自律』のここを目指すようになれば、自ずと社会も変わる、この日本の“現状”も少しずつ変わっていく、と考えて提示するものです。

 

●『自立』:各人がその能力を活かして、また他者の能力とも活かし合って、社会と調和して生活し続けていくこと <目指すべき行動面での目標>(*但し、「社会」とは、常に変化を伴うもの、また人々の思考によっては変化させていくことも可能なもの、と考えてこれを謂っています。)

 

●『自律』:『自立』に必要な知識、思考力、感性、実践的スキル(行動力を含む)を絶えず身に付けていこうとする姿勢と、こうした姿勢から身に付けた能力を含めて、自らが自身の能力を総合的にコントロールする力(統合能力)をもつこと <自立に必要な能力面での目標>(*各人が様々な能力(感性を含む)を養い研いていく場合にも、『自律』がその土台となります)

 

といった定義で、現時点では提示させていただいております(*2018年12月に資料作成→2022年3月にこの一部を上記のように改訂)。

尚、資料では、この『自立と自律』を目指す上で必要となる「日々の育成・養成面での目標」といった特に「自律の力(自律)」の育成および「自由の相互承認の感度(*詳しくは後の【補足説明】に記載)」を養うのための方法論的な原則と、「土台となる心理面での目標」といったこれら能力を身につけようとするときの人の内面に関わる指針も一緒に提示しています。

*******

 

いや、決して簡単ではないのでしょうけれどね、『自立と自律』を目標(道標)・軸に、更にはこれを具現化する手法を見出していくことで、《問題提起》で述べた事柄の多くがその根本的なところから解決できるのではないかと考えます。

 

例えば一つには(ここでは簡単に概略だけを述べますが)、学校教育(公教育)では、「コンテンツ・ベースの教育」に偏っている現状から、ここに「コンピテンシー・ベースの教育」(特に「プロジェクト型の学び」)も上手く組み入れていって、双方が効果的に機能し合っていく、そんな教育システム(仕組み)なり教育手法なりを見出すことができれば、日本の学校教育(公教育)における子どもたちの学びも自ずと『自立と自律』を具現化するものとして変化・変容していくことでしょう。併せて、これに伴って、評価の方法や入試制度、進路相談などを含むキャリア教育の在り方、メンタル面でのサポートの仕方、特別支援教育やインクルーシブ教育の在り方など、学校教育に関わる他の多くの事柄も一緒に連動しながら変化・変容していくことでしょう。また、学校教育(公教育)のこれがこのように変化・変容を見せれば、その学校に通う子どもたちから子どもたちの保護者へと、保護者たちから家庭や地域社会へと、もしかしたら、職場や広く日本の社会全体へも、この『自立と自律』を目標(道標)・軸に置いた考え方や行動が拡がっていくかもしれません(*「コンテンツ・ベースの教育」と「コンピテンシー・ベースの教育」についての詳細はそれぞれ前の【補足説明】に記載 *「プロジェクト型の学び」については後の【補足説明】に記載)。

そして、少々飛躍して謂えば、将来、『自立と自律』を目標(道標)・軸にした教育に依って育った子どもたち(人たち)がいよいよ社会へと活躍の場を拡げていったとき、そのときにこそ、この人たちの手によって、「誰もが『自立』した人生を歩み、併せて、自由で平和に共生できる世界を築いていく」と、それはたとえ僅かずつ徐々にであってもそこへと繋がっていくと、考えてもいる次第でして・・・。

 

いや、少々綺麗ごとを言い過ぎたかな?

 

しかしながら、これらは急速な変化・変容であってはならない、“早期に取り掛かって少しずつ時間を掛けて変えていくのが良いと考えています。

確かに先に述べた《問題提起》からすれば急ぐ必要があるのですが、ただ急ぐだけであっては、その新たな教育を受けて育っていく子どもたちと社会の変化・変容とのそこに喰い違いが生じてしまいます。物事を新たな方向へと変化・変容させていくにあたっては、これまで私たち(日本の社会)が辿ってきた道と、その道を私たち(日本の社会)がどのように歩んできたのかを無視することなく、過去・現在の歯車とも力強く噛み合うが如く将来・未来へと進めていく必要がある、と考えます。・・・(*前提の、“いま人類が抱いている観念”のこれからも、そうせざるを得ないと考えます。*私が何故「世界の子どもたち…」を対象とせず、「日本の子どもたち…」だけを対象としているのかについても、ここに理由があります。というのも、各国・地域の、歴史や文化、あるいはそこに暮らす人々のイデオロギーのこれらに対しては、私自身がこの身で実際に感じられているこれを超えたところのものであり、軽々しく踏み込んで述べるべきではない、と考えたからです。)

 

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(タイムリミット:2022年1月17日 追記)

ここで、前提としている“いま人類が抱いている観念”について、すなわち、「現在、人類の多くが共通して抱いているであろう“国家”や“資本主義経済”を中心とした社会のこれへの観念はそう容易く変わらないだろう」という前提について、私の、本音というか、本心を申し上げておこうと思います(…上記に述べたこれとは矛盾しているかと思いますが。)

私のその本心を謂えば、出来得るならば、“いま人類が抱いている観念”のこれが次の段階へと変化・変容してはくれまいか、と考えていまして、実のところこれを願ってもいるわけです。それも可能な限り早急に。特に“資本主義経済”を中心とした社会のこの循環からは、人類は出来るだけ早期のうちに抜け出すべきだと考えます。

その理由として上げられるのが、“地球環境”および“気候変動”に関する問題です。これらの問題については、解決すべくそれへのタイムリミットがもう目の前に迫っています。遅くとも2030年までには新たな社会へ向けてシフトしていくそれを開始する必要がある、と考えます。

ですが、どうも、これら地球規模で起きている問題について真剣に考え取り組んでいる人は、極一部の人たちだけのように思います。例えば、一つ、近頃よく耳にする「SDGs」とやらも随分と危ういものに感じます。ま、「SDGs」なる目標のこれを掲げて行動を起こそうとするこれ自体は、まだ、良しとしましょう。ですが、これを何かのキャンペーンかの如く、そんなふうにして進めている限りは非常に危険に思います。何故、これを目標に掲げることになったのでしょうか? そもそも何を解決しないとならないのでしょうか? いつまでにこの目標を遂げなければならないのでしょうか? 真剣に考えを巡らしてこれに取り組んでいる人がどれだけいるでしょうか? いや、誰かに任せておけばその誰かが解決してくれる、とでも思っているなら、それだけは間違いです、と申し上げておきましょう。

現状がこんなんで、“いま人類が抱いている観念”のこれが次へと早急に変化・変容するのか、いやぁ、たいへん難しい状況にあると思います。資本主義経済を中心とした社会のこれへの人々の観念は、人類から、正しく思考する、というその能力さえも奪い取ってしまっていますから、危機的な状況にあるのだ、というこれを認識することさえ困難なわけです。ちなみに、こう謂っている私も、未だ、十分には認識できていない一人であるかと。

そんな次第で、“いま人類が抱いている観念”のこれだけは、私如き者がどんなに騒ぎ立てようともこれを変えることはできません。人類の一人ひとりが自身に問い、考え、どうすべきかを見い出し、自覚を以て行動するほかないのです。

私如き者が、他者様に向けて働きかけられることがあるとすれば、それは、如何なる社会が待ち受けようとも各人が生きていけるよう、そのための能力とは何か、またこれを育成する方法なり道を提示するところまでなのです。ただ、こうした教育を受けて育った者たちの手に依って新たな社会を構築していくその機会はこれまでよりもずっと増すのではないのかな、とそんな期待を抱かないわけでもなく、僅かにそれだけが希望でしょうか。

確かに、こんな具合であっては、タイムリミットのそこに間に合うかどうかは非常に難しいように思います。が、間に合うも間に合わないも先に起こる真に確かなことはいまこの時点では誰にも分からないのであって、私としては、何者でもない私が出来得るこれに取り組み続けていくほかないと感じています。

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まぁ~、ここまで色々とごちゃごちゃと述べてまいりましたが、もう少し平易な言葉で申し上げるのであれば、子どもから大人まで、誰もが、「よく学び・働き、よく遊び、よく眠る」ことができる教育や社会の仕組みにならないものかなぁ~、ということを大真面目に考えているわけでして、これを皆で考え取り組んでいくことができればと思っている次第です。

 

いずれにしても、誰もが欠かしてはならない誰にも共通した「目標(道標)」・「軸」が必要で、が、誰をもそこへと縛り過ぎない「目標(道標)」・「軸」でそれはあるべきで、こうした「目標(道標)」・「軸」を恐れず諦めることなく提示することが、いまは重要に思います。

 

何も『自立と自律』が全てで絶対的であるなどとは考えていません。むしろ、教育や子育てなどに“絶対”や“完全”を求めてはならないと思いますし、正直に言えば、私自身にも半信半疑なところはあって、前提としている“いま人類が抱いている観念”のこれが変わらずして日本の“現状”が変容することなんて本当にあり得るのだろうか?と。まぁ、《きっかけ》のところでも述べた通り、まだまだ分からないことだらけなのです。もちろん、私としては、こうした点についても慎重に見極めたつもりではいて、現時点では、『自立と自律』が提案し得る大テーマである、との考えでいます。が、様々な立場にいらっしゃる皆様方と共に考え合っていくこともまだまだ色々に必要で、子どもたちのより好い(良い)未来のためには越えなければならない山や谷もまだまだ沢山あるのだと感じています。

 

そんなわけで、「教育を語りあおうよ音楽Cafe-Barで」という企画は、こうした一連においての一つのきっかけです。『自立と自律』を基本テーマに、皆様と共に考え合い、より確かな「目標(道標)」・「軸」を見出すことができたらなぁ、それを具現化する手段を見つけ出すことができたらなぁ、という趣旨で開催するもので・・・、いや、これはもう、願いですかね。

 

【補足説明】

*「自由の相互承認」とは、“お互いの自由を認め合う”こと、“お互いの自由を守る”ことです。各人が「自由の相互承認」のこれを容認・意識するためには、他者と様々なやり取りや体験(協同作業など)を通じて感性を研き、これへの感度(「自由の相互承認の感度」)を養っていくほかありません。

 

*「自由の相互承認の感度」を養うことと、先に述べた「共感する力」を磨き養っていくことは非常に近い事であるように思います。いま失いつつある「共感する力」のこれを補い、また少しでも取り戻すためにも、「自由の相互承認の感度」を高めていくことは重要だと考えます。

 

*「プロジェクト型の学び」も、「アクティブラーニング」と同様に、「コンピテンシー・ベースの教育」を具現化する手法・学習活動の一つで、が、“既知の答えや正解といったものがない物事を題材”に進めていくところが特徴で、「自らの疑問・問いかけ」→「仮説」→「調査・実験・実習(を繰り返す)」→「(自由な意見をもった)報告」→「他者との共有」→「振り返り」→「新たな疑問・問いかけ」→「新たな仮説」・・・といった流れを基本に進めていって、問い続けていく姿勢(=考える力)や共通了解可能な解決策を探り見出そうとする姿勢(=考え合う力)を育みながら、社会性を伴った学びの力を養っていく、ここに主眼を置いた手法です。

 

《企画の目的》----------

1)先ずは、ここまで述べてきた《問題提起》および《問題解決の糸口》を基に、様々な立場の人たちとこれらについて共に語り合い、考え合い、皆で知恵を出し合っていく、そのための環境と機会(場と時間)を提供します。

 

2)その上で、日本の社会と教育(公教育)において、

『自立と自律』を目標(道標)・軸に(『自立と自律』よりも好ましい目標(道標)・軸が見出すことができればそれでも良いと思いますが・・・)、これを具現化する方法・仕組み

「未知なる問題や未曽有の出来事にも対応し得る人材の育成」、「より良い(好い)社会へとこれを提案・構築していくことができる人材の育成」、これらを実現するための方法・仕組み

この①、②のような方法・仕組み(=「よく学び・働き、よく遊び、よく眠る」を実現するための社会や教育の方法・仕組みを見出していくことを目指します

 

3)上記の1)と2)を進めていくために、

③幅広く様々な立場にある大人の皆さんに参加を呼び掛けて行います。

・子育て中の親御さん、保護者

・幼稚園の先生

・小・中学校・高校などの先生

・スクールカウンセラー

・保育士

・地域ボランティア

・企業等の人事(教育)・採用担当者

など。

④互いのアイデアや考え方を尊重し合う場としてこれを前提に進めていきます。

⑤皆で「共通了解可能」な道筋や方策を探るそのための対話や思考を互いに重ね合っていきます。

⑥適度な緊張とリラックスさのある環境を用意するために「音楽Cafe-Bar」で行います。

これら③~⑥を基本ルールに進めていきます。

 

和やかな雰囲気の中で、様々な人たちと共に皆で語り合いながら、互いに深い思考を重ねていくことができればと思います(哲学カフェのように)。

 

《内容1:講演と相互対話》------

*****************

上記の《企画の目的》にしたがって、大テーマ「自立と自律」を4つの面から考えます。

 1.子どもの能力の特性 

 2.学校教育(公教育)

 3.家庭での子育て 

 4.地域社会との関わり

*****************

①上記の1.~4.それぞれの問題点や問題解決の糸口の基本となり得る事柄については、愛間純人から「講演」という形(各15分程度)で参加者の皆さんにご説明させていただきます。

②上記①を踏まえて、途中、内容ごとに、任意3~4人のグループに分かれて参加者どうしで、考えやアイデアを相談し合っていただくなどの時間として、「相互対話」の機会をつくります。

 

《内容2:音楽ライヴ》-------

これらの間に、あたたかく優しさのある(…と聴いてくださる方々から言っていただくことが多い)アコースティックな音と歌声の「音楽ライヴ」を挟み、リラックスできる時間と空間をお届けします。

難解な問題・課題に向き合いながらも、幾分か非日常的なリラックスできる空間と時間のなか、これによって、豊かな発想と知恵を参加者互いで持ち寄り合うことができればなぁ~、と考えています。

 

《内容3:振り返りと共通了解》---

終盤は、《内容1》全体を振り返って、会場にお集まりいただいた皆さんでゆっくりと過ごしていただきながら、ここで出された問題点や提案、考え方などについて整理していきます。そのなかで、共通了解可能な道筋や方策についても探っていきます

 

《簡単に言ってしまうと・・・》-----

子育てや教育について「自立と自律」をテーマ

「講演」+「対話」+「音楽」

によって、和やかに、語り合い考え合う・・・市民向け『白熱教室』と言ったところでしょうか。

 


《実際に開催したときの様子は?》

2019年5月31日(金)、東京・三鷹市のライヴスペース「おんがくのじかん」を会場に、2回目となる「教育を語りあおうよ音楽Cafe-Barで(Vol.2:三鷹編)」を開催しました。

 今回は、中学生・高校生を子にもつ保護者の方が多かったです。皆さんが真剣に私の話(歌も)に耳を傾け、熱心に意見を交わし合ってくださいました。

 

詳しくは、2019年6月3日の「ブログ」をご覧いただけたらと思います。

 



次回の予定は→「ライヴ・スケジュール」でご確認いただきますようお願い申し上げます。


*ご意見・ご提案、ライヴのご依頼、ご相談等(特に、ご質問は大切に思っております)のある方は、「ライヴのご依頼・ご相談」のページをご確認いただいた上で、「メール・ボックス」から送信していただきますよう、お願い申し上げます。


《資料を公開》

子どもたちの自立育成を探求して(第1編・詳細版)

全48ページより以下を抜粋

子どもたちの自立育成を探求して(第2編)

全69ページより以下を抜粋