読楽論文 No.1

2020年5月5日公開のブログより

緊急特別編:改編・新型コロナウイルス対策と日本の社会を「自立と自律」の教育から視る(ある一人の馬鹿者からの提言)

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最初に、これからご紹介するエッセーを、この「読楽論文」(「どくがくろんぶん」)のページで掲載するに至ったその経緯についてご説明させていただきます。

 

元々は、2020年5月5日に、「こどもの日」ということも少し意識して公開したブログでした。

実はこのブログ、更に時間を遡ると2020年4月19日に一度公開したブログで・・・これを、より分かりやすく読者の皆様にお伝えできればと思い、構成全体を見直した上で新たに改編したブログであったのです。ただし、本文の内容・主旨に至っては改訂・変更することなく、初めに書いた2020年4月13日~15日の時点のそのままをここに載せて公開しました。

・・・少しややこしくて、すみません。

 

ところが、改編後、同ホームページ「ブログ」のページであらためて公開したその2020年5月5日以降に問題が生じました。それは改編したがために「ブログ」のページでは長文が過ぎたのでしょう、スマートフォンをご利用の読者の皆様からスクロール等に支障があるとのご指摘を受けるようになりました。

そこで、本ページを新設してここへと移動、「読楽論文」として掲載するに至ったというわけです。

よって、表題および以下の文章はブログとしてこれを連ねております。予めご了承いただきたくお願い申し上げます。

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ーー《前書き》ーー

 

この今回のブログを公表するか否かについては随分と思い悩みました。・・・そりゃぁ、こんな私も時には悩むことだってあるのですよ。

そのため、公開日と少々タイムラグが生じております。

このブログを実際に書いたのは、2020年4月13日~15日です(これを証明できるものはありませんが・・・)。

 

私なんぞが、述べ、語り、わめき散らしたところで、何事かに発展することもないとは存じますが、「新型コロナウイルス」なるものが日本国内で感染拡大している現状で、ここで感じ考えていることを率直に書き残しておこうと思い、先ずは、自分自身が自身の現在の思考状態と心理状態と向き合い、これを自覚するつもりで書き始めました。

 

さて、ここで、私のことをあまりご存知でない方のために簡単な自己紹介と、加えて、今回のブログの概要について少々述べさせていただきます。

この約8年間並びにいま現在は、シンガー・ソングライターとしての活動に加え、これと併行して、教育現場で培ってきた経験も踏まえて(約32年間)、教育学の分野をはじめ、心理学、哲学、社会学、経済学、政治学などで論ぜられている最新の研究成果も学びながら、「『自立と自律』のための教育」(表題および以後「『自立と自律』の教育」と記す)の探求に取り組んでいます。

しかしながら、これら学術分野での博士号の称号などを持つわけでもなく、ここで述べることも、所詮、言うならば素人の戯言です。こうした意味においては、まともに相手になさる必要もないのかと存じます。

ただ、単なる自惚れかも知れませんが・・・これも勿論、不確かな事や理解に及ばない事柄の方が多いことを前提に申し上げるのですが、「『自立と自律』の教育」の探求を重ねる中で、ここ数年に至っては、現在そしてここから先の日本の社会・教育にとって欠かせない重要な「軸」となり得るものもそれなりに見えてきたように感じています。

(*これら詳細については同ホームページ「子どもたちを育む『自立と自律』」のページに記載)

 

そこで、今回のブログは「緊急特別編」として、「新型コロナウイルス感染拡大という問題に直面した日本の社会」この部分だけを切り取って・・・これを「『自立と自律』の教育」の探求から眺め視たときに、どんなことが浮かび上がって見えてくるのかを示すと同時に、私なりに感じていること、考え方や提案、これらを含めて諸々と述べさせていただこうと思います。

 

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各章、項目だけ先に記しておきます。

( )内は読まれる際に要すると思われるおおよその時間です。

 

《0.真意は既に示してあるのだけれど》

 (3分程度)

《1.日本の社会と教育の現状》

 (25分程度)

《2.感染拡大・医療崩壊への懸念》

 (15分程度)

《3.資本主義経済とゲーミフィケーション》

 (20分程度)

《4.「共感する力」で生き抜け》

 (25分程度)

《5.最終章:自己反省文と希望》

 (10分程度)

《参考》専門用語解説等

 (6分程度)

<追記>お詫び、修正について、他

 

●本文途中には各内容に応じて【補足説明】と【Q&A物語】および「会話的文章(物語)」を載せています。これらは、それぞれの内容の要旨を確認・整理する目的で設けたものです。

●一度に全てをお読みになると、100分~110分ほど掛かるかと思います。

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尚、平素より、このホームページまたは同ホームページ「ブログ」をご覧いただいている皆様の多くは、私、愛間純人のスタンスをおおよそご理解いただいている方々であるとの認識でおります。また私の書いた記事等に表現された真意を読み違えるような解釈はされないものと思っております。このことは日頃から常に感謝していることでもあります。

今回は卑怯にも、これにも甘えて・・・述べさせていただきます。

 

前置きが長くなりましたが、ここから先が本文となります。

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《0.真意は既に示してあるのだけれど》

 

ところで、この4月に入ってから続けて、同ブログのページにて「今日の一曲 No.106(2020/04/09記載)」を公開し、また同ホームページ「子どもたちを育む『自立と自律』」のページを一部改訂・加筆したのだけれど・・・これらはお読みいただけただろうか?

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「ん?」

「これも『読め!』だなんて言わないよね?」

たぶん(笑)。

えっ、ところで・・・君って?

「そんなことより、何が言いたいの?」

あっ、はい、では・・・。

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・・

既にこの2つの両ページをお読みいただいた方は、これらそれぞれに載せたその内容から、私がここに込めた一連の真意などもおおよそ汲み取っていただけたかと思う。

 

今回ここで述べようとしているその内容の「根本」および「原則」については、むしろ、この2つに詳しく書いたつもりなので、もしもまだお読みでない場合は、これらもお読みになられては・・・と。

いや、正直なところを申し上げれば、お読みいただきたい・・・なぁ~(笑)。

 

ただし、どちらも、こうしたものの類では?「長文」と言われてしまうであろうほどの文字数で記してあるので、お時間が比較的緩く許されるときにでも・・・是非。

 

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「結局は、『読めよ』ってことじゃん!?」

そういうことでもないんだけれど・・・

ま、少しだけ期待しているカナ(汗・笑)。

それで、君は・・・?

「そんなことはいいから、先へと進めていただけないでしょうか!」

えっ? はい・・・

では、本題へと・・・。

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《1.日本の社会と教育の現状》

 

2020年2月中旬頃のことだ。

「あっ、ヤバイ!」

と思った。

日本も、また世界中も(特に、経済先進国として歩んできた国と地域、貧困層の割り合いが圧倒的に多い国と地域では)、このウイルスによる感染拡大を抑え込むことは難しいと想い、そして思った。

 

だから、自身が週の後半に開いているライヴについても、カフェや居酒屋さん等の店側と直ぐに相談し合って、直ちに一切のライヴ活動を休止することにした(2020年2月14日以降)。

 

何故そう想い、思ったのか、というと・・・

またこれを、敢えて唐突な言い方で申し述べさせていただくと・・・

 

「教育(公教育)」が遅れているからだ。

 

**【補足説明】**

*ここで言う「教育(公教育)」とは、国や地方自治体が公共の制度・政策として行う教育、これを実施する教育機関(幼稚園、小学校、中学校、高等学校、大学、専門学校等、公立も私立も含めて)の各教育現場で実践されている教育の指針・方向性、内容、方法・手法、環境、教員の育成・組織運営などなど・・・これらを含めた「学校教育のシステム(仕組み)全体」を指す。

********

 

それは、

現状の社会・世界にあって・・・

もう少し丁寧に申し上げるなら、

「急速な変化や予測不可能な要素を多分に含んだ出来事が増えつつある社会・世界にあって・・・」

ということになるのだけれど、

これに対して、

「子どもたちへの『教育(公教育)』が追いついていない、遅れたものになってしまっている」

ことを意味する。

・・

このことは、西暦1990年代後半以降あるいは2000年頃には明らかであったはずで、特にこの当時から経済先進国と呼ばれていた国々では何等かの策を少しずつでも講じて実施に乗り出していれば、

「より適切なる『教育(公教育)』」=「『いかなる社会の変化にも対応し得る人材の育成』への変容」

も実現可能であったにもかかわらず、これらの国々のほとんどが、(何もとは言わないまでも)真にここと向き合った策を提示することも実施することもしないまま、これを放置してきた。

 

残念ながら、我が住家とする日本という国もだ。

「教育(公教育)」と真剣に向き合ってこなかった。

それは、

「いかなる社会の変化にも対応し得る人材の育成」

を怠ってきたということであって、

そのため、

「急速な変化や予測不可能な要素を伴う出来事、未知なる問題、未曽有な出来事に対応し得る人材の育成」

「より良い(好い)社会を提案・構築していくこと、または変容させていくことができる人材の育成」

これらを成し得ないまま今日に至っている。

・・

特にいま、新型コロナウイルスの感染とその対策について取り上げるに当っては、

「急速な変化や予測不可能な要素を伴う出来事、未知なる問題、未曽有な出来事に対応し得る人材の育成」

という点に目を向けることになるだろう。

・・

ただ、「『教育(公教育)』と真剣に向き合ってこなかった」を、敢えて違った表現で念を押して申し上げるならば、

「各人が現在およびこれから先の社会・世界で『自立』して生きていくための能力を養う」

という、教育(公教育)の根源的な目的において、依然、これに欠いた教育(公教育)が続けられている、・・・このことをここでは強調させていただきたく思う。

 

**【補足説明】**

*日本の教育(公教育)現場では、これまでも常に(・・・それは、いつの時代も)、子どもたちの現在から未来を見据えた教育を目指して、工夫を試み、新たな手法に挑み、理論の探求と実践を重ねながら熱心に取り組む教師・教育関係者たちが居てこれを欠くことなく歩み続けてきた。そして現在もまたそう歩み続けているなかでは、こうした教師・教育関係者たちを支え応援する学校や地域もあって、そこでは様々な物事に興味や好奇心をもって取り組む子どもたちの活き活きとした姿も見ることができる。これらのことは、関連書籍や資料等からの情報だけでなく、筆者自身の教育現場での経験からも十分に承知している。/*が、こうした教師・学校・地域のもとで育った(育っている)子どもたちとその保護者の方々には、「それはラッキー(幸運)だったね~」と言う他なく、つまりは、「たまたま・・・だった」というのが現状であり実態であると言わざるを得ない。/*言い方を換えれば、本来の教育・・・子どもたちの現在から未来を見据えた教育(公教育)が日本国内に広く行き渡って実践されているとは言い難い状況にあることを意味する。/*同様に、いま、「教育の質・教育を実践する能力(例えば、2020年度から小・中・高の学校で順次完全実施となるアクティブラーニング(主体的・対話的で深い学び)の導入を含めて)」の点で学校間および教師間の格差はますます拡がりつつあって、この問題は深刻化を増している。/*故に、本文中の「『教育(公教育)』と真剣に向き合ってこなかった」は、教師や学校などの個々の成果や実情を対象としたものではない。先の【補足説明】と同様、日本の教育(公教育)の「システム(仕組み)全体」これを指して述べている。

・・

*「自立」を筆者がどう定義しているかは、同ホームページ「子どもたちを育む『自立と自律』」のページで詳しく述べている。本文巻末の《参考》のところでもリンクが可能。ただし、本文中ではこの定義にあまりこだわり過ぎることなく、このまま読み進めていただければと思う。

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*【Q&A物語】***

「いろいろと考えて工夫している先生がいて、子どもたちのために積極的に取り組んでいる学校や地域もあるけれど、そうではない先生や学校とか地域もあるってことだよね?・・・」

「そのぉ~、新しくやろうとしているアクティブ・・・なんちゃらも、どの先生も、どの学校でも、ちゃんとできるのか心配な状況なんだよね?・・・」

「それも、先生や学校によって、どんどん差がついてきているって・・・。」

・・

はい、いま現状は、残念ながらそういうことになります。

それで、こうした問題を解決するためにも、教育(公教育)の「システム(仕組み)全体」を見直して少しずつ変えていく必要があると思っている・・・ってことなんだ、けれど・・・

わかるかな?

・・

「ぅん~・・・?」

「それじゃぁさぁ、もっと話を聞かせてよ!」

「あっ、いや、お話をお聞かせいただきたく・・・ん〜、よろしくお願いします。」

・・

はい、ありがとうございます。

では、教育(公教育)と真剣に向き合ってこなかった日本の・・・その続きから・・・。

********

 

ところで、また別の一方では、

「教育(公教育)をより良き(好き)方向へ発展・変容させていくこと」

を怠ったばかりでなく・・・、

日本という国の特徴なのか、あるいは日本人と呼ばれる人々の独自性なのか、これは歴史的な波にも翻弄されて・・・ということもあるように思うのだけれど、日本という国・社会が、日本人と呼ばれる人々が・・・

「やらかしてしまったこと」

がある。

・・

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「やらかしてしまったこと・・・って?」

少し、ご説明しましょう。

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・・

「教育(公教育)」のそれが成されない中(・・・ん~、成されないどころか、この時代に既にこの事に気付いている人は極少数に限られていたと思う)、それでも1980年代前半頃まではホントギリギリかなぁ~、辛うじて社会の営みが比較的平穏に感じられていたのには、1960年代および1970年代の高度経済成長期の間もこれが過ぎた後の暫くの間も、その当時の社会が映し出していた外見に誤魔化され浮かれていたこともあるけれど、日本人と呼ばれる人々が元々(日本語言語が形作られていった時代頃からなのだろうか?分からないが・・・)・・・それがどういうわけか他国の人たちなどと比べても特殊な経緯を辿って培い備え持っていた「共感する力」を僅かながらにも引き継ぎ磨いていくことができていたからだ。

・・

ここで言う「共感する力」とは、他者の痛みを自分の痛みと感じること、どうしたら相手は喜ぶのだろう、どのようなことになると相手は辛いのだろう・・・といった「他者を自然と(見返りを期待する思惑などなく)思いやる心の感度」のことを言う。

・・

**【補足説明】**

*ここでの「共感する力」を・・・、例えば、作家の故・司馬遼太郎さんは「二十一世紀の君たちへ(小学校6年生の国語の教科書に掲載)」の文中で「いたわり」と表現されていたと思う。/*このことは、磯田道史著「『司馬遼太郎』で学ぶ日本史」にも同様なことが記載されている。磯田氏自身はこれを「共感性」と記している。/*また、日本人を対象にしたものではないけれど、これととても近い意味に受け取れるものとして、ジョージ・ソーンダーズ著(外山滋比古・佐藤由紀/訳)の「人生で大切なたったひとつのこと」に書かれている「やさしいひと」もそうであるように思う。/*尚、この「共感する力」および「共感」については、本文すべてに渡る内容を踏まえて、あらためて本文巻末の《参考》で更に補足させていただく。

・・

*「・・・『共感する力』を僅かながらにも引き継ぎ磨いていくことができていた・・・」その理由を、ここでは詳しく述べないけれど、例えば、子どもから大人までが参加するような伝統的な行事(お祭りなど)が、この頃(1980年頃まで)はまだ広く各地域に点在するように残っていた、などが上げられる。他にも、子どもたちの遊びや遊ぶ環境など各地域または世代層ごとによっても様々異なる理由が考えられる。

********

 

これらの経過をもう少しだけ丁寧に辿っていくと・・・、

・・

1960年代から1970年代の高度経済成長のその勢いが増していく時代、欧米文化の・・・それも上辺だけが身近な生活に次々と入り込むようになると、ここから、「妙な具合の個人主義」と「真なる意味などない見せかけの成果主義」までが拡がりを見せる。こうした一連のことはその一部に過ぎず、高度経済成長期の日本の社会における大部分がこの間と、またこの高度経済成長期を過ぎた後もその影響を残しながら、それは結果的にということであるのだろうけれど、日本人と呼ばれる多くの人々がかつて優れ持っていた「共感する力」を養い磨いていくための環境を次々と奪い壊していく役割を担い続けた。そして、それまであった景色の多くを塗り替えていってしまった。

・・

が、先に述べた通り、1980年代前半頃までは塗り替えられてしまうことなく残された景色も、そう、僅かながらそこにはあった。

そして、1980年代後半から1990年頃も、この塗り替え作業は続いていった。

・・

(1960年頃~)1990年頃までに塗り替えられ映し出されていったその景色とは?・・・工業化、大量生産、オートメーション化、画一化と自由、精密部品製造の向上、市民生活の経済的向上、生活スタイルの欧米化、スピード時代、通信網と交通網の発達、自家用自動車、土木・建設事業の拡大、高層ビル建設、エネルギー需要の高まり(火力発電、石油関連)、家電製品の開発と普及(テレビ、洗濯機、冷蔵庫)、東京オリンピックと大阪万博、都市集中と地方の過疎化、核家族化、家族の分断・家庭内暴力、夫婦共働き、団地住まい、マンション住まい、若年層自殺者の増加、終身雇用の見直し、成果主義と競争社会、日本語言語の変容と敬語への誤解、子どもが遊ぶ屋外環境の変化(広場、川、野原、校庭の利用方法)、受験戦争と偏差値教育、兼業農家と田畑の減少、自然環境破壊と生態系の異変、公害問題と公害訴訟、交通渋滞、通勤ラッシュ・・・など、「産業主義社会」と「高度経済成長期」がもたらした景色のこれらになるかと思う。

・・

これが1990年代以降になるとまた様子が違ってきた。

・・

これまでのものとはまた別の種がここに加わった・・・と言うよりも、その別の種が主役に躍り出る勢いを見せた。

その別の種とは、デジタル・テクノロジ―が生み出していった(また今日も生み出している)数々のもの、そのうちの多く(決して全てではない)がこれに該当する。そしてこれらが今度は、以前に辛うじて塗り替えられてしまうことなく残されていた景色も含めてそこにあった景色のほぼすべてを、それまでとはまた別の手法で描き換え塗り替えていく役割を担っていった。その描き換えと塗り替えの作業は急加速的に進んで、それがいま現在、私たちが眺めている景色ということになる。

・・

いま現在のその景色とは?・・・コンピュータ、インターネット、IT化、世界のグローバル化、スマートフォンとSNSの普及、デジタルコンテンツの充実(特に動画配信等)、超高速通信技術、遠隔操作技術、DPS機能、人工衛星と宇宙開発、ロボット技術開発、スマホ依存、ゲーム依存、国家間の協調と分断、各種セキュリティ対策問題、国家防衛システムの見直し、個人情報と監視システム、経済的格差と貧困、人件費・コスト削減、海外事業への展開、外国人労働者の雇用、労働者雇用の制度と派遣切り、経済的教育格差、学校間格差・教師間格差、人員不足・人材不足、少子高齢化社会の加速、待機児童問題、競争社会の激化、市場経済の不安定化、金融緩和と実体経済、気候変動と大規模自然災害、人工知能AIと人間の役割・・・など、「知識基礎社会」と呼ばれる社会がもたらしている景色だ。

・・

こうして、日本という国・社会は・・・、日本人と呼ばれる人々は・・・、次々と景色が描き換えられ塗り替えられていく様を無造作に許し、更には自らもこれをコントロールする術を失くしていった。当然、いまここで述べてきた経過を辿りながら、人々の「共感する力」はこれを養う環境と機会を少なくし、自然にと言うよりも急速に衰えていくことになった。

・・・「やらかしてしまった」のだ。

そして、いま現在は、これを失いつつもある。

・・

*【Q&A物語】***

「わぁ~、なんか色々なことあり過ぎ!」

「でも、いまの人たちって、そんなに『共感する力』・・・っていうものが衰えているのかなぁ~?」

「気付けていないだけ?・・・」

「まぁ、他人を『思いやること』よりも先に、自分が『この競争に勝たなくては・・・』って思ってしまう場面、確かにあるかも・・・それも割と多く・・・。」

「『何故こんなことが急に起きちゃうの?』ってことも増えていて、それで『自分のことばかり優先しがち』になったりすることも、まぁ、あるかもねぇ~。」

「そうそう、SNSとかでも『他人のことを思いやらずに』簡単に良くないことが書き込まれちゃうことって多いよね~、それがイジメの問題になることもあるし、先生や大人たちには気付きにくかったり・・・。」

・・

そうだね、他人の痛みを感じることよりも優先してしまうこと、それは恐らく、そうなってしまい易い状況に知らぬ間に置かれていることもあるんだとは思うけれど、少しでも見つめ直すことができるとイイのかな・・・。

自分自身のこと、周囲の人たちのこと、自分の身の周りで起きている出来事だけでも少し丁寧に見つめ直すと、何か忘れがちになっていること、見失いそうになっていること、こうした事にもっと色々と気付けるかも知れないね・・・。

一方で、新しいテクノロジーが次々と開発されて世の中に広く普及していっている現状を否定してもいけないと思う。

ただし、デジタルコンテンツの開発などは、いまはゲーム化されたもの(後で述べる「ゲーミフィケーション」化されたもの)が目立つけれど、そうではなくて、対話型・双方向型のコンテンツや目指すべきゴール(クリアすべき課題)などない自由で深い思考を可能にしてくれるコンテンツ、こんなのがもっと前面に出されていって充実していったらイイかと思う。これはデジタル教育教材なんかにも言えることなんだけれど・・・。

では、話を進めますね。

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・・

ただ、それでも、日本人と呼ばれる人々、あるいは日本で生まれ育ってきた(育っている)人々の身深くには、僅かであってもその力(=「共感する力」)が未だ息づいていると、個人的には期待し信じているのだけれど・・・いやぁ~、これはやや根拠に欠ける感情面に偏った話かなぁ~(汗)。

この「期待し信じている」ことについては、この時点では取り敢えず脇に置いておくことにして、先へと進めさせていただく。

尚、「日本の社会・人々」、「教育(公教育)」、「共感する力」のこれら3要素が、互いにどのように影響し合って、それぞれがどう変化していったかを年代別に示すなど、そんな説明もしたいのだけれど・・・スミマセン~、これら詳細についてはここでは省かせていただくことにする。それよりも、いま現在に至っては、これら3要素がどんな状況を及ぼしているかだ・・・、さて、それは(続きをどうぞ)・・・。

 

こうして、西暦1990年代後半あるいは2000年以降の「日本の社会・人々」というのは、この「教育(公教育)の未発展・無変容」と「共感する力の鈍化・失陥」の手痛いダブルパンチを喰らった状態にある。もう少し正確に言わせていただくと、このダブルパンチをいま現在も喰らい続けている、ということになる。

そして、事を更に難しくしていることがある。それは、このダブルパンチの影響を少しばかり長く受け続けてきてしまっているせいなのだろう・・・、

この「教育(公教育)の未発展・無変容」と「共感する力の鈍化・失陥」のダブルパンチを喰らっている痛みを感じる感度までもが、いま現在では鈍く無自覚なものになってしまっていると、そんなふうに言えるかと思う(悲)。

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「うわっ、重症じゃん。」

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西暦2000年以降から放置してきたのだ、この頃は子どもだった人たちも、現在では多くは社会に出て「大人」として生活を営む立場になっている。

これらのうちの多くの大人たちと、これよりもまた更に以前に生まれ育ってきたうちの多くの大人たちは、それは世代層ごとに違いはあるものの、この現状の社会・国・世界で多々起こり得る・・・急速な変化や予測不可能な要素を伴う出来事、未知なる問題、未曽有な出来事、これらに対応し得るだけの能力(行動面も、心理面も)を十分に養う機会などほとんどないまま成長して、いま、「大人」として生きている、・・・そういうことになる。もちろん、私もその一人だ。

・・

それ故、「教育(公教育)」については・・・

「だって、こんなことまで起きてしまう状況に対応できるだけの教育なんて受けてきていないも~ん」

といった、「旧型モデルおよび前型モデルの大人」ばかりが増加する国・社会となった。

・・

加えて、「共感する力」についても・・・

「共感?・・・分からなくもないけれど、そんな綺麗ごとばかりじゃ世の中通用しないんじゃないの?」

といった、「低共感度感覚」の方が先んじられるような国・社会となった。

・・

**【補足説明】**

*「旧型モデルおよび前型モデル・・・」について・・・/*日本の国家としての「教育(公教育)」が形創られていったのは明治維新以降ということになる。そして各時代によって学ばせようとしていた知識や教育内容、制度等は様々に歴史的な流れからも変えてはきたけれど、その根本的な教育手法は明治時代中期以降から現在に至っても変わってはいない・・・長きに渡って、「コンテンツ・ベースの教育」を土台とした教育が行われている。/*本文中の「旧型モデルおよび前型モデル・・・」とは、この「コンテンツ・ベースの教育」を主に受けてきた人々のことを表している。対し、2000年以降の社会、また、いま現在からこの先暫く続くであろう「知識基礎社会」のここには、「コンピテンシー・ベースの教育」を取り入れる必要がある、という筆者の考えが含まれている。

・・

*「コンテンツ・ベースの教育」と「コンピテンシー・ベースの教育」については、本文巻末の《参考》で簡単な解説を載せている。が、本文中ではこの専門用語にあまりこだわり過ぎることなく、このまま読み進めていただければと思う。

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・・

*【Q&A物語】***

ん、どうしました?

・・

「なんか、少し寂しくなってきたカモ・・・。」

・・

ぅん~、そうかぁ~、ごめん。

君や皆さんたちのことを出来損ないみたいに、出来損ないの人たちが集まった国・社会であるかのように感じてしまったかも知れないね・・・。

もしも、そう感じてしまったのならお詫びします、ごめんなさい。

でも、そうした意味・意図で述べたのでなはない、ということだけは分かってもらえたらと思う。

なので、もう少し、ご説明しましょう。

この教育で大丈夫?・・・だなんて・・・、

1990年頃までは、よほど専門的な研究などをしている一部の人以外は、ほとんどの人が気付けなかった。

大雑把な言い方になるけれど、気付けた人も経済優先に酔う社会や人々の波に抗うことはできなかった。

1990年頃からは、教育に関わっていた人たちをはじめ、教育以外の分野でも気付く人が少しずつ現れて、問題視する声も聞こえ始めるようになった。

が、本気でマズイって感じる人がそれまでよりも増えてきて、教育の変容・変革を求める声が聞こえるようになったのは2000年を少し過ぎた頃になってからだと思う。

ところがだよ、またしても、本当に広く日本の多くの人々にまで、これと同様の危機感が拡がっていくことはなかった。

ん~、難しいんだね~。

でもね、これって、社会の変化をどう捉えればいいのか、これに対応するにはどうしたらいいのか・・・などということに気付きにくい『教育(公教育)』をそもそも皆が受けていたからなんだよね。

だから、誰も気付けなかったし、気付いてからもどうして良いのか直ぐに『考え』て『行動』に移すことができなかったんだ。

それは、『共感する力』に必要な環境が奪い取られていたことにも気付けない、そんな状況も作ってしまっていた。

あっ、これらのことは、いわゆる一般の人々に照らした話だよ。

これとは別に、国家とかのレベル言うのなら、この頃(1990年~2000年)には専門家をはじめ警鐘を鳴らす人たちはいたわけだから、それは本気で取り組んでいれば何らかの策も打てたはずなんだ。

ただ残念なことに、その当時、文部科学省の人たちも、教育委員会の人たちも、そして教育現場にいる教師たちも、皆が皆、本気でここと向き合うことにはならなかった。だから、いまも時折話題にされる『ゆとり教育』も、元々の本来の目的から大きく逸れて運用がされてしまったんだ。

そう、いま始まろうしている「アクティブラーニング(主体的・対話的で深い学び)」も本来の目的の通りに運用されるのであれば、それは日本の教育(公教育)にとっても大きな前進の一歩となるのだけれど、さっきも言った通り(先の【補足説明】述べた通り)現在の様子からはとても心配な状況にある・・・。

『教育(公教育)』って、だから恐いし、スッゴイ大切なんだ。

まずは、今の現状を冷静に受け入れてもらえたら・・・と思う。

そうでないと、また、いま現在の子どもたちにも、これからの子どもたちにも、同じことをしてしまう。

もう、ちゃんと向き合って、『教育(公教育)』を変えていかないと・・・。

もし、いま直ぐに、子どもたちへの『教育(公教育)』を変えることができたとしても、その子どもたちが大人になって自分たちも子育てをするなど、次世代へと引き渡していくようになる20年後か30年後かの未来にならないと、真の意味でのその教育の成果は現れてこない・・・。

だから、時間が掛かるんだ・・・教育を変えていくって・・・。

*********

 

こうした「大人」たちが営む日本という国・社会において、子どもたちもまた、急速な変化や予測不可能な要素を伴う出来事、未知なる問題、未曽有な出来事に対応し得るだけの能力(行動面も、心理面も)を十分に養う機会などなく育っている。また、「共感する力」を備えるにも難しい環境にますます置かれつつある。

そのため、「非常時」や「緊急時」、「未知の出来事」などに対応・対処し切れない「大人」に混ざって、子どもたちは更に対応に戸惑う環境に置かれている。

このことは、いま、子どもたちに大きなストレスとなって圧し掛かってきている。そしてその様子は、かつての子どもたちよりも忍耐力に欠けているようにも見えるが、それは違う。そもそも、ストレスの掛かり方が10年前、20年前、あるいはそれより以前の子どもたちとはまったく異なる種のストレスを異なる環境に居て抱えているのだから、「以前の子どもと比べて」などと、比較するようなことはしてはならない。

・・

そして、それは大人たちもだ。ほぼ世代層ごとに似たようなことが言える。

・・

*【Q&A物語】***

「子どもから大人まで、みんが、いま、たいへんってこと?」

・・

そうだと思う。

子どもから大人までその多くが、いまの社会で起こり得る様々な物事に対応するだけの力を十分に備え持たないまま、それでも生活をしているわけで・・・

それは年齢や世代層ごとで物事への感じ方も違って、対応できることと対応できないことが少しずつ違ってはいるんだけれど・・・、みんながそれぞれに、それぞれの十分ではない力をどうにかして補おうとしながら生きている、その点では皆が同じと言える。

でも、それは、とても、たいへん。

個人一人ひとりの能力の差や個性の違いとかのレベルで言っている話ではないからね。

それは、もっと、各人が社会で『自立』して生きていくために必要だったはずの能力の話で・・・

ん~・・・分かりやすく言うのなら・・・、

そう、もっと、『誰もが生きるために土台となるはずだった力』の話をしているわけで、これが十分に備わっていないのだから、たいへんなんだ。

それでも、それぞれに頑張っていて、いま、色んなことを乗り越えようとしているんだよ。

・・

「なるほどね~。」

「『生きるために土台となる力』のことかぁ~。」

「さっきから何の力が十分じゃないって言っているのかイマイチ理解ができていなかったんだけどぉ~・・・」

「あぁ~、少し分かってきた気がする。」

「それじゃぁ、続きをお願いします!」

********

 

ちなみに、ここで述べている「多くの大人(または大人)」に含まれない「少数の大人」(=「共感する力」と後で述べる「自律の力」の両方を共にある程度備え持った人たち)というのは、日本国内に居て生活するだけでなく、日本国外にも拠点を置いて生活し続けながら(あるいは海外渡航を繰り返しながら)何かしらのプロジェクトに積極的に参加して取り組んできた(取り組んでいる)ような人、もしくは日本の伝統文化や伝統技術と現代社会あるいは他国の異文化社会などの双方を往き来するような、幾つか複数の文化・習慣などを身深くまで感じ取りながら生活してきた(生活している)人になるかと思う。・・・これが全てでないにしても。

・・

**【補足説明】**

*いま述べた「少数の大人」と同じ意味において他にも比較的これに近い大人がいると考える。/*それは例えば、一つには、先の【補足説明】で述べた「それはラッキー(幸運)だったね~」、「たまたま・・・だった」を経験した人たちだ。・・・つまり、子どもたちの現在から未来を見据えた本来あるべき教育に挑み続ける教師と出会うことができて、これを支え応援する学校や地域とともに育ってきた人たちだ。/*もう一つは、日本の教育(公教育)を実施する学校には通わずに、「モンテッソーリ教育」、「ダルトン教育」、「イエナプラン教育」といった教育を私塾的学校に通い受けてきた人たちもここに該当するように思う。/*またこうした教育環境等とは別に、家族構成や生活形成上特殊稀な環境に育ってきた人たち・・・例えば、3世代以上が同居していて兄弟姉妹も3人以上いるような大家族のなかで育ってきた人たち、あるいは、自給自足率が特別に高い生活や地域に置かれて育ってきた人たちなどもそうである可能性が考えられる。/*これらの人たちは、ここで述べている「多くの大人(または「大人」)」たちよりも、「共感する力」とこの後で述べる「自律の力」の両方を共に養い備え持つための環境と機会を得るという点に限って着目するならば、多少なりともこれに恵まれて育ってきた人たちであると言えるかと思う。

*********

 

《2.感染拡大・医療崩壊への懸念》

 

そう、

「急速な変化や予測不可能な要素を伴う出来事、未知なる問題、未曽有な出来事に対応し得る人材」、「共感する力を磨き上げてきた人」があまりに少ない社会、これが日本という国の現状だ。

・・

だから起こる・・・

「医療現場の崩壊」

そして、

「オーバーシュート(爆発的感染拡大)」

・・

たとえ、こうした事態を招かないまでも、

「感染収束経過期間の長期化(感染が終息するまでの時間・日数等が長引くこと)」

などといった、真綿で首を絞められるような状況になってしまうことは大いに考えられる。

・・

少なくても、日本国内では、東京都とその周辺においては・・・。

だから、そう想い、そう思った。

・・

**【補足説明】**

*これはやや根拠に欠けるけれど、もしかしたら、大阪府や福岡県、北海道(札幌市内)、福井県も、医療体制がひっ迫する状況に追い込まれるかも知れない。

********

 

ところで、厚生労働省下の対策チーム(「クラスター対策班」)のメンバーは、日本国内においても、世界レベルで言っても、この分野において、かなり優秀な人たちのようだ。メンバーの中には、国内外に渡って様々な国・地域の人たちともチームを組み経験を重ねてきた人もいて、

「急速な変化や予測不可能な要素を伴う出来事、未知なる問題、未曽有な出来事に対応し得る人材」

これに相当する人たちのように思う。

・・

が、いま、国の中枢に居る人も、各省庁にいる官僚や役人たちも、政府および政治家も、各地方自治を中心的に担う人も、そして日本国内に住む人々も、このうちの多くが、残念なことに、この対策チームが意図している考えや思いを真に理解することができないでいる。ある程度は理解しても、これを自ら自分の身に置き換えて考え行動するというところへ繋げていくことがなかなかできないのだ。なぜなら、そのための「思考力」も、「行動力」も、そして「自己の能力(心理面も含めて)を総合的にコントロールする能力」も十分に備え持たないままでいるからで、それは各人がこれまでの間に、これらの力を養うための環境と機会もまた十分に得られずにいたためだ。それで、こうした状況に陥っている。

・・

**【補足説明】**

*ここでの「思考力」、「行動力」、「自己の能力(心理面も含めて)を総合的にコントロールする能力」のこれらをまとめて、「自律」または「自律の力」として筆者は提示している。/*この筆者が提示する「自律」または「自律の力」については、2018年12月5日より公開・配布している資料「子どもたち自立力育成を探求して(第1編・詳細編)」で詳しく述べている。また、同ホームページ「子どもたちを育む『自立と自律』」のページでもこの資料の一部と重点を載せて公開している。/*尚、本文中およびこれら資料等では、「日本の教育(公教育)おいて、また日本の社会全体において、現在最も欠けていること・・・それは『自律または自律の力を育てていくこと』である。」との考えも含めて述べさせていただいている。

********

********

「『自律の力』っていうものも『自立』に必要な『生きるために土台となる力』の一つというわけなんだね!」

「ん、なるほど!」

********

・・

恐らく、対策チームのメンバーは、自分たちが想定したよりも国民一人ひとりの反応や行動が鈍かったり、遅かったりしている現状に、いま焦りを感じているところかと想う。

・・

それにしても、こうした現状を見るにつけ、ここであらためて、「教育(公教育)が遅れているからだ」との認識をもたざるを得ない。

前述した「この対策チームが意図している考えや思いを真に理解すること・・・」も、本来であるなら、誰もが育成され備え持っていて当然で、他から得た情報や知識を自分の身に置き換えてはじめて「教養」となるわけなのだから、それこそ、「教育(公教育)」が果たすべき根幹はここにあることになる。故に、「この対策チームが意図している・・・を真に理解すること」は、多くの人々が極自然に実行できるようなことであるはずなのだけれど、現状は、これに追いついていない、まさに、「教育(公教育)が遅れているからだ」を証明しているかのような状況と言える。

そう、

「だって、こんなことまで起きてしまう状況に対応できるだけの教育なんて受けてきていないも~ん」

というわけだ。・・・繰り返すけれど、これは私も含めてだ。

・・

**【補足説明】**

*「教養」と先に述べた「自律の力(自律)」の関係性について・・・/*「自律の力」を備え持つ過程において、「教養」を身に付けていくことは決して欠かせない一つである。/*一方、「教養」とは本来、他者からの働き掛けのみで身に付けていくのではなく、自ら「教養」を身に付けようとする姿勢、自ら「教養」を実際的に生活や仕事で活かしていこうとする意識、これらも備わってこそ「教養」を身に付ける意味がここにあると考える。が、これらの「教養」への姿勢と意識を育て高めていくためには「自律の力」もまた併せて養い向上させていく必要がある。/*「教養」と「自律の力」の相互にはそれぞれを高め合う重要な関係性がある、というのが筆者の考え。

********

 

このことを、より具体的な状況に触れながら、もう少し述べていくことにしよう。

・・

さて、そんな私も不十分ながら、一応、統計学と数理モデルによる解析を中心に大学で学び得てきた者の一人であるのだけれど(汗)、ここでまた、少し学んでみた。いやいや、「学んで」というのは大げさだな、端っこをかじった程度だ。

「何だそれ?」

ってことになるけれど・・・、新型コロナウイルスの感染防止に向けた、その対策チームが練り上げた数理モデル解析の「その概略だけ」ではあるけれど、少しだけ丁寧に調べてみた。

それで、これを理解するに、

「他人との接触は8割減」

は必須だと私は解釈した。

対策チームの中でこの数理モデル解析を中心的に担っている通称「8割おじさん」も、実際に、ご自身ではそう説明している。

・・

ところが、どこかの国の誰かさんは、

「7割から8割、極力8割に近づくように・・・」

と国内・国民に向けて発信した。

えっ? 待てよ・・・これでは、「短期間のうちに感染者を減少」させて、「医療現場の崩壊を回避」することなんてできないんじゃないの?・・・ってことだ。

ん~、正確に受け止めることができていない、追いついていない。・・・でも、致し方ないのだよ~。

「だって、こんなことまで起きてしまう状況に対応できるだけの教育なんて受けてきていないも~ん」

・・

そして、日本国内世間様全体の側は、公から発信されたこのやや緩い方の目標数値のその意味もまた正確に受け止めることができずに、それは誰もが悪気あってそうしているわけではないのだけれど、平常時の考えや行動を自ら大きく変えるまでの理解には至っておらず、結果、現時点ではその緩い方の目標数値にも届かない、といった状況が続いている。・・・でも、致し方ないのだよ~。

「だって、こんなことまで起きてしまう状況に対応できるだけの教育なんて受けてきていないも~ん」

・・

何とかしようとする思いさえないヒトも居るものね~。・・・でも、致し方ないだよ~。

「共感?・・・分からなくもないけれど、そんな綺麗ごとばかりじゃ世の中通用しないんじゃないの?」

・・

・・・といった状況なのだ。

こうした思考と行動の至らなさも、周囲や他者を慮る感度の鈍さも、その個人が悪いとばかりは言い切れないのではないだろうか。

・・

*【Q&A物語】***

「なんだか馬鹿にされている感じで嫌な気分になっているんです、け・れ・ど!」

・・

嫌な気分にさせて、ごめんなさい。

きっと、とっても皆さんに向かって失礼な言い方をして申し上げているのだと、思う。

皆さん一人ひとりを責めるつもりはないし、誰とかが悪い、ってことは思っていません。

・・

「ぅん、まぁ~ね。」

「そりゃぁ~、『生きるために土台となる力』の話だってことはアタマでは分かっているつもりなんだケド・・・。」

・・

ここで言っておきたいのは、個人のせい・・・こればかりではないってこと。

さっきも(前述までの【Q&A物語】の中でも)説明させてもらった通り、子どもから大人までが、いまの社会に対応し得るだけの力(=「生きるために土台となる力」)を備え持てていない不十分さを抱えながらも、これを何とかして補おうとしながら、それはたいへんな思いもしながら、様々なことを乗り越えようとして今を生きている。

ただ、これまでの間にずっと長く続いてきた「教育(公教育)」のせいで・・・、そう、「教育(公教育)」のせいで・・・、

各時代の大人たちが「社会と教育のズレ」になかなか気付くことができなかったこと、「教育(公教育)」や「子育ての環境」に目を向けて取り組むべきことを、その仕組みを少しずつでも改善していくべきところを、それも長い間、どうにかしたくてもできなかったこと、できることも見て見ぬ振りをしてきてしまったこと、などなど・・・積み残してきた沢山の荷物を、いま、子どもから大人まで、みんなが背負わされている感じなんだと思う。

それも、気付かないうちに・・・。

「教育(公教育)」の責任の重さ、それと恐さを感じる。

とっても、悔しいし、寂しいし、残念なんだけれど・・・。

********

・・

・・・ってなことで、

現時点(2020年4月15日現在)の状況このままでは、「新型コロナウイルス感染拡大を早期・短期のうちに抑え込む」=「医療現場の崩壊を回避する」ことは難しいと思われる。

そこで、些か乱暴な展開ではあるのだけれど・・・、

またその表現も乱暴な言いようで、ある意味、大変失礼なことも申し上げることになるのだけれど・・・、

敢えて、ここでは(この章・項目の中では)、「感染拡大防止」と「医療現場の崩壊を回避する」の立場の方を先に優先して言わせていただくと、

「生活が・・・」

「補償が・・・」

と言っているより先に、感染拡大で、あちらこちらで次々と人が死んでいくよ。

それは、新型コロナウイルス感染者だけでなく、他の病気を抱えもった人、突然に大怪我を負ったり病気になった人など救急の患者まで、さらには医療従事者にまで、こうした人たちにも及ぶことになる。

「医療現場の崩壊」

先ずはこれから始まる。

・・

そして、それは様々な多くの事で、人々(人類)が太刀打ちできないようなことを引き起こす。・・・それこそ、いまこの時点では辛うじて機能している経済活動や生活でさえも停めてしまい、これによって「命」までが奪われることだってあるのだ。

・・

けれど、これを本当にリアルさをもって(=「共感する力」を伴って)「想像」できている人は少ないのではないだろうか!

・・

「このウイルスの『致死率』は低い」

なんて言っていた専門家やら、これを伝えていたジャーナリスト、マスコミ関係者たち、そうじゃないのだよ!

・・

人、ひとりの「命」を、軽くみていませんか!?

・・

だから、繰り返すけれど、

「他人との接触は8割減が必須で、何としてでも達成すべき、これは最低限の目標数値」

だ。

・・

*【Q&A物語】***

「なにか怒ってる?」

「恐いよ・・・?」

「厳しいこと言い過ぎじゃないの?」

・・

そっかぁ~・・・

いや、でも、8割減は最低限なんだよ~。

これを、日本中のみんなで守ることができなかった場合は、「医療現場の崩壊」を招く恐れがますます高くなって、ホント危機的な状況を皆が目にするようなことになるかも知れない・・・。

それと、現在の状況そのまま6割減~7割減で推移した場合には、たとえこれを楽観視した見方で解釈したとして、感染者数が減少に転じることはあったとしても、「感染収束経過期間の長期化(感染が終息するまでの時間・日数等が長引くこと)」までを避けることはできない。

そうなれば、国などからの生活の補償や経済対策も及ばない事態となって、生活難で苦しむ人も増え続けてしまう、そしてそれで人が死ぬなんてことにもなりかねない・・・と、いまの様子からはそう思うんだけれど、どうかなぁ~?

『想像』できているかな?

・・

「正直、あんまり想像できていないかも・・・。」

「でも、『8割減』がとっても重要な数字だということは分かったよ。」

「『医療現場を崩壊させない』、感染拡大やこれを終わらせるまでを『長期化させない』、人を『死なせない』、『重要な数字』なんだよね。」

********

 

《3.資本主義経済とゲーミフィケーション》

 

さてと、日本に住む多くの人たち(いや全ての人たちかも)を敵に回したようにも思うのだけれど(汗)、次は、また別の角度から・・・

・・

「『自粛』と『現金給付』」

あるいは、

「『感染拡大防止』と『経済対策』」

といったワードが、いま、こうしてセットにされることが多いように思う。

それは、政治、マスコミをはじめ、広く世間でも度々これが強調される場面や様子を目にしてということなのだけれど、ああ~、そう言えば、どこかの県知事さんもこの事をとても強く主張されていたなぁ~。

・・

でも・・・

このセットって・・・?

ん~、これってどうなのかなって思う。

とっても難しいことだと、危ういことだと、個人的には感じている。

・・

わかる!

分かっている!

生活のためのお金だもの無視できない!

「自粛要請するなら金をくれ!」

「営業自粛するから金をくれ!」

御尤もな主張であり、叫びだ!

・・

生活が回っていかなくなるから、その分だけのお金の補償は「即」欲しい、まずは「必要」だ。

そう、「即」、「必要」!

・・

が、難しい・・・。

単純じゃない・・・。

いやぁ~、厄介な状況だぁ~・・・。

・・・などといった事柄について、ここから暫らく述べさせていただく。

・・

更に敵をつくってしまいそうだけれど・・・(汗)。

・・

********

「心配ないよ、もう既に敵だらけだよ(笑)。」

********

 

では先ずは、これを「経済学的」な視点で眺めてみよう。

・・

もしも、現金給付等を含む補償および経済対策のタイミングと規模を間違えると、どうなる?

そして、そんな適切さを欠いた補償や対策も途中から改善策などこれを補う措置が取られるならともかく、間違った策のまま、ウイルスの感染だけが終息(収束)し始めて、経済活動が再起動し始めたらどうなる?

・・

特に、直接的に現金と絡めた補償(給付、貸付等)やここに関連させて行う対策(金融緩和策、財政出動、財源確保等)は難しい。

もともとは、世の中に出回るはずではなかったお金が、これもまた言い方は悪いが、世界中に撒かれるのだ。

新型コロナウイルスはそれこそ世界中へと拡大していっているので、特に経済先進国とされている国・地域では、その補償の金額に国家間でバラつきはあるものの、各国ともに、ある程度のお金を現金給付等の補償に当てる。そして、そのお金は世界中に出ていくことになる。・・・それは、どこの国々も、また日本は特に財政難ではあるのだけれど、国の財政や財源確保が厳しくなることも承知の上でそうするのだ。

するとだ・・・、

新型コロナウイルスの終息に目途が立って、経済活動が徐々に再開されていくと、世の中に出るはずではなかったこのお金たちは、どんな役目を果たすことになるだろうか?

・・

これらについては、現在、世界中から注目を集めている経済学者、歴史学者、哲学者、政治学者たちも、それぞれの分野の立場から言っていることらしいけれど(・・・学者および専門家たちの意見は様々に分かれている。現時点での私個人の考えは、日本を含む各国が対応を間違った場合に引き起こされやすい経済状況として最も可能性が高いのは、以下に示すように・・・)・・・、

そう、待っているのは・・・

「インフレ・・・」

だ。

「物価上昇」

だ。

(・・・この場合には直ぐにではなく、デフレもしくは緩やかなインフレ状態が暫く続いた後にくると思っている。)

・・

「だって、資本主義経済の仕組みに多くの国々と人々が組み入れられてしまっているのだもの」

その影響は大だよね。

そして、予定外に世の中に出たお金は、結局はどこへ行くの?・・・って話だ。

お分かりかと思うけれど・・・、

それは最終的にはいずれ、いま既に経済的に優位な立場にいる・・・財・資本を富に蓄え持った人たちや組織へと流れていくことになる。

繰り返すけれど、

「だって、資本主義経済の仕組みに多くの国々と人々が組み入れられてしまっているのだもの」

・・・ねぇ。

(「インフレ」を引き起こす要因となり得る、各国の為替の動向、各国の財政・財源状況、主な各種原材料となる品目の需要と供給、政治における各国間の協調と分断の具合など、またこれらとこれらに関連した幾つかが様々に絡むことでの影響等詳細については、いまここでは取り敢えず述べずにおくけれど・・・)

・・

つまり、現金給付等を含む補償および経済対策のタイミングと規模を間違えると、ウイルスの感染の拡がりに替わって起こるのは経済的格差の更なる拡がりだ。そしてこれによって、いま現在よりも厳しい環境・状況へと最初に追い込まれていくのは経済的弱者であり、貧困層とされる人々である、ということ・・・。次いで、現在のところ中間層(経済的な意味で)とされる人々もその多くが生活環境の悪化等に悩まされる厳しい状況に追い込まれる事態となるだろう。

このように、あまり想像したくないシナリオだけれど、新型コロナウイルスの感染拡大が終息した後は、「インフレ」と(もしかしたら別の経済的状況になったとしても)、更なる「経済的格差を激化させる社会・世界」が待ち受けているかも知れない。これは想定内に入れて覚悟しておく必要があるかと思う。・・・もちろん、こうならないための対策が成されることの方が重要であることは言うまでもない。

 

だからホントはね・・・、

それは平常時から、「貧困問題」、「経済的格差」、「社会的差別」、それと、これらとも関わる「教育格差」について、世界や社会全体がもっともっと深刻に受け止めて解決へと目を向けていなければならいのだけれど・・・、これも言うならば、そもそも「教育」から始めていかないと、と感じる。

・・

**【補足説明】**

*これら差別や格差の問題に関連して、筆者は、日本の教育(公教育)において、また世界の多くにおいても、「インクルーシブ教育」が進んでいない現状からこうしたことへの感度が鈍いがために繰り返されてしまい、また改善も進んでいかないのだと考えている。加えて、日本では、「ファイナンス(お金・金融システム)教育」や「キャリア(職・仕事)教育」の内容の不十分さ、これら教育のバランスの悪さもあると考えている。

・・

*「インクルーシブ教育」については、本文巻末の《参考》で簡単な解説を載せている。が、ここも、本文中ではこの専門用語にあまりこだわり過ぎることなく、このまま読み進めていただければと思う。

********

 

さて、「経済学的」視点で眺めた場合・・・

「自粛」と「現金給付」、あるいは「感染拡大防止」と「経済対策」をセットにして考えてばかりいると・・・、

例えば、一つには、生活の補償や経済対策を練る立ち場の側が、ウイルス感染防止とそれによる感染の状況を必要以上に見過ぎて、もしも生活の補償や経済対策を練る上でも感染対策等を前提とした考えで進めていくことを常としてしまった場合、その補償や対策は打ち出すタイミングも策としての中身も後手を踏んだものばかりになってしまうだろう。それは、タイミングも規模も実態に合致しない策ばかりになってしまうことを意味する。こうしたことが最終的に何を招くかは先に述べた通りだ。

感染が拡大しはじめてからこれによって起こるであろう「生活上困難になり得る事柄」、「事業の経営・運営上難しくなる事柄」などは、ある程度は関係省庁・管轄部署等で予測できる(予測できた)ことであるはずで、むしろ、これら人々の生活や経済上で予測し得るここに直視して、生活の補償や経済対策を打ち出していくことの方が届くべきところへ効果的に届くタイムリーなものになるかと思う。

もう一つ、その補償や対策を講じてもらう国民や人々の側も、生活の補償や経済対策の見通しばかりを待ち望んでいては(気持ちとしてはやむを得ないことだと思うけれど・・・)、感染予防や感染防止のガードを甘くしてしまう役を担ってしまう恐れがある。これでは感染拡大および感染を終息させるまでの時間を長期化させる原因を自ら作って、自身の生活や自身の事業運営においても困難な状況を長期化させ、自分で自分のクビを絞めることにもなりかねない。

要するに、「自粛」と「現金給付」、あるいは「感染拡大防止」と「経済対策」をセットにして考えてばかりいると・・・、結局は、「資本主義経済の仕組みの罠」にハマってしまう、そんな可能性を高めてしまう恐れがある。

・・

*【Q&A物語】***

「難しくてよく理解できないけれど・・・」

「2つを比べながらバランスだけを整えるようなことになると良くないってことでしょ?」

「こっちはコッチ、あっちはアッチ・・・と、分けて考えた方がイイ2つだってことだよね?」

・・

とりあえず、そう思っていて欲しい。

世の中には常に2つを見比べながら進めるべき事柄、あるいは、ある限られたタイミングで見比べながら対応した方が良い物事もあるけれど、ここ最近よく見かける2つのワードのセットは違うのではないのかな・・・と。

少なくても、今は、そのタイミングではないと思う。

これは憶測に過ぎないけれど、これまでの様子からは、どうも変なところで、あるいは必要以上に、『感染拡大防止策』と『生活補償・経済対策』とが睨めっこをしてしまっているように感じてならない。

特に「生活補償・経済対策」の側の方はタイミングも遅くなっていたり、内容も、『えっ?』っていうものになってしまっているように思う。

「感染拡大防止策」は感染拡大の状況として起こり得ることに直視して、「生活補償・経済対策」は人々の生活や雇用・事業の継続・経済活動等で起こり得ることに直視して、それぞれがそれぞれに直視した実態把握、データ分析、予測などに基づいた対応策を練ること(・・・「課題の分離と解決」という捉え方)の方が、想定時期や想定規模に応じた幾段階にも備えた策も前もって準備することができて、タイミングも対策の中身としても適した策が次々と打ち出していけるかと思うんだけれど・・・。

そうすれば、国民や対策を待ち望む多くの人々も、2つのワードのセットに囚われ過ぎずに、もう少し落ち着いた気持ちで過ごせるんじゃないのかな。

 ********

 

次に「心理学的」な視点で眺めてみよう・・・

結論から申し上げると、「ゲーミフィケーションの罠」にも陥ってしまう恐れが多分にある、ということになる。

特に、これは人々の心理面においてのことだ。

これは、先に述べた「共感する力」と相反する働きをする。

「共感する力」から「他者への貢献感」へと繋がれば、持続的な活動、もしくは持続的な挑戦をも可能にする「持続可能なモチベーション」を人々は得ることができる。

一方、「ゲーミフィケーション」とは、「報酬と引き換えに物事に取り組ませる仕組み・手段」の一つで、報酬によって一時的に高められたモチベーション(=「短期的なモチベーション」)のその効果が働いている間に行動をとらせて成果を得ようとするものだ。

具体的にいま、新型コロナウイルスの感染が拡大している状況下で何を意味するかは、お分かりかと思うので、ここは省くけれど・・・、

「ゲーミフィケーション」要素を含む手法はすべて、言うならば、長期に渡って持続的に取り組む物事には効果が薄い。

また依存度が高い仕組みのため、行動そのものから得る充実感などよりも報酬を求めることを優先するようになる。よって、こうしたことを何度も繰り返していると、報酬への依存度が徐々にエスカレートしていく依存症的な心理状態(ゲーム依存症、ネット依存症、ギャンブル依存症などと同様な状態)を招く恐れがある。

**【補足説明】**

*「ゲーミフィケーション」に当たる普段からありがちで、しかし、家庭での教育や学校教育などでは最も慎まなくてはならない例を上げると、・・・「こんどのテストで80点以上取ったら、○○するのを認めるよ(○○してあげるよ)。」・・・などだ。これは、子どもたちが本来もっている「学び続けようとする能力」を削ぎ落としていく手段でしかない。

********

・・

以上から、「心理学的」視点で眺めた場合・・・

「自粛」と「現金給付」、あるいは「感染拡大防止」と「経済対策」をセットにして考えてばかりいると・・・、

そこには「報酬」と「取り組み」の関係が潜在的に働く可能性がある。そのため、感染終息(収束)までの期間や生活面での自粛、経済の低迷が長期化しそうになってきたとき、ここに関わる様々な物事に対処するためのモチベーションを維持すること、精神的な安定を持続すること・・・これらが難しくなってくる恐れがある。併せて、自らの知恵や工夫によって現状を乗り越えようとする心理状態よりも、国・地方自治体による対策や管理を強く望むような方向へとエスカレートしていく心理状態の方が上回ることが想定される。・・・この事が社会全体にまで及ぶ場合は、国民など人々一人ひとりの思考が低下して権力への依頼心の方が上回ってくる状況になるため、こんな時(ヘタをすると?)、政治においては独裁的な政治が展開され易くなる。こうしたこれら全てに渡って心理的な面で自己コントロールすることが困難になってくることを、私たちは十分に考慮しておかなければならない。

つまりは、「心理学的」な視点から眺めた場合もまた、「自粛」と「現金給付」、あるいは「感染拡大防止」と「経済対策」をセットにして考えてばかりいると・・・、結局は、「ゲーミフィケーションの罠」にハマってしまう恐れがあり得る、ということになる。

・・

*【Q&A物語】***

「これも難しくてよく分からないけれど・・・」

「とにかく、ゲーミフィケーションって恐いと思った。」

「『報酬』と『取り組み』の罠ってことだよね?」

「何回も繰り返したり、長く続くと、色々と害もあったり、危ないってことでしょ?」

・・

そうだね。

ご褒美を目当てに頑張るといったことは、誰もが経験していて、割とありがちなことだよね~。

ゲーミフィケーションは、ネット上のアプリでも、品物を売買する場でも、この現代の社会では至るところに仕組まれている。

特に、いまのような緊急時または非常時とされている時は、この罠に注意していて欲しいんだよ。

まずはできる範囲で構わないから、「自分自身で」、「考えて」、「行動する」ことが大切かと思う。

********

 

そんなわけで、非常に難しい状況に、いま人間社会は、更には人類は、追い込まれている・・・ということを自覚しないとならない。

非常に難しいんだ。

非常に・・・。

 

いま、ここで(この項目の中で)記したことは、現金給付等の補償や経済対策の云々、あるいは、それを望む声に対して申し述べているのではなくて、

「一見して、相対するワードをセットにしたときに陥りやすい思考」

ここに焦点を当てた話なのだ、と思っていただきたい。

これを焦点にして、いま私たちが置かれている状況下で囚われやすい事柄と、これらに付随して懸念される点について述べさせていただいた、そうご理解いただけたらと思う。

********

「わぁ~、おぉ~、気持ちが沈みそうぉ~!」

「はい!背筋を伸ばして、深・呼・吸ぅ~!」

深呼吸かぁ!

イイこと言うねぇ~!

********

 

《4.「共感する力」で生き抜け!》

 

ここから先で述べる提案は、それこそ綺麗ごとにしか聞こえない(思えない)だろうけれど(汗)、これも自ら自覚しつつ、現時点で私が考える・・・

「新型コロナウイルスによる危機を生き抜くための対策」

・・・について、恐縮ながら申し述べさせていただこうと思う。

もちろん、あくまでも、「『自立と自律』の教育」を探求する者としての立場でこれを述べさせていただく。

 

それは、「正しい」とか「正しくない」とかではなく、「良い」とか「悪い」とかではなく、考えていると、どうしてもこうなってしまう、といった提案になる。

 

さて、前提として(これは再度申し上げることになるけれど)、

できるだけ、「『自粛』対『現金給付』」または「『感染拡大防止』対『経済対策』」をセットにした思考にならないようにする。

いや、これらのセットを全ての点で完全に無視するなんてことは実際にはできないのだけれど、囚われ過ぎてはいけない、という意味だ。

「資本主義経済の仕組みの罠」や「ゲーミフィケーションの罠」に自分たちの側からハマっていくような思考に陥いることは、できれば避けたいからね。

 

これを踏まえて・・・

 

先ずは、直接的に、人一人ひとりの命に関わる「感染拡大防止のための行動」を今すぐ実行する。

他者と出来るだけ直接会わない、接触しない。

「他人との接触は『最低8割減』」

「健康保菌者(感染しているのに無症状だから感染の自覚がない人)になってしまって移動してしまわない」

これらのことを第一に優先する。

これで、

「医療現場の崩壊」

「オーバーシュート(爆発的感染拡大)」

「感染収束経過期間の長期化(感染が終息するまでの時間・日数等が長引くこと)」

を、とにかく回避する!

みんなで一斉にこれを実行して、できれば「一気に畳み掛ける勢いで」新型コロナウイルスの感染を終息させちゃう!

(・・・これは感染拡大の第2波および第3波が来るのを遅らせると同時に小さな波で収めるための策でもある。)

 ・・

*【Q&A物語】***

「やっぱり、『8割減』が最優先なんだね?」

「わかったよぉ、わかりました!」

「一気に畳み掛けてやろうじゃないのっ!」

・・

そう、『8割減』!

『6割~7割減』では、感染者数は減少するかも知れないけれど、終息までにダラダラと何か月も掛かって、6月・7月になっても日常は取り戻せないかも知れないよ。

それでは、真綿で首を締められていくような状況に陥ってしまう。

それでは、医療現場の崩壊は免れても、医療従事者の疲労困憊はぬぐえない。

それでは、国や地方自治体からの補償や経済対策も及ばなくなる。

それでは、多くの人々の生活が困窮にさらされることになる。

だから、『8割減』を本気で自分の身に置き換えたその『思考』と『行動』以外に、ウイルスの感染を短期間のうちに終息させる方法なんてないんだ!・・・そう思って欲しい。

********

・・

ちなみに、「健康保菌者」は感染者数として発表されている以外にかなりの数居る恐れがある。・・・だって、感染ルートが追い切れていないケースが5割を超えている地域が拡大しつつあるし、日本のPCR検査の流れからして、実際の感染者数は現在発表されている感染者数よりもずうっと多いことは明白だ。

 

それだけに、医療従事者をはじめ、流通・運輸、食材・食料品・生活用品、金融、通信、水道・電気・ガスなど、これら生産業務・製造業務・販売業務・供給業務に関わる職業に就いて働いている人たち、また各地域の保健所で対応をされている人たち、行政や福祉に関わるその現場でお仕事をされている人たちなど、今もこの状況下でお仕事を継続せざるを得ない立場にいらっしゃる皆様には本当に頭が下がる。感謝、感謝、それしかない。

ありがたい(有難い)。

自らの使命感やプライドがあってでないとやっていられないかと思う。

ありがたい(有難い)。

「どうか安全に」と願うばかりだ。・・・30数年に渡るかつての教え子たちも医療現場やこれらの職に大勢就いている。

本当は、私なんぞが、「医療現場の崩壊」や「オーバーシュート」などといった言葉を使用していることは、この方々の働きに対して、この上ない失礼な行為に当たるのかも知れない、実はそうも感じている。

********

「ほんと、感謝しないとね~。」

「こうした人たちに差別的な言葉を吐く人もいるらしいけど、それも『共感する力』の鈍さってやつかなぁ~、残念。」

********

 

が、本当に恐縮ながら先へと進めさせていただく。

 

次に、政府や各地方自治体からの現金給付による補償およびその他の補償・対策について・・・

・・

先ずは、現金給付だ。・・・これは住民等各個人(0歳から全てを対象)向けの現金給付と、事業者(個人、小・中・大規模別)向けの現金給付から始めることを最優先にと思う。

この現金給付による補償、初回は、直ぐ目前の生活および事業運営維持にぎりぎり足りるか、あるいは現実には「こんなんじゃ足りないだろっ!」という金額でも一旦は良しとし、が、直ちに支給してもらう。・・・これホント、「即」行われないとならない! 遅くても5月の連休前までには支給されないとなぁ~、と思う。けれど、きっとそうはならない。

・・

また、決して望ましくはないシナリオだけれど、事態・状況によっては、2回目あるいは3回目の現金給付も致し方ないと政府等国は覚悟して準備しておく必要があると思う。・・・ただし、これが実施されるようなことがあった場合は、ありとあらゆる面で「現状とはまた異なる類の危うさが迫ってくる」ことを私たち(政府・国の側も、日本に住む国民・人々の側も)は自覚しておく必要がある。・・・厳しいことを言うようだけれど、危うくなろうとも、目の前のことを少しでも解決する為には、やむを得ないことをせざるを得ない場合もあるかも知れないのだ。

でも、それは、現金給付以外の他の補償および経済対策が効果的に打ち出せるか否かに掛かってくる。

********

「ん〜、ヤバイって感じ?」

「現金給付以外の補償や対策も効果的じゃないとダメってことね。」

「でも、とにかく、現金給付、即、お願しま~す!」

********

・・

では、その現金給付型の補償とは異なる手段の補償・対策について考えよう。

・・

(以下に記す補償・対策などの例は、本当はより詳しく説明すべきなのだろうけれど、現時点では省略させていただくことにする。詳しく述べるには、もう少し、ここから先で起こるウイルス感染拡大の状況を・・・、おっと、そうではなかったね、「人々の生活や社会の状況、日本経済および世界経済の状況を予測する正確な情報と現実態を私自身がより深く知る」必要があると考える。が、本来であるのなら、私が説明をするまでもなく、先に述べたように各省庁や関係の管轄部署等が事態を予測して、これら予測に基づく先手を打った適切な対応策が、現時点で既に、その各省庁や関係の管轄部署等から提示されていて然るべきだと思うのだけれど、それも難しいのかなぁ~?)

・・

(そんなわけで・・・、)

ここでは、大雑把なものしか提示できないけれど・・・

例えば、「長期に渡って待ってもらう補償(光熱費・家賃等)」、「長期に渡って免除(一部免除)してもらう補償(納税・年金納付等)」、「長期に渡って守ってもらう補償(教育・福祉関連・労働雇用等)」をはじめ、これらの補償と連動させて行う対策(無利子・無担保の長期貸付や全額補償型の長期貸付等を可能にする金融対策、各地方自治体の予算を補てんする等の税収入・財源を確保するための対策等)、その他、「様々な生活スタイルにも行き届く対策」、「事業の継続を安心して臨める対策」を練ることで、個人および事業者が得られるはずだったお金の分をできるだけ現金給付とは異なる手法で補う、むしろこれらの方を強化して実施してもらう。・・・その補償等の策が実施される時期と内容を予定だけでも構わないから(これは第1弾、第2弾・・・と段階的に時期をずらしたもの、補償規模のレベルを分けたもの、こうしたものを、予測のもとに先回りした内容で提示することが必要になるとは思うけれど、これらも含めて)、遅くても5月連休前までには全てが出揃った形で発表されるといいのだけれど、きっとそうはならない。

・・

何故なら、日本中のどこもかしこも「人材(人員)不足」だから・・・。

何故なら、あらゆる分野で必要なはずの「人材育成」を約20年間(捉え方によっては40年間)も怠ってきたから・・・。

「スピード感ある対応」、そりゃ~誰だって分かっているけれど、この国、日本では現在それができないのだよね~。

・・

こうしたことも含めて、それは既に、日本の社会も日本の教育も危機的な状況にあったというわけで、これが新型コロナウイルス感染拡大によってその脆弱さが露呈され、いまその日本の危機的状況が加速しつつあるのだと・・・そう捉えて、日本の国民は、日本に住む人々は、私たちは認識しておくべきかと思う。

 ・・

********

「ええっ!現金給付や他の補償が実際にされるのっていつになちゃうの?」

「わぁ~、これは、こっちも、いろいろと覚悟しないとじゃん・・・。」

「国・政府の皆さん、政治家の皆さん、各省庁や各自治体で働いていらっしゃる皆さん、皆さんどうしも互いに力を合わせて、非常時なんだもん、なんとか工夫してイイ対応して欲しいで~す!」

「法律や規則など決まり事もいろいろあると思うけれど、『非常時の行動と協力を一番に考えて』、頑張って欲しいなぁ~と思います!」

「どう、イイこと言った?」

********

 

だから・・・、

これでは、

「間に合わない!」

「生活できない!」

「生き残れない!」

という人は、とにかく、そう叫び声を堂々と上げて、助けを求めて、救いを求める。

こうした行動を取って構わない。

こうした行動を取る方がイイ。

 ・・

そして・・・、

こうした人たちと、またはピンチに陥っている事業者たちと、日頃から繋がりや関係を持つ人たちがここに加わっていって、繋がりを持つ者どうしで、助けを求め合い、救い合う。

・・

また、これも地域格差があるのが現実だけれど・・・、

区・市・町・村レベルの自治体、あるいはこれよりも小さい単位での地域の集まり(コミュニティ)で、あらゆる策を出し合っていって、助けを求め合い、救い合うことができるのなら、更にイイ。

 ・・

ホントは、

「世界の数パーセントだけいる大富豪・富豪たちが黙って金を出しゃいいのに・・・」

とは思うけれど(元から世の中に出ているお金なのだから)、が、そんな真にご立派な大富豪・富豪の方は、どうやらなかなか居ないらしい(偏見かも知れない、失礼を申し上げたのであればお詫び申し上げます)。

 ・・

だから、普段から付き合いのある、普段から利用させてもらっている、そんな繋がりや関係・関連のある互いが、知恵を出し合って助け合うしかない。・・・「可能であれば」という前提条件が付くけれど、極力それがイイ。

・・

人々、国民、住民、仲間どうしが、どんな手を使ってでも(人殺し等はダメだけれど)助け合う覚悟で、実際に行動して助け合う。

・・

*【Q&A物語】***

「せこいかも知れないけど、物々交換とかってどう?」

・・

おっ!ある意味、スルドイねぇ~!

せこい・・・なんてことないよ!

お互いにお金で協力し合うことが難しい場合は、現物と現物で交換とか、お互いに出来る作業や得意なことを交換し合って協力し合うとか、普段やっている仕事を活かし合うとか、手伝い合うとか、こうして、これまでにやったことのなかった生活スタイルや仕事スタイルを少しずつでイイから改良していって、みんなで探し出して、創り出していく・・・って方法もある。

ま、これが、『国家インフラに頼らない小集団を創っちゃえ』までいくと、ちょっとアナーキーな思想になり過ぎるかも知れないけれどね・・・。まさに究極、よほど、国・政府・政治の対策が当てにならなくなってきたときの最終手段はコレかな(笑)?・・・って、コレは真に受けないでよ。

*******

・・

ただ、これ、確かな情報を見極めることが平常時よりも難しいから、

「普段から繋がっている者どうしから手を取り合って」

というのが「重要な鍵」になる。

・・

それから徐々にその輪を拡げていくようにする。

・・

見知らぬ者と突然手を組むのは危険が伴う。他人の弱みに付け込もうとする輩も現実にはいるのだから・・・。

・・

「信頼」も重要なキーワードだけれど、見誤らないためには、「『普段から繋がっている信頼』からスタートする」ことだ。

 

それと、このことは「心理的な面」を重視して申し上げるのだけれど・・・、

(先に述べた「独裁的な政治」などと言わないまでも・・・)

補償や各対策および管理などについて、国民・人々の側は、はじめから政府や政治家ばかりに「期待し過ぎ」てはならない・・・そもそも普段から、皆さん、そんなにこの人達の言動に信頼を置いていたのですか?・・・と、少し思う。

平常時から確りとした仕組みを構築することができていないのに、この緊急時に上手くやれると思う?・・・この緊急時にそんな期待をする方が些か傲慢では?・・・と、また少し思う。

(普段から、政治への信頼、政府への信頼が厚いような国であるのなら別だけど、日本については、少なくてもここ3年ほどの間に、そのような世論調査結果は出ていない。・・・幾つかの世論調査を眺めても見つけられない。)

・・

いま現在の日本では、国の中枢にいる人も、○○専門家と呼ばれている人も、社会の端っこに追いやられてしまっている人も、加えて私なんぞは最も怪しい奴なわけで(笑)、どいつもこいつもその多くは、この緊急事態に対応し得るだけの十分な教育もトレーニングも受けていないのだ、上手く、スムースに・・・なんていうことが出来るわけがないのだ。

誰が首相であったとしても、その舵取りは、そうそう上手くなんていかないのだよ。だから、いまの非常時は特定の誰かに向けて攻撃的な批判などしてはいけないんだ。それよりも、平常時から関心と批判的な視点を持ってその言動に目を向けておくべきなんだ。

もう一度だけ言うけれど、多くの人が、

「だって、こんなことまで起きてしまう状況に対応できるだけの教育なんて受けてきていないも~ん」

ということなんだよ。

だから、国・政府・首相等公とするものも含めて、社会的に力を持った他者・組織への期待もほどほどにした方が良い、これらへの依頼心を強め過ぎないことだ。

・・

*【Q&A物語】***

「また、なんか怒ってる?」

「国・政府や他人を当てにするなってこと?」

・・

ごめんなさい。

いまここで述べたことは、少々荒っぽい表現であったとは思うけれど、国民・人々一人ひとりの「思考」や「行動」を「鈍くしてしまう心理状態」、これに陥ってしまわないようにとの意図なんだ。そう理解してもらいたい。

・・・

国・政府や他人を当てにするなっていうことよりも・・・、

他者の行為に気を「取られ過ぎ」たり、また、ある個人に向けて「攻撃的」になったりした場合、割と長い間に渡って、ここにばかり目が奪われがちになるのが人間で、きっと誰もがそういったことに陥る。ましてや、その他者が、社会や自分に及ぼす影響が大きいと感じれば感じるほど、これに陥りやすくなる。

そうすると、自分自身や自分の周囲にいる人たちのために本来ならば「考えていたこと」や「行動するはずだったこと」を、または「考え続けること」や「行動し続けること」を、つい、自分自らが見失っていたり、気付いたら忘れていたり・・・なんてことに、どうしてもなってしまいやすい。

・・・

他者や他者がしていることに注意を払っておくことも怠ってはならないけれど、「過ぎて」もならない、「バランスを常に自分の意識に置いておく」ことかと思う。「自分の思考や行動を停止させない」ためにも・・・。

********

・・

**【補足説明】**

*ここでは、特に非常時においての個人に対する「攻撃的」な批判は慎むべきだと・・・こうしたことも述べさせてもらったのだけれど、これと別に、社会や組織の制度、物事の仕組みに対しては、非常時だろうが何だろうが批判的な視点は持ち続けなくてはならないと考える。が、やはり「過ぎて」はならない、「自分の思考と行動を停止させない」ためにも・・・。/*それには、常に自分自身も自己の意見を確りともち続ける姿勢、また探求し続ける姿勢=「自己の確立」が先に必要かと思う。この「自己の確立」は先に述べた「自律の力(自律)」を養う上でも必要とされる。/*こうした「批判的な視点」と「自己の確立」を共に両立させながら育てていくことにおいて、北欧各国の教育(公教育)は、アメリカ、イギリス、日本などに比べると、何歩も先を歩んでいる。

・・

*余談になるけれど・・・、私が探求・提案している「『自立と自律』の教育」とは、北欧各国のような教育(公教育)を目指すといった類のものでは決してない。日本の教育(公教育)は変えていかなければならないけれど、これまでの日本の教育を全否定するような変革もいけないと思っている。その上で、日本には日本のスタイルに合った・・・ただし如何なる国際社会の中でも通用する「新しい教育システム(仕組み)」が必要と考えている。

********

 

だから、多くは、泥っ臭く、身近な人どうしで手を取り合うことから始めて、知恵をふり絞って、考えて、そして行動する。

そこでは、失敗しても、上手くいかなくても、あの手この手で、続けて、続けて、繋げて、繋げて、これを拡げていく。

(本当は、拡げ過ぎてもいけないのだけれど・・・、いまは、そんな事よりも、まずは行動し続けていこう。)

・・

もしも失敗や間違ったことを少ししてしまっても、周囲はその個人を責めたりしてはいけない。

皆で、フォローし合って、あの手この手で、何度でも続けて、幾重にも繋げていく。

これがイイんじゃないか。

どんな立場の人も、今はこれがイイんじゃないか。

こうしながら、また少しずつ「共感する力」を取り戻していく、これがイイんじゃないか。

 ・・

**【補足説明】**

*この「共感する力」を取り戻すために大切なのが「チームセルフリーダーシップ」という考え方。これは「自律の力」を養う上でも必要となる考え方の一つ。この「チームセルフリーダーシップ」についての説明は「今日の一曲 No.106(2020/04/09更新のブログ)」の中で述べさせてもらっているので一度ご確認いただけたらと思う。これ「最重要事項」!  尚、本文巻末の《参考》のところでもリンク可能。本文を読み終えた後にでもどうぞ(1分ほどで読める内容)・・・。

・・

*ミスや失敗は、個人には寛容であるべき。むしろ、その「環境」、「作業や行程などの仕組み」、「組織の仕組み」に問題が潜んでいることの方がはるかに多い。よって、これらの「環境と仕組みの改善」に目を向ける方が効果的であると考えて修正や改善を重ねることが大切。

・・

*「ティンカラー」的な行動もこの先は必要になる。「ティンカラー」とは、とにかく目の前の実践可能な事から始めて、とにかく行動しちゃう。行動を重ねながら目の前で起こる変化によって次の小さな目標とそのための行動を決めていく。ミスや予想外などは当然のうちで、目の前で起こる変化に反応しながら次々と行動を起こしていく、こうした行動タイプの人のこと。ちなみに、これと対するのが「プラナー」で、これまでの長きに渡って学校教育では、計画的で、効率的で、組織的である「プラナー」の育成に力を注いできたが、この「プラナー」タイプの行動だけでは現状社会における問題の解決は難しいことが増えてきている。

********

 

そして、どうしてもダメだったら、

「もう、死ぬ~」

と、もう一度叫び、わめき、救いを求めるのだ!

でも、ホント、そう!

 ・・

もしも、もしも・・・だよ。

・・

いやいや、死んではならない。

それでは、感染拡大防止をして他者の命を守ることを優先した、その意にも反してしまう。

これは、あまりに不謹慎すぎる発言だった。

適切さを欠いた表現と知りつつ、申し訳ありません。

が、それほどに、人類は、いま、この新型コロナウイルスに追い込まれている・・・ということが言いたいのだ。

・・

ただね、こうした感染拡大を生じさせるウイルスだって、人類の、ある意味では身勝手な営みが生み出したものなのだけれどね~。ウイルスが恐いのか、人類が恐ろしいのか・・・ん~、何とも。

 

とにかく、取り敢えずのところ・・・可能性を見出すとすれば、

「共感する力」

と、この力を取り戻すための

「チームセルフリーダーシップ」

だ。

それには、

「孤独(個独)になったり、させたりしない」

「他者と何らかの方法で繋がっておく」

ことだ。

そして・・・

「こんなときに、連絡したら迷惑かなぁ~」

なんて思わずに、

「迷惑がられてもいいっか、気になったのだから連絡してみよう」

といったくらいでイイかと思う。

こんなときこそ・・・。

・・

「助けて~なんて言っても無理だよな」

なんて思わずに、

「無理かもしれないけど、助けて~って伝えよう」

といった感じで、そう、自分で決めないで、まず、誰かに確りと届けよう!

こんなときこそ・・・。

・・

*【Q&A物語】***

「ん、大切にしたいね~。」

「日頃から繋がりのある人・・・だね。」

「繋がっておくこと・・・だね」

「ティンカラーとプラナーかぁ、自分で行動を上手に使い分けられたらイイのに・・・って思った。」

「共感する力・・・だね。」

「チームセルフリーダーシップって?・・・わかんないけど、ま、いいっかぁ~。」

「チーム・・・なんちゃらは、頭の隅にでも置いておこうかな・・・。」

・・

はい、そんな感じでイイかと思います。

こうして、言葉を頭の中に入れておくだけでも、少しずつ行動が変わってくる。

はじめから上手にできることばかりでなくてイイんだ。

たくましく、それを『生き抜く力』にするためには・・・これらの『言葉』をもとに、『自分自身自ら』が、『思考』して、『行動』していくことだ!

********

 

それでも、どう~にもなりそうもないときは・・・、

ぅん~、アレだね~。

 ・・

********

「アレってなに?」

ここでは言えない、絶対に公開できません(汗・笑)。

「なんだよ~、ケチ!」

「あとで、そっと教えてよ。」

それなら、君がどう~してもダメって思ったときは策を授けよう。

何故ケチるかっていうと、まったく教育的じゃない気がするから(汗)。

ヒントにもならないとは思うけれど・・・

たしか、生前の清志郎さんも似たような事をおっしゃっていた・・・ような気が・・・。

(この方の熱烈なファンということでもないのだけれど・・・生きる道標の一つかな?)

 ********

 

《5.最終章:自己反省文と希望》

 

大好きな本の一冊に、外山滋比古著「本物のおとな論」がある。

この中で書かれている事が、いまこの瞬間も脳裏に浮かんでいて、ここのところ数日間は止むことなく続いている。

そして、いま、これに反した行為を私はしているのだなぁ~といった思いがある。

このブログを書いている間も、ずうっと常にこの思いがあった。

ま、罪悪感に近いのかなぁ(汗)。・・・どういった意味かをお知りになりたい方は、「本物のおとな論」を是非読まれるといい。これについて、またここで述べてしまうと、更に長くなるので省かさせてはいただくけれど・・・。

 

さて、述べるべき事柄は大方書かせていただいたように思う。

決して公開できない、たった一つのことを除いてはね(笑)。・・・それは、直接、口頭で聞き出せる機会があったら上手く聞き出して欲しい(笑)。

しかしながら、日本国内に住む全ての人たちを敵に回した感もまた否めない(汗)。

このような物言い、表現を連ねていると、こんな私と繋がる人はもう居なくなるかも知れない、助け合う人など居なくなるのではないかと、自分で書いたくせに自己嫌悪感にも陥る。トホホホホ・・・。

********

「なんか、暗いけど・・・。」

「大丈夫?」

********

が、ほぼ包み隠すことなく、率直ないま現在の心境を述べさせていただいたわけで、その心理状態と思考状態についても記させていただき、何よりも私自身がこれらを自覚するに至った。

それを、いま、こうしてお読みくださっている読者の皆様には、恐縮な思いと、感謝の思いを重ねつつ厚く御礼申し上げたい。

 

他人様からしたら、ただの馬鹿者と受け止められるかも知れないが、それはそれで仕方がない。

 

それでも、新型コロナウイルスの感染が拡がる現状の日本の社会を「『自立と自律』の教育」の探求から視た場合の・・・

「こっちに進むのは危険なのでは」と「こっちに進む方が良いのでは」

・・・といった明確に区分した提案をご提示することはできたかと思う。

 

ここでもう一つ、この今回のブログにて、これだけ失礼極まりない表現を用いて書いておきながら、弁解っぽい言い訳にもなってしまうのだけれど・・・、

愛間純人は、

「人が大好き」

なんだよね~・・・これだけは伝えておこうと思う。

ん〜友達は少ないけれど(汗・笑エヘヘ)

********

「あぁ~わかる気がする。」

そうぉ?

・・・って、おい!

********

 

ところで、今こうした事態にあって、最も悔いていることは別にある。

それは、やはり「教育(公教育)」に関してだ。

自身、気付いたときは、もう西暦2000年になっていた。・・・教育現場に立って約17年間も経過していた。なんて鈍いのだろう・・・と振り返る。

ここからの10数年間ほどは、少しでもこの先の社会・世界を見据えた対応をと思いつつも右往左往する毎日で、自身が教育現場で受け持っていた目の前の子どもたちに対して何とか対応するだけで精一杯だった。

「先生の数学の授業、わかりやすい!面白い!」

といってくれていた当時の子どもたち(高校生たち)に救われていたのは私の方だった。

********

「へぇ~、そうだったんだ。」

「みんな楽しそうだったけどねぇ~。」

ん?君って・・・

「いいから、続けて続けて・・・。」

********

・・

そして、2014年頃からだろうか、ようやく、その問題の根本的なものの正体が見え始めてきて、教育現場での実践と学際的な探求の成果が上手く絡み合うようになった。

こうして自ら広く動き出したのは、同ホームページの「子どもたちを育む『自立と自律』」のページでもご案内している通り、2018年からだ。

が、多くの人々に拡がっているとは言えない。

「教育を語りあおうよ音楽Cafe-Barで」という企画では、会場に訪れた人たちもその時その場ではとても熱心に取り組んでくださる、が、広く世間様に向けてはいま一つ拡がっていっていない。もちろん、発信力とそこに伴うべき魅力に欠ける私自身の問題であるとは思っている、のだけれど・・・。

********

「おぉ~、愚痴りはじめてるねぇ~。」

********

・・

そんな折、ここで、世界中が、そして日本が、「新型コロナウイルスによる感染拡大」と対峙しなければならない事態となった。・・・このことは、いま、自身の「教育を変容させていくことへの思考と行動そのものの力の無さ」を痛感する、そんな状況ばかりを目の当たりにする出来事になっている。

「もっと早くに、『自立と自律の教育』に私自身が気付いて、世の中へと、もう少しだけでも広く行き渡らせることができていたなら、もう少しだけでも皆で考え合うような状況を多く作ることができていたなら・・・」

と・・・そんな後悔を・・・

それでも自身でどうにかこれを抑え込みながら、いま、毎日を過ごしている。

********

「やっぱり暗いよ。」

「この人、大丈夫?」

********

 

が、そんな私なんぞの後悔よりも、なんとしてでも私の予測に反して欲しいことがある。

そう、「医療現場の崩壊」と「オーバーシュート」という事態だけは絶対に回避しなけばならない!

加えて、「感染収束経過期間の長期化(感染が終息するまでの時間・日数等が長引くこと)」の回避もだ!

・・・これらが叶うことを願っている。

「ロックダウン」という手段は、日本では、もう既にここまでに進めてきている対策の流れからして、ここに組み入れることは現実的に不可能に近い状況にある。

いまこの状況を改善へと向かわせて、この難を乗り越えるためには、日本で暮らす人たち一人ひとりの思考と行動が、「自立と自律」にも繋がる「共感する力」を取り戻すといった方向へと変容していくこと以外に、そうそう道はないかと思う。

残念ながら(涙)、「教育(公教育)」については、遅れている、追いついていない、すぐには変わっていかない・・・のが現状だ。

いまこれら教育の現状を打破すべく、その課題解決の入口として導入が進みつつあるのが「アクティブラーニング(主体的・対話的で深い学び)」や「人工知能AIによる学びの個別化」と呼ばれる手法なのだけれど、たとえ、これらが本来の狙い通りに正しく運用されていったとしても、日本の「教育(公教育)」は、ここから何十年か先の未来へと託すしかない状況にある。

それだけに、取り戻せるかも知れない「共感する力」が、いまは大切なのだと考える。

********

「いま『教育』を変えていくことは、ミライ・・・に託すこと。」

「かつてあった『共感する力』を取り戻すのは、イマ!・・・ってことだね。」

「意外とまとめるの上手でしょっ!」

********

 ・・

それと、もう一つ予測に反して欲しいことがある。

日本を含む各国の政策および各国間の協調によって「各国の国民・人々の生活を守るための十分な補償や経済対策」が世界中の人々に行き届くこと、また新型コロナウイルス終息後の社会・世界が「激しいインフレを引き起こして(他の好ましくない経済的状況も含めて)、経済的格差を更に激化させるような社会・世界」にならないこと、これらを実現に導く政策・仕組みが見出されることだ。

・・・これらのこともまた強く願っている。

この課題解決に向けて、私には「コレっ」と思える現実的な方策が浮かばない。

「誰かぁ~頼む、お願い~っ!」って感じだ。

********

「ぅんじゃぁ、誰かお願いしま~す!」

 ********

 

さて、こんな私めが、いま、できることは・・・、

2020年4月9日に更新したブログ「今日の一曲 No.106」の「3.近況報告」の項目の中で書いたことだ。

これに変更はない。

不器用なりに、それこそ泥っ臭く、続けて、続けて、自分なりの知恵と工夫を重ねながら続けていくしかないと感じている。・・・人・社会・国を創る根源が「教育」、この教育によって様々な物事を実現していくのが「各人(個性)の営み」・「社会の営み」・「政治」・「国」、そしてこれらを支えるエネルギーが「文化」・「芸術」・「芸能」・「科学・学術研究」で、これが循環しながら螺旋状に組み上がっていくのを想像しながら・・・

********

「また、なんか分からないこと言い出してるよぉ~。」

「ま、取り敢えず、がんばれぇー!」

********

 

最後に・・・、

皆様ご自身らが受けてきた教育、各世代が受けてきた教育、また今現在の子どもたちが受けている教育、それぞれが少しずつ違う。もちろん、各人が置かれていた環境にもよるので、それは個々のレベルにおいてもまた違う。

このことは、確かに現状の社会に対して弱みになっているその大部分は重なり合ってしまっているのだけれど、受けてきた教育のその環境とそこで得らていた機会が少しずつ違う分だけ、その弱みが全てで重なっているわけではなく、その弱みは互いに少しずつズレて違っている。

だから、あきらめずに、それは子どもから大人まで、人々が互いにこれらの弱みを補い合うようにして歩むことを始めれば、この現状の、この難を乗り越えていくことは可能である、・・・そう考えていただきたい。

またこうした希望をもって、行動していただけたら・・・と思う。

・・

その希望の鍵とは(繰り返しになるけれど)・・・

「チームセルフリーダーシップ」

を活かして、

「共感する力」

を取り戻すこと!

それから、もう一つだけっ・・・!

私がいつもブログ等で強調していることだけれど、

「ユーモアと笑顔」

だ!

・・

*【Q&A物語】***

「ユーモアと笑顔・・・OKで~す!」

「それなら任せておいてっ!」

「質問はないです!」

・・

嬉しいことを言ってくれますね~!

たくましく、生き抜いてみせてくれることを、心より願っています。

話を聞いてくれて、質問までしてくれて、ありがとう。

いや、ありがとうございました。

ところで、君・・・、誰・・・?

・・・・・・

********

 

最後までお読みくださいました皆様に厚く御礼申し上げるとともに心より感謝申し上げます。

ありがとうございました。

どうか、お元気で・・・。

 

**《参考》**

●日本の「教育(公教育)」、「自立」および「自律」、「教育を語りあおうよ音楽Cafe-Bar」については?

→ 同ホームページ「子どもたちを育む『自立と自律』」のページで詳しく解説しています。

・・

・・・尚、「自立と自律」を目指すその根本には「自由の相互承認」という教育哲学の分野で論じられている考えがある。この「自由の相互承認」の感度を高めることと「共感する力」を養い磨いていくことはとても近い関係にあると筆者は考えている。故に、本文中でも「『自立と自律』にも繋がる『共感する力』を・・・」と述べている。

 

●本文中で述べている「共感する力」および「共感」のそのものの意味とは?

・・・「共感」という言葉自体には曖昧さが伴う。受け取り方・解釈によっては危険な意味を伴うことさえある。それ故、本文中では、司馬遼太郎氏やジョージ・ソーンダーズ氏の作品も例に上げ、また度々、「自律の力」、「チームセルフリーダーシップ」といった言葉と「共感する力」を並べて書かせてもいただいた。本文中に用いた「共感する力」および「共感」が意味するものとは、あくまでも「自律の力」や「チームセルフリーダーシップ」にある「思考」と「行動」のこれらと両立するものであることを、ご理解いただきたく思う。

 

●「コンテンツ・ベースの教育」とは?

・・・教師から伝えられる情報や知識をそのまま正確に蓄えられる人材を育成する、これを優先に進めていく教育のこと。結果的に、19世紀~20世紀代の工業化による大量生産を中心とした経済活動が盛んな社会・・・「産業主義社会」においては、ここに必要とされる能力を育成する意味でも適した教育であった。同時に、国家の指導的立場にある人や企業経営者らの人たちにとっては指示の徹底や指示系統の掌握にも必要な教育だと考えられ、これまでは、こうした管理・監視をする側の人間にとっても都合の良い教育であったと言える。

 

●「コンピテンシー・ベースの教育」とは?

・・・情報や知識を得たところで終えてしまうのではなく、得られた情報・知識を基に何ができるのかを考える思考力、他者と共にコミュニケーションを交わし合いながら問題・課題を解決していく能力、これらを合わせもった人材の育成を目的とした教育のこと。これが西暦2000年以降、コンピュータやインターネットの普及と併せてIT化と世界のグローバル化が進む社会・・・「知識基礎社会」においては、世界水準の技術革新、異なる言語・異なる文化への理解、異分野どうしの融合から新分野を切り開く力、これらが求められるようになって、当にここに必要とされる教育として、教育学者または教育関係者の間で注目されることになった。しかしながら、「コンピテンシー・ベースの教育」とはこの「知識基礎社会」に合わせて新しく生み出された考え方では決してなく、元々は、「いかなる社会の変化にも対応し得る人材の育成」、「より良い(好い)社会を提案・構築していくこと、または変容させていくことができる人材の育成」と併せて、「各人が本来もっている能力を伸ばし、各人がその能力を発揮して社会で活躍するための教育」の実現に向けて、100年以上前の19世紀後半から20世紀前半に掛けて確立されていった教育の根源的な理念の一つであった。これが今日に至って再び、現在から未来を見据えた新しい教育の手法を生み出す考え方の土台となっている。・・・本文中に上げた「アクティブラーニング(主体的・対話的で深い学び)」も、『本来は』この教育の理念と目的に沿った手法の一つ。

 

●「インクルーシブ教育」とは?

・・・上記「コンピテンシー・ベースの教育」を基にした教育理念および教育手法の一つ。もともとは、視覚や聴覚などの感覚機能に不自由を抱える子ども、生活に車椅子の利用が必要な子ども、難病を抱えている子ども、精神的な疾患を抱えている子ども、脳の機能の発達にアンバランスな面(社会生活上において)が認められる子どもなど、これらの子どもたち(いわゆる障がい児たち)と、そうでない子どもたち(いわゆる健常児たち)とを可能な限り同じ環境のもと同じ機会を与えながら教育を進めていこうとする考え方・手法で、それぞれの違いを認め合うことができる人間を育てることを目的に始まった。

このことは、いわゆる健常児とされる子どもたちの中でも得意・不得意があるなど、どの子どもたちも一人ひとり多くの面で平均的に発達していることはあり得ない、という捉え方が土台にある。

その後、習慣や文化の異なる子ども(例えば移民や外国籍の子ども)もここに含めて教育することが求められるようになると、その目的も更に具現化され、いま現在は、先に示した目的に加え、文化的な背景や社会階層の違い、同性愛者など性的嗜好性価値観の違い、政治的立場の対立による違い、これらの違いも乗り越えて対等な関係で互いの存在を認め合う人間を育てることがこの教育の目的とされている。

ここには、マジョリティの立場にある人間がマイノリティの立場にある人間を受け入れるといった考えで終わるのではなく、マイノリティとマジョリティといった区別した見方さえも取り払い、ただ一人の個性を認め、どの人間も同等の価値をもった存在である、といった理念の上に教育が実践されていくことを何よりも重視した考えがある。

 

●「チームセルフリーダーシップ」および愛間純人の近況については?

→ 同ホームページ「ブログ」の「今日の一曲 No.106(2020/04/09更新)」の文中の「2.チームワークに必要不可欠なもの」、「3.近況報告」という項目でそれぞれ載せています。

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*《追記》***

このブログを公開した後、2020年4月20・21日に文章の一部を修正・加筆いたしました。

誤字、脱字、文法上あるいは構文上において不成立または不十分であった箇所と、その前後で、文脈の流れや表現方法に支障がある箇所において、修正、加筆させていただきました。ただし、本文の内容・主旨は 2020年4月13~15日時点で書き記したそのままです。

公開直後に一度お読みくださいました方々には深くお詫び申し上げます。

たいへん、失礼をいたしました。

特に、カノミ様、SAWADA様、吉浦隆司様、弥勒のマル様、K様には、多大なるご迷惑をお掛けしましたこと、この場で恐縮ながらお詫び申し上げます。

また併せて感謝申し上げます。

お願い、友達でいてね(汗・涙・笑)。

また、多くの読者の皆様にも、あらためて感謝申し上げます。

どうか、どうか、お元気でお過ごしいただきますよう、心よりお祈り申し上げます。

 

2020年4月21日 

「自立と自律」の教育探求者 

 愛間純人

(本業はシンガー・ソングライター だよ)

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=再修正について=

*2020年4月23・26日:数箇所で誤字・脱字等を見つけ修正をいたしました。

=構成全体の改訂について=

*2020年4月29日:専門用語や文中の比喩的表現を説明するための【補足説明】を本文途中に付け加えました。

*2020年4月30日:専門用語を解説するコーナー《参考》を本文巻末に付け加えました。

*2020年5月1~3日:本文中のやや難解な内容についてQ&Aを兼ねた会話的文章を【Q&A物語】として本文途中に付け加えるなどしました。

*本文の内容・主旨は、 2020年4月13~15日時点で書き記したそのままです。

 

2020年5月5日

愛間純人

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=再々修正について=

2020年5月17日:「教養」と「自律の力」の関係性について記した【補足説明】を加えました。

 

2020年5月17日

愛間純人

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以上。