読楽論文 No.1

2020年5月5日公開のブログより

緊急特別編:改編・新型コロナウイルス対策と日本の社会を「自立と自律」の教育から視る(ある一人の馬鹿者からの提言)

 

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最初に、これからご紹介するエッセーを、この「読楽論文」(「どくがくろんぶん」)のページで掲載するに至ったその経緯についてご説明させていただきます。

 

元々は、2020年5月5日に、「こどもの日」ということも少し意識して公開したブログでした。

実はこのブログ、更に時間を遡ると2020年4月19日に一度公開したブログで・・・これを、より詳しく、また分かりやすく読者の皆様にお伝えできればと思い、構成全体を見直した上で新たに改編したブログであったのです。ただし、本文の内容・主旨に至っては改訂・変更することなく、初めに書いた2020年4月13日~15日の時点のそのままをここに載せて公開しました。

・・・少しややこしくて、すみません。

 

ところが、改編後、同ホームページ「ブログ」のページであらためて公開したその2020年5月5日以降に問題が生じました。それは改編したがために「ブログ」のページでは長文が過ぎたのでしょう、スマートフォンをご利用の読者の皆様からスクロール等に支障があるとのご指摘を受けるようになりました。

そこで、本ページを新設してここへと移動、「読楽論文」として掲載するに至ったというわけです。

よって、表題および以下の文章はブログとしてこれを連ねております。予めご了承いただきたくお願い申し上げます。

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ーー《前書き》ーー

 

この今回のブログを公開するか否かについては随分と思い悩みました。・・・そりゃぁ、こんな私も時には悩むことだってあるのですよ。

そのため、記述作業を終えてから公開に至るまでの間に少々タイムラグが生じております。

このブログを実際に書いたのは、2020年4月13日~15日です(これを証明できるものはありませんが・・・)。

 

私如き者が、述べ、語り、わめき散らしたところで、何事かに発展することもないのでしょうけれど、「新型コロナウイルス」なるものが日本国内で感染拡大している現状で、これに関わる内容のものを世間様に向けて公開するという行為は、それはいつも記載している「ブログ」とはまた別の発信する側の者としての覚悟が必要に思い・・・まぁ、躊躇もし、悩んだというわけです。が、ここで感じ考えていることを率直に書き残しておくことも大切かと思い、公開云々のことは後回しにして、ともあれ、先ずは、自分自身が自身の現在の思考状態および心理状態と向き合い、これを自覚するつもりで書き始めました。

 

さて、ここからは、私のことをあまりご存知ない方のためにも簡単な自己紹介を兼ねて、今回のブログの内容についてその概略を少しご説明させていただきます。

 

この約8年間並びにいま現在は、シンガー・ソングライターとしての活動に加え、これと併行して、教育現場で培ってきた経験も踏まえて(約32年間)、教育学の分野をはじめ、心理学、哲学、社会学、経済学、政治学などで論ぜられている最新の研究成果も学びながら、「『自立と自律』のための教育」(表題および以後「『自立と自律』の教育」と記す)の探求に取り組んでいます。

しかしながら、これら学術分野での博士号や何らか評価ある称号を持つわけでもなく、ここで述べることも、所詮、言うなれば素人の戯言です。その意味では、皆様方が一々まともに相手にされる必要などない事柄であると、そう言えなくもないかと存じます。

ただ、単なる自惚れかも知れませんが・・・これも勿論、不確かな事や理解に及ばない事柄の方が多いことを前提に申し上げるのですが、「『自立と自律』の教育」の探求を重ねる中で、ここ数年に至っては、現在そしてここから先の日本の社会・教育にとって欠かせない重要な「軸」となり得るものもそれなりに見えてきたように感じています。・・・(*これら詳細については同ホームページ「子どもたちを育む『自立と自律』」のページに記載)

 

先に述べた通り、「新型コロナウイルス」に関する現状を書き記すという行いは、当初、この状況下での自分自身と向き合うことを第一にと考え、始めたことです。が、暫くして、それはきっと自然にそうなったと思うのですが、書き進めていた「新型コロナウイルス」に関する記述を時折見返し、また少しずつ見つめ直しながら作業を続けていると、これらの事柄も、これまでに探求してきた「『自立と自律』の教育」の様々な事と「決して無関係ではないよなぁ~」と、そう徐々に思えてきたのです。そしてそこから、「公開を前提に書き進めていこうかなぁ~」という気持ちに変わっていったことは確かで、それは恐れ多いことであると自覚しながらも、今回のブログを公開することへの決心を固めていく切っ掛けになったように思います。

よって、今回のブログは「緊急特別編」として、「新型コロナウイルス感染拡大という問題に直面した日本の社会」のこの部分に着目して・・・これを「『自立と自律』の教育」の探求から眺め視ていくことになります。そこで、どんなことが浮かび上がって見えてくるのかを示しながら、私なりに感じていること、考え方や提案、これらを含めて諸々と述べさせていただきます。

 

尚、平素より、このホームページまたは同ホームページ「ブログ」をご覧いただいている皆様の多くは、私、愛間純人のスタンスをおおよそご理解いただいている方々であるとの認識でおります。また私の書いた記事等に表現された真意を読み違えるような解釈はされないものと思っております。このことは日頃から常に感謝していることでもあります。

今回は卑怯にも、これにも甘えて・・・述べさせていただきます。

 

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各章、項目だけ先に記しておきます。

( )内は読まれる際に要すると思われるおおよその時間です。

 

《0.真意は既に示してあるのだけれど》

 (3分程度)

《1.日本の社会と教育の現状》

 (25分程度)

《2.感染拡大、医療崩壊、長期化》

 (15分程度)

《3.資本主義経済とゲーミフィケーション》

 (20分程度)

《4.「共感する力」で生き抜け!》

 (25分程度)

《5.最終章:自己反省文にも希望を》

 (10分程度)

《参考》専門用語解説等

 (6分程度)

<追記>お詫び、修正について、他

 

●本文途中には、内容ごとこれに併せて【補足説明】または【Q&A物語】「会話的文章(物語)」といったものも載せています。これらはそれぞれの内容についてその要旨を確認・整理する目的で設けたものです。

●一度に全てをお読みになると、100分~110分ほど掛かるかと思います。

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前置きが長くなりましたが、ここから先が本文となります。

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《0.真意は既に示してあるのだけれど》

 

ところで、この4月に入ってから続けて、同ブログのページでは「今日の一曲 No.106(2020/04/09記載)」を公開し、また同ホームページ「子どもたちを育む『自立と自律』」のページも一部改訂・加筆したのだけれど・・・これらはお読みいただけただろうか?

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「ん?・・・それも『読め!』だなんて言わないよね?」

『たぶん(笑)・・・』

『えっ、えぇっと・・・君って?』

「‥‥」

「そんなことより、何が言いたいの?」

『あっ、はい、では・・・』

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既にこの2つの両ページをお読みになった方は、これらそれぞれの内容から、私がここに共通の意をもって込めた一連の意図や真意などにも気付いて、それはおおよそであっても、これもまた汲み取ってくださったかと思う。

・・・少々傲慢かな(汗)。

・・

今回ここで述べようとしている諸々の事柄も真意はこれらと同じで、その「根本」および「原則」については、むしろ、この2つに詳しく書いたつもりなので、もしもまだお読みでない場合はこれらもお読みいただけたら・・・と。

いや、恐縮ながら正直なところ・・・、お読みいただきたい・・・なぁ~(笑)。

ただし、どちらも、こうしたものの類では?「長文」と言われてしまうであろう程の文字数で記してあるので、お時間が比較的緩く許されるときにでも・・・是非。

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「結局は、『読めよ』ってことじゃん!?」

『そういうことでもないんだけれど・・・、ま、少しだけ期待しているカナ(汗・笑)』

『あの~、・・・で、君は・・・?』

「そんなことはいいから、先へと進めていただけないでしょうか!」

『えっ? はい・・・。では、本題へと・・』

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《1.日本の社会と教育の現状》

 

2020年2月中旬頃のことだ。

「あっ、ヤバイ!」

と思った。

「新型コロナウイルス」および「新型コロナウイルス感染症(COVID-19)」と称されるものによって起こる危機を自らが本当に自覚し始めたのはこの頃で・・・、日本も、また世界中も(特に、経済先進国として歩んできた国と地域、貧困層とされる人たちの割合が圧倒的に多い国と地域では)、このウイルスによる感染拡大を抑え込むことは難しいと想い、そして思った。

 

だから、自身が週の後半に開いているライヴについても、カフェや居酒屋さん等の店側と直ぐに相談し合って、直ちに一切のライヴ活動を休止することにした(2020年2月14日以降)。

 

何故そう想い、思ったのか、というと・・・

またこれを、敢えて唐突な言い方で申し述べさせていただくと・・・

 

「教育(公教育)」が遅れているからだ。

 

**【補足説明】**

*ここで言う「教育(公教育)」とは、国や地方自治体が公共の制度・政策として行う教育、並びに、これを実施する教育機関(幼稚園、小学校、中学校、高等学校、大学、専門学校等、公立も私立も含めて)の各教育現場で実践される教育の・・・目的(方向性)、内容、方法(手法)、環境、更にはここに関わる学校組織(教職員間の役割分担)、教職員の育成など、これら「学校教育におけるシステム(仕組み)全体」を指す。

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それは、現状の社会・世界にあって・・・

もう少し丁寧に申し上げるなら、

「急速な変化や予測不可能な要素を多分に含んだ出来事が増えつつある社会・世界にあって・・・」

ということになるのだけれど、

これに対して、

「子どもたちへの『教育(公教育)』が追いついていない、遅れたものになってしまっている」

ことを意味する。

・・

このことは、西暦1990年代後半あるいは遅くとも2000年頃には明らかであったはずで、またこの当時から経済先進国と呼ばれていた国々ではこれへの対応として何等か少しずつでも策を講じていれば、

「『教育(公教育)』をより適切なる方向へ発展・変容させていくこと」=「『いかなる社会の変化にも対応し得る人材の育成』を目指して発展・変容させていくこと」

も実現可能であったにもかかわらず、これらの国々のほとんどが、現在に至るまで、(何もとは言わないまでも)真にここと向き合った策を提示することも実施することもしないまま、これを放置してきた。

 

残念ながら、我が住家とする日本という国もだ。

「教育(公教育)」と真剣に向き合ってこなかった。

それは、

「いかなる社会の変化にも対応し得る人材の育成」

を怠ってきたということであって、

そのため、

「急速な変化・予測不可能な要素を伴う出来事、未知なる問題や未曽有の出来事にも対応し得る人材の育成」

「より良い(好い)社会へと提案・構築していくこと、または変容させていくことができる人材の育成」

これらを成し得ないまま今日に至っている。

・・

特にいま、新型コロナウイルスの感染とその対策について取り上げるに当っては、

「急速な変化・予測不可能な要素を伴う出来事、未知なる問題や未曽有の出来事にも対応し得る人材の育成」

という点に目を向けることになるだろう。

・・

ただ、「『教育(公教育)』と真剣に向き合ってこなかった」を、敢えてこれとは違う表現で、また更に念を押して申し上げるならば、

「各人が現在およびこれから先の社会・世界で『自立』して生きていくために必要となる能力を育み、これを保障する」

という、教育(公教育)の根源的な目的において、依然、これに欠いた教育(公教育)が続けられている、・・・このことをここでは強調させていただきたく思う。

 

**【補足説明】**

*日本の教育(公教育)現場では、これまでも常に(・・・それは、いつの時代も)、子どもたちの現在から未来を見据えた教育を目指して、工夫を試み、新たな手法に挑み、理論の探求と実践を重ねながら熱心に取り組む教師・教育関係者たちが居てこれを欠くことなく歩み続けてきた。そして現在もまたそう歩み続けているなかでは、こうした教師・教育関係者たちを支え応援する学校や地域もあって、そこでは様々な物事に興味や好奇心をもって取り組む子どもたちの活き活きとした姿も見ることができる。これらのことは、関連書籍や資料等からの情報だけでなく、筆者自身の教育現場での経験からも十分に承知している。/*が、こうした教師・学校・地域のもとで育った(育っている)子どもたちとその保護者の方々には、「それはラッキー(幸運)だったね~」と言う他なく、つまりは、「たまたま・・・だった」というのが現状であり実態であると言わざるを得ない。言い方を換えれば、本来の教育・・・子どもたちの現在から未来を見据えた教育(公教育)が日本国内に広く行き渡って実践されているとは言い難い状況にあることを意味する。/*これと同様に、いま、「教育の質と教育を提供・実践する能力(例えば、2020年度から小・中・高の学校で順次完全実施となるアクティブラーニング(主体的・対話的で深い学び)の導入を含めて)」の点で学校間および教師間の格差はますます拡がりつつあって、この問題は深刻化を増している。/*故に、本文中の「『教育(公教育)』と真剣に向き合ってこなかった」は教師や学校などの個々の成果や実情を対象としたものではない。先の【補足説明】と併せて、「日本の教育(公教育)におけるシステム(仕組み)全体」・・・これを指して述べている。

・・

*「自立」を筆者がどう定義しているかについては、同ホームページ「子どもたちを育む『自立と自律』」のページでその詳細を述べさせていただいている。尚、本文中ではこの定義にあまりこだわり過ぎることなく、このまま読み進めていただければと思う。

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*【Q&A物語】***

「いろいろと考えて工夫している先生がいて、子どもたちのために積極的に取り組んでいる学校や地域もあるけれど、そうではない先生や学校とか地域もあるってことだよね?・・・」

「そのぉ~、新しくやろうとしているアクティブ・・・なんちゃらも、どの先生も、どの学校でも、ちゃんとできるのか心配な状況なんだよね?・・・」

「それも、先生や学校によって、どんどん差がついてきているって・・・」

・・

『はい、いま現状は、残念ながらそういうことになります』

『それで、こうした問題を解決するためにも、教育(公教育)の「システム(仕組み)全体」を見直して少しずつ変えていく必要があると思っている・・・ってことなんだ、けれど・・・わかるかな?』

・・

「ぅん~・・・?」

「それじゃぁさぁ、もっと話を聞かせてよ!」

「あっ、いや、お話をお聞かせいただきたく・・・ん〜、よろしくお願いします」

・・

『はい、ありがとうございます』

『では、教育(公教育)と真剣に向き合ってこなかった日本の・・・その続きから・・・』

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ところで、また別の一方では、

「教育(公教育)をより適切なる方向へ発展・変容させていくこと」

を怠ったばかりでなく・・・、日本という国の特徴なのか、あるいは日本人と呼ばれる人々の独自性なのか、これには歴史的な波にも翻弄されて・・・ということもあるように思うのだけれど、日本という国・社会が、日本人と呼ばれる人々が・・・

「やらかしてしまったこと」

がある。

・・

********

「やらかしてしまったこと・・・って?」

『少し、ご説明しましょう』

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・・

「教育(公教育)」のそれが成されない中(・・・ん~、成されないどころか、この時代に既にこの事に気付いている人は極少数に限られていたと思う)、それでも1980年代前半頃まではホントギリギリかなぁ~、辛うじて社会の営みが比較的平穏に感じられていたのには、1960年代および1970年代の高度経済成長期の間もこれが過ぎた後の暫くの間も、その当時の社会が映し出していた外見に誤魔化され浮かれていたこともあるけれど、元々、日本人と呼ばれる人々が(日本語言語が形作られていった時代頃からなのだろうか?はっきりとは分からないまま「元々」と言ってしまうけれど・・・)・・・どういうわけか他国の人たちなどと比べても特殊と思われる経過を辿って培い備え持っていた「共感する力」を、それはこの時代(1960年頃~1980年代前半頃)では難しくもなりつつあったものの、これを引き継ぎ磨いていくことができていたからだ。

・・

ここで言う「共感する力」とは、他者の痛みを自分の痛みと感じること、どうしたら相手は喜ぶのだろう、どのようなことになると相手は辛いのだろう・・・といった「他者を自然と(見返りを期待する思惑などなく)思いやる心の感度」のことを言う。

・・

**【補足説明】**

*ここでの「共感する力」を別な言葉で置き換えるなら・・・、例えば、作家の故・司馬遼太郎さんが「二十一世紀の君たちへ(小学校6年生の国語の教科書に掲載)」の文中で「いたわり」と表現したこれは、ほぼ同じに解釈して良いかと思う。このことは(偶然にも)、磯田道史著「『司馬遼太郎』で学ぶ日本史」でも同様な解釈がされていて、磯田氏自身はこれを「共感性」と記している。/*また、日本人を対象にしたものではないけれど、これととても近い意味に受け取れるものとして、ジョージ・ソーンダーズ著(外山滋比古・佐藤由紀/訳)の「人生で大切なたったひとつのこと」に書かれている「やさしいひと」もそうであるように思う。/*尚、この「共感する力」および「共感」については、本文すべてに渡る内容を踏まえて、あらためて本文巻末の《参考》で更に補足させていただく。

・・

*「・・・『共感する力』を、・・・引き継ぎ磨いていくことができていたからだ」のその理由を、ここでは詳しく述べないけれど、例えば、子どもから大人までが参加するような伝統的行事(お祭りなど)が、この頃(1980年頃まで)はまだ広く各地域に点在するように残っていた、などが上げられる。他にも、子どもたちの遊びや遊ぶ環境など各地域または世代層ごとによっても様々異なる理由が考えられる。

********

 

これらの経過をもう少しだけ丁寧に辿っていくと・・・、

・・

1960年代から1970年代の高度経済成長のその勢いが増していく時代、欧米文化の・・・それも上辺だけが身近な生活に次々と入り込むようになると、ここから、「妙な具合の個人主義」と「真なる意味などない見せかけの成果主義」までが拡がりを見せる。こうした一連のことはその一部に過ぎず、高度経済成長期の日本の社会における大部分がこの間と、またこの高度経済成長期を過ぎた後もその影響を残しながら、それは結果的にということであるのだろうけれど、日本人と呼ばれる多くの人々がかつて優れ持っていた「共感する力」を養い磨いていくための環境を次々と奪い壊していく役割を担い続けた。そして、それまであった景色の多くを塗り替えていってしまった。

・・

が、先に述べた通り、1980年代前半頃までは塗り替えられてしまうことなく残された景色も、まだ、僅かながらそこにはあった。

ただ、この塗り替え作業は1990年頃まで続いた。

・・

(1960年頃~)1990年頃までに塗り替えられ映し出されていったその景色とは?

・・・工業化、大量生産、オートメーション化、画一化と自由、精密部品製造の向上、市民生活の経済的向上、生活スタイルの欧米化、スピード時代、通信網と交通網の発達、自家用自動車、土木・建設事業の拡大、高層ビル建設、エネルギー需要の高まり(火力発電、石油関連)、家電製品の開発と普及(テレビ、洗濯機、冷蔵庫)、東京オリンピックと大阪万博、都市集中と地方の過疎化、核家族化、家族の分断・家庭内暴力、夫婦共働き、団地住まい、マンション住まい、若年層自殺者の増加、終身雇用の見直し、成果主義と競争社会、日本語言語の変容と敬語への誤解、子どもが遊ぶ屋外環境の変化(広場、川、野原、校庭の利用方法)、受験戦争と偏差値教育、兼業農家と田畑の減少、自然環境破壊と生態系の異変、公害問題と公害訴訟、交通渋滞、通勤ラッシュ・・・など、「産業主義社会」と「高度経済成長期」がもたらした景色のこれらになるかと思う。

・・

これが1990年代以降になるとまた様子が違ってきた。

・・

これまでのものとはまた別の種がここに加わった・・・と言うよりも、その別の種が主役に躍り出る勢いを見せた。

その別の種とは、デジタル・テクノロジ―を中心とする社会が生み出していった(また今日も生み出している)数々のもの、そのうちの多く(決して全てではない)がこれに該当する。そしてこれらが今度は、以前に辛うじて塗り替えられてしまうことなく残されていた景色も含めてそこにあった景色のほぼすべてを、それまでとはまた別の手法で描き換え塗り替えていく役割を担っていった。その描き換えと塗り替えの作業は急加速的に進んで、それがいま現在、私たちが眺めている景色ということになる。

・・

いま現在のその景色とは?

・・・コンピュータ、インターネット、IT化、世界のグローバル化、スマートフォンとSNSの普及、デジタルコンテンツの充実(特に動画配信等)、超高速通信技術、遠隔操作技術、DPS機能、人工衛星と宇宙開発、ロボット技術開発、スマホ依存、ゲーム依存、国家間の協調と分断、各種セキュリティ対策問題、国家防衛システムの見直し、個人情報と監視システム、経済的格差と貧困、人件費・コスト削減、海外事業への展開、外国人労働者の雇用、労働者雇用の制度と派遣切り、経済的教育格差、学校間格差・教師間格差、人員不足・人材不足、少子高齢化社会の加速、待機児童問題、競争社会の激化、市場経済の不安定化、金融緩和と実体経済、気候変動と大規模自然災害、人工知能AIと人間の役割・・・など、「知識基礎社会」と呼ばれる社会がもたらしている景色だ。

・・

こうして、日本という国・社会は・・・、日本人と呼ばれる人々は・・・、次々と景色が描き換えられ塗り替えられていく様を無造作に許し、更には自らもこれをコントロールする術を失くしていった。当然、いまここで述べてきた経過を辿りながら、人々の「共感する力」はこれを養う環境と機会を少なくし、自然にと言うよりも急速に衰えていくことになった。

・・・「やらかしてしまった」のだ。

そして、いま現在は、これを失いつつもある。

・・

*【Q&A物語】***

「わぁ~、なんか色々なことあり過ぎ!」

「でも、いまの人たちって、そんなに『共感する力』・・・っていうものが衰えているのかなぁ~?」

「気付けていないだけ?・・・」

「まぁ、他人を『思いやること』よりも先に、自分が『この競争に勝たなくては・・・』って思ってしまう場面、確かにあるかも・・・それも割と多く・・・」

「『何故こんなことが急に起きちゃうの?』ってことも増えていて、それで『自分のことばかり優先しがち』になったりすることも、まぁ、あるかもねぇ~」

「そうそう、SNSとかでも『他人のことを思いやらずに』簡単に良くないことが書き込まれちゃうことって多いよね~、それがイジメの問題になることもあるし、学校の先生や大人たちには気付きにくかったり・・・」

・・

『そうだね、他人の痛みを感じることよりも優先してしまうこと、それは恐らく、そうなってしまい易い状況に知らぬ間に置かれていることもあるんだとは思うけれど、少しでも見つめ直すことができるとイイのかな・・・』

『自分自身のこと、周囲の人たちのこと、自分の身の周りで起きている出来事だけでも少し丁寧に見つめ直すと、何か忘れがちになっていること、見失いそうになっていること、こうした事にもっと色々と気付けるかも知れないね・・・』

『一方で、新しいテクノロジーが次々と開発されて世の中に広く普及していっている現状を否定してもいけないと思う。ただし、デジタルコンテンツの開発などは、いまはゲーム化されたもの(後で述べる「ゲーミフィケーション」化されたもの)が目立つけれど、そうではなくて、対話型・双方向型のコンテンツや目指すべきゴール(クリアすべき課題)などない自由で深い思考を可能にしてくれるコンテンツ、こんなのがもっと前面に出されていって充実していったらイイかと思う。これはデジタル教育教材なんかにも言えることなんだけれど・・・』

『では、話を進めますね』

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・・

こう自身で述べておきながら、それでも、日本人と呼ばれる人々、あるいは日本で生まれ育ってきた(育っている)人々の身深くには僅かであってもその力(=「共感する力」)が未だ息づいていると、個人的には期待し信じているのだけれど・・・、いやぁ~、これはやや根拠に欠ける感情面に偏った話かなぁ~(汗)。

この「期待し信じている」ことについては、この時点では取り敢えず脇に置いておくことにして、先へと進めさせていただく。

尚、「日本の社会・人々」、「教育(公教育)」、「共感する力」のこれら3要素が、互いにどのように影響し合って、それぞれがどう変化していったかを年代別に示すなど、そんな説明もしたいのだけれど・・・スミマセン~、これら詳細についてはここでは省かせていただくことにする。それよりも、いま現在に至っては、これら3要素がどんな状況を及ぼしているかだ・・・(続きをどうぞ)。

 

では、ここからは、「日本の社会・人々」、「教育(公教育)」、「共感する力」の3要素を基に現状を整理していくことにしよう。

 

ここまでに述べてきたことを総合すれば、西暦1990年代後半あるいは2000年以降の「日本の社会・人々」というのは、「教育(公教育)の未発展・無変容」と「共感する力の鈍化・失陥」の手痛いダブルパンチを喰らわされた状態にある、・・・もう少し正確に言わせていただくと、このダブルパンチをいま現在も喰らい続けている、ということになるだろうか。

が、事は更に難しい状況にあると認識すべきかも知れない。

それは、手当もせずに少しばかり長く放ったままにし過ぎたせいだろう・・・、この「教育(公教育)の未発展・無変容」と「共感する力の鈍化・失陥」のダブルパンチを喰らい続けている痛みを感じる感度までもが、いま現在では鈍く無自覚なものになってしまっていると、そんなふうに言えるかと思う(悲)。

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「うわっ、重症じゃん」

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西暦2000年には既に明らかであったはずの教育(公教育)の遅れは、これ以降もなお放置されたままになった。大雑把に捉えても、2000年~2010年頃にはまだ子どもだった人たちも現在では社会に出て「大人」として生活をしている。このうちの多くの大人たちも含めて、これよりもまた更に以前に生まれ育ってきたうちの多くの大人たちも、それは年齢や世代層ごとで違いはあるものの、この現状の社会・世界で起こる様々な物事を相手に、「急速な変化・予測不可能な要素を伴う出来事、未知なる問題や未曽有の出来事にも対応し得る能力(行動面も、心理面も)」を養う機会・・・これには、子どもの頃からこれまで恵まれたことはなく、または出会ったことすらないまま、そのまま成長して、いま、「大人」として生きている。

併せて、おおよそ西暦1960年以降その多くは、他者の痛みを感じる感度を少しずつ鈍くさせてしまう、あるいは徐々に失わせてしまうような環境に居ながら育ち、2000年以降に至ってはこの感度の鈍化・失陥が更に進む社会を目にしながら日々過ごして、いま、「大人」として生活を営んでいる。

・・・そういうことになる。もちろん、私もその一人だ。

・・

それ故、「教育(公教育)」について眺め視ては・・・

「だって、想像したこともない、次々と、色々と起こる、こんな状況に対応できる教育なんて受けてきていないも~ん」

といった、「旧型モデルおよび前型モデルの大人」ばかりが増加する国・社会となった・・・

・・

加えて、「共感する力」についても・・・

「共感?・・・分からなくもないけれど、そんな綺麗ごとばかりじゃ世の中通用しないんじゃないの?」

といった、「低共感度感覚」の方が先んじられるような国・社会となった・・・

 

・・・そんな「日本」と、「日本の社会・人々」の姿が見えてくる。

 

**【補足説明】**

*日本の国家としての「教育(公教育)」が形創られていったのは明治維新以降ということになる。そして各時代によって学ばせようとしていた知識や教育内容、制度等は様々に歴史的な流れからも変えてはきたけれど、根本的な教育手法は明治時代中期頃からそのまま現在に至っても変わっていない。・・・長きに渡って、「コンテンツ・ベースの教育」を土台とした教育が行われてきている。/*本文中の「旧型モデルおよび前型モデル・・・」とは、この「コンテンツ・ベースの教育」を主に受けてきた人々のことを表している。併せて、2000年以降また現在からこの先も暫く続くであろう「知識基礎社会」のここには「コンピテンシー・ベースの教育」を取り入れる必要がある、という筆者の意図も含めてこれを表している。

・・

*「コンテンツ・ベースの教育」と「コンピテンシー・ベースの教育」については、本文巻末の《参考》で簡単な解説を載せている。が、本文中ではこの専門用語にあまりこだわり過ぎることなく、このまま読み進めていただければと思う。

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・・

*【Q&A物語】***

「なんか、少し寂しくなってきたカモ・・・」

・・

『ぅん~、そうかぁ~、ごめん』

『君や皆さんたちのことを出来損ないみたいに、出来損ないの人たちが集まった国・社会であるかのように感じてしまったかも知れないね・・・』

『もしも、そう感じてしまったのならお詫びします、ごめんなさい』

『でも、そうした意味・意図で述べたのではない、ということだけは分かってもらえたらと思う』

『なので、もう少し、ご説明しましょう』

『この教育で大丈夫?・・・だなんて・・・、1990年頃までは、よほど専門的な研究などをしている一部の人以外は、ほとんどの人が気付けなかった。大雑把な言い方になるけれど、気付けた人も経済優先に酔う社会や人々の波に抗うことはできなかった』

『1990年頃からは、教育に関わっていた人たちをはじめ、教育以外の分野でも気付く人が少しずつ現れて、問題視する声も聞こえ始めるようになった』

『が、本気でマズイって感じる人がそれまでよりも増えてきて、教育の変容・変革を求める声が聞こえるようになったのは2000年を少し過ぎた頃になってからだと思う』

『ところがだよ、またしても、広く日本の多くの人々にまで、これと同様の危機感が拡がっていくことはなかった』

『ん~、難しいんだね~』

『でもね、これって、社会の変化をどう捉えればいいのか、これに対応するにはどうしたらいいのか・・・などということに気付きにくい『教育(公教育)』をそもそも皆が受けていたからなんだよね』

『だから、誰も気付けなかったし、気付いてからもどうして良いのか直ぐに「考え」て「行動」に移すことができなかったんだ』

『それは、「共感する力」に必要な環境が次々と奪い取られていることにも気付けない、そんな状況も作ってしまっていた』

『あっ、これらのことは、いわゆる一般の人々に照らした話だよ』

『これとは別に、国家とかのレベルで言うのなら、この頃(1990年~2000年)には専門家をはじめ警鐘を鳴らす人たちはいたわけだから、それは本気で取り組んでいれば何らかの策も打てたはずなんだ』

『ただ残念なことに、その当時、文部科学省の人たちも、教育委員会の人たちも、そして教育現場にいる教師たちも、皆が皆、本気でここと向き合うことにはならなかった。だから、いまも時折話題にされる「ゆとり教育」も、元々の本来の目的から大きく逸れた形で実施がされてしまったんだ』

『今年度から小・中・高の学校で順次完全実施となる「アクティブラーニング(主体的・対話的で深い学び)」も本来の目的の通りに正しい認識のもと運用されるのであれば、それは日本の教育(公教育)にとって、大きな前進の一歩となるのだけれど・・・、さっきも言った通り(先の【補足説明】でも述べた通り)現在の様子からはとても心配な状況にある・・・』

『「教育(公教育)」って、だから恐いし、スッゴイ大切なんだ』

『まずは、この現状を冷静に受け入れてもらえたら・・・と思う』

『そうでないと、今いる子どもたちにも、これからの子どもたちにも、また同じことをしてしまう』

『もう、ちゃんと向き合って、「教育(公教育)」を変えていかないと・・・』

『もしも、いま直ぐに、子どもたちへの「教育(公教育)」を大きく変えることができたとしても(実際には急激な変化は好ましくないと考えているけれど・・・)、その子どもたちが大人になった未来・・・、その人たちが子育てをするなど次世代へと引き渡していく立場になる20年後か30年後かの未来にならないと、真の意味でのその教育の成果は現れてこない』

『だから、時間が掛かるんだ・・・教育を変えていくって・・・』

*********

 

こうした現状にあって、子どもたちの多くもまた、「急速な変化・予測不可能な要素を伴う出来事、未知なる問題や未曽有の出来事に対応し得る能力(行動面も、心理面も)」を養う機会には「教育(公教育)」の場を含めて依然としてこれに出会い恵まれることは少ない、また「共感する力」を備えるにも難しい環境にますます置かれつつある、・・・そんな「日本の社会・人々」の中に居ながら育っている。

そのため、「非常時」や「緊急時」、「未曽有の出来事」などを目の前にしたとき、これに対応・対処し切れない「大人」に混ざって、子どもたちは更に対応に戸惑う環境および状況下に置かれる。

このような事態が度々起こるいま、これらは子どもたちに大きなストレスとなって圧し掛かってもくる。そしてその様子は、かつての子どもたちよりも忍耐力に欠けているように見えるかも知れないが、それは違う。そもそも、ストレスの掛かり方が10年前、20年前、あるいはそれより以前の子どもたちとはまったく異なる種のストレスを異なる環境に居て抱えるのだから、「以前の子どもと比べて」などと比較することは・・・、普段からもそうだけれど、いま当に、新型コロナウイルスの感染対策として日本全国に緊急事態宣言が出されているこのようなときに・・・してはならない。

・・

そして、それは大人たちの間でもだ。ほぼ世代層ごとに似たようなことが言える。

・・

*【Q&A物語】***

「子どもから大人まで、みんなが、いま、たいへんってこと?」

・・

『そうだと思う』

『子どもたちにとっては本来備えるべき力を養うその環境と機会が乏しく十分ではないし・・・、大人に至ってはその多くが、いまの社会で起こり得る様々な物事に対応するため本来なら備えているはずのその力を、十分に備え持たないままで、それでも生活をしているわけで・・・』

『それは年齢や世代層ごとで物事への感じ方も違って、対応できることと対応できないことが少しずつ違ってはいるんだけれど・・・、みんながそれぞれに、それぞれの十分ではない力をどうにかして補おうとしながら生きている、その点では皆が同じと言える』

『でも、それは、とても、たいへん』

『個人一人ひとりの能力の差や個性の違いとかのレベルで言っている話ではないからね』

『それは、もっと、各人が社会で『自立』して生きていくために必要なはずの能力の話で・・・』

『ん~・・・分かりやすく言うのなら・・・、そう、もっと、「誰もが生きるために土台となるはずの力」の話をしているわけで、これが十分でないのだから、たいへんなんだ』

『それでも、それぞれに頑張っていて、この時代のこの社会で起こる色んなことも乗り越えようとしているんだよ』

・・

「なるほどね~」

「『生きるために土台となる力』のことかぁ~」

「さっきから何の力が十分じゃないって言っているのかイマイチ理解ができていなかったんだけどぉ~・・・」

「あぁ~、少し分かってきた気がする」

「それじゃぁ、続きをお願いします!」

********

 

ちなみに、ここで述べている「多くの大人(または大人)」に含まれない「少数の大人」(=「共感する力」と後で述べる「自律の力」の両方を共にある程度備え持った人たち)というのは、例えば、・・・日本国内だけでなく日本国外にも拠点を置くなどして(あるいは海外渡航を繰り返しながら)、何かしらのプロジェクトに自ら積極的に参加しては他の国・地域の人たちや自身が受け持つ分野とは別の異分野の人たちなどともコミュニケーションを図りながら問題・課題の解決に取り組んできた(取り組んでいる)人、もしくは、・・・日本の伝統文化・伝統技術と現代社会との間を、ここに加えて他国の異文化社会などとの間を、これら相互・双方を往き来きしては幾つか複数の文化・習慣を身深くまで感じ取りながら生活してきた(生活している)人、・・・こういった人たちになるかと思う。これが全てではないにしても・・・。

・・

**【補足説明】**

*いま述べた「少数の大人」と同じ意味において他にも比較的これに近い大人がいると考える。/*それは例えば、一つには、先の【補足説明】で述べた「それはラッキー(幸運)だったね~」、「たまたま・・・だった」を経験した人たちだ。・・・つまり、子どもたちの現在から未来を見据えた本来あるべき教育に挑み続ける教師と出会うことができて、これを支え応援する学校や地域とともに育ってきた人たちだ。/*もう一つは、日本の教育(公教育)を実施する学校には通わずに、「モンテッソーリ教育」、「ダルトン教育」、「イエナプラン教育」といった教育を私塾的学校に通い受けてきた人たちもここに該当するように思う。/*またこうした教育環境等とは別に、家族構成や生活形成上特殊稀な環境に育ってきた人たち・・・例えば、3世代以上が同居していて兄弟姉妹も3人以上いるような大家族のなかで育ってきた人たち、あるいは、自給自足率が特別に高い生活や地域に置かれて育ってきた人たちなどもそうである可能性が考えられる。/*これらの人たちは、ここで述べている「多くの大人(または「大人」)」たちよりも、「共感する力」とこの後で述べる「自律の力」の両方を共に養い備え持つための環境と機会を得るという点に限って着目するならば、多少なりともこれに恵まれて育ってきた人たちであると言えるかと思う。

*********

 

《2.感染拡大、医療崩壊、長期化》

 

前章で述べさせていただいた通り、

「急速な変化・予測不可能な要素を伴う出来事、未知なる問題や未曽有の出来事にも対応し得る人材」

「共感する力を養い磨き上げてきた人」

が、あまりに少ない社会・・・これが日本という国の現状だ。

 

だから起こる・・・

「医療現場の崩壊」

「オーバーシュート(爆発的感染拡大)」

・・

たとえ希望的観測(予測)の上、こうした事態を招く可能性は高くないとしても、

「感染収束経過期間の長期化(感染拡大が収まり始めてから終息に至るまでの間が長くなること)」

などといった、真綿で首を絞められるような状況になってしまうことは大いに考えられる。

・・

少なくとも、日本国内では、東京都とその周辺においては・・・。

だから、そう想い、そう思った。

 

ところで、国が行う新型コロナウイルス対策の一環として1ヵ月半ほど前(2020年2月末頃)からになるだろうか・・・、厚生労働省下には対策チーム(「クラスター対策班(国内の感染症の専門家によって構成)」)が設置されているけれど、その対策チームのメンバーというのは、日本国内に限らず世界レベルで言ってもここに関連する分野においてはかなり優秀な人たちのようだ。メンバーの中には国内外に渡って様々な国・地域の人たちとも研究またはチームを組み実践経験を重ねてきた人もいて、

「急速な変化・予測不可能な要素を伴う出来事、未知なる問題や未曽有の出来事にも対応し得る人材」

これに相当する人たちのように思う。

・・

が、いま、国の中枢に居る人も、各省庁にいる官僚や役人たちも、政府および政治家も、各地方自治を中心的に担う人も、そして日本国内に住む人々も、このうちの多くが、残念なことに、この対策チームが意図している考えや思いを真に理解することができないでいる。ある程度は理解しても、これを自ら自分の身に置き換えて考え行動するというところへ繋げていくことがなかなかできないのだ。なぜなら、そのための「思考力」も、「行動力」も、そして「自己の能力(心理面も含めて)を総合的にコントロールする能力」も十分に備え持たないままでいるからで、それは各人がこれまでの間に、これらの能力(=「自律」または「自律の力」)を養うための環境と機会もまた十分に得られずにいたためだ。・・・つまり、この章(この項目)の冒頭で述べたことを「能力」の面から捉えて言えばこうした現状にある、ということだ。

・・

**【補足説明】**

*ここでの「思考力」、「行動力」、「自己の能力(心理面も含めて)を総合的にコントロールする能力」のこれらをまとめて、「自律」または「自律の力」として筆者は提示している。/*この筆者が提示する「自律」または「自律の力」については、2018年12月5日より公開・配布している資料「子どもたちの自立力育成を探求して(第1編・詳細版)」の中で詳しく述べさせていただいている。また、同ホームページ「子どもたちを育む『自立と自律』」のページでもこの資料の一部と重点を載せて公開しているので、本文を読み終えた後にでもご確認いただけたらと思う。

********

********

「『自律の力』っていうものも『自立』に必要な『生きるために土台となる力』の一つというわけなんだね!」

********

・・

それにしても、こうした現状を見るにつけ、ここであらためて、「教育(公教育)が遅れているからだ」との認識をもたざるを得ない。

前述した「この対策チームが意図している考えや思いを真に理解すること・・・」も、本来であるなら誰もが育成され備え持っていて当然で、それは併せて述べた「自律または自律の力」もそうであるけれど、「他から得た情報や知識を自分の身に置き換えて考える」ということをしてはじめてそれが「教養」となっていくわけなのだから、それこそ、「教育(公教育)」が果たすべき根幹はここにあることになる。故に、「この対策チームが意図している・・・を真に理解すること」は、多くの人々が極自然に実行できるようなことであるはずなのだけれど、現状は、これに追いついていない、まさに、「教育(公教育)が遅れているからだ」を証明しているかのような状況と言える。

重ねて申し述べるならば、・・・日本の「教育(公教育)」は情報や知識を得るという点で優れているかも知れないけれど、「教養」あるいは「自律の力(自律)」を身に付けていくとなるとここにはなかなか繋がっていかない・・・というこの課題を、現在に至るまで長きに渡って放置してきた結果とも言える。

繰り返すけれど、日本に住む人々のうちの多くが、

「だって、想像したこともない、次々と、色々と起こる、こんな状況に対応できる教育なんて受けてきていないも~ん」

という状態で居る、この国で暮らしているのだ。

・・

**【補足説明】**

*「自律の力(自律)」と「教養」の関係性において、先ずは、「自律の力」を備え持つ過程で「教養」は決して欠かせない要素の一つと言える。/*一方、「教養」とは、本文中でも述べた通り、他者からの働き掛けのみで身に付けていくものではない。自ら「教養」を身に付けていこうとする姿勢、自ら「教養」を実際の生活や仕事で活かしていこうとする意識、これらも備えつつ自らがこれを実行したときにこそ本来の意味をもつ。それはまた「教養」の必要性を自らが実感できる機会にもなる。が、「教養」とともにいま述べた姿勢と意識を育て高めていくためには、「自律の力」もまた併せて養い向上させていくことが求められる。/*「自律の力」と「教養」の相互にはそれぞれを高め合う重要な関係性がある、というのが筆者の考え。

********

 

このことを、より具体的な状況に触れながら、もう少し述べていくことにしよう。

・・

さて、そんな私も不十分ながら、一応、統計学と数理モデルによる解析を中心に大学で学び得てきた者の一人であるのだけれど(汗)、ここでまた・・・少し学んでみた。いやいや・・・「学んで」とは大げさだな、端っこをかじった程度だ。

「何だそれ?」

ということになるけれど・・・、新型コロナウイルスの感染防止に向けた、その対策チームが練り上げた数理モデル解析について(その概略だけではあるけれど)少しだけ丁寧に調べてみた。

それで、これを理解するに、

「他人との接触を8割減らす」=「8割減」

は必須だと私は解釈した。

対策チームの中でこの数理モデル解析を中心的に担っている通称「8割おじさん」も、実際に、ご自身ではそう説明している。

・・

ところが、どこかの国の誰かさんは、

「7割から8割、極力8割に近づくように・・・」

と国内・国民に向けて発信した。

えっ? 待てよ・・・これでは、「短期間のうちに感染者を減少」させて、「医療現場の崩壊を回避」することなんてできないんじゃないの?・・・ってことだ。

ん~、正確に受け止めることができていない、追いついていない。・・・でも、致し方ないのだよ~。

「だって、想像したこともない、次々と、色々と起こる、こんな状況に対応できる教育なんて受けてきていないも~ん」

・・

そして、日本国内世間様全体の側は、公から発信されたこのやや緩い方の目標数値のその意味もまた正確に受け止めることができずに、それは誰もが悪気あってそうしているわけではないのだけれど、平常時の考えや行動を自ら大きく変えるまでの理解には至っておらず、結果、現時点ではその緩い方の目標数値にも届かない、といった状況が続いている。・・・でも、致し方ないのだよ~。

「だって、想像したこともない、次々と、色々と起こる、こんな状況に対応できる教育なんて受けてきていないも~ん」

・・

何とかしようとする思いさえないヒトも居るものね~。・・・でも、致し方ないだよ~。

「共感?・・・分からなくもないけれど、そんな綺麗ごとばかりじゃ世の中通用しないんじゃないの?」

・・

・・・といった状況なのだ。

こうした思考と行動の至らなさも、周囲や他者を慮る感度の鈍さも、その個人ばかりが悪いとは言い切れないのではないだろうか。

・・

*【Q&A物語】***

「なんだか馬鹿にされている感じで嫌な気分になっているんです、け・れ・ど!」

・・

『嫌な気分にさせて、ごめんなさい』

『きっと、皆さんに向かって、とても失礼な言い方をして申し上げているのだと、そう思います』

『が、皆さん一人ひとりを責めるつもりはないし、誰とかが悪い、などということは思っていません』

・・

「ぅん、まぁ~ね」

「そりゃぁ~、『生きるために土台となる力』の話だってことはアタマでは分かっているつもりなんだケド・・・」

・・

『ここで言っておきたいのは、個人のせい・・・こればかりではないってこと』

『さっきも(前述までの【Q&A物語】の中でも)説明させてもらった通り、子どもも大人もその多くは、いまの社会に対応し得るだけの力(=「生きるために土台となる力」)を十分に備え持てていないその不十分さを抱えながらも、これを何とか補おうとしながら、それはたいへんな思いもしながら、困難なことがあっても乗り越えようと、今を生きているわけで・・・』

『ただ、これまでの間にずっと長く続いてきた「教育(公教育)」のせいで・・・、そう、「教育(公教育)」のせいで・・・、各時代の大人たちが「社会と教育のズレ」になかなか気付くことができなかったこと、「教育(公教育)」や「子育ての環境」に目を向けて取り組むべきことを、その仕組みを少しずつでも改善していくべきところを、それも長い間、どうにかしたくてもできなかったこと、できることも見て見ぬ振りをしてきてしまったこと、などなど・・・積み残してきた沢山の荷物を、いま、子どもから大人までみんなが背負わされている、・・・そんな状況なんだと思う』

『それも、気付かないうちに・・・』

『「教育(公教育)」の責任の重さ、それと恐さを感じる』

『とても、悔しいし、寂しいし、残念なんだけれど・・・』

********

・・

・・・ってなことで、

現時点(2020年4月15日現在)の状況このままでは、「新型コロナウイルス感染拡大を早期・短期のうちに抑え込む」=「医療現場の崩壊を回避する」ことは難しいと思われる。

そこで、些か乱暴な展開ではあるけれど・・・、

またその表現も乱暴な言いようで、ある意味、ここでもまた恐らく多くの皆様に向けて大変失礼な言い方をして申し上げることになるかと思うけれど・・・、

敢えてここでは(この章・項目の中では)、「感染拡大防止」と「医療現場の崩壊を回避する」・・・この立場の方を優先して言わせていただくと、

「生活が・・・」

「補償が・・・」

と言っているより先に、感染拡大で、あちらこちらで人が死んでいくよ。

この「死」は、新型コロナウイルス感染者だけでなく、他の病気を抱えもった人、突然に大怪我を負った人や病気になった人など救急の患者にまで、さらには医療従事者にまで、こうした人たちにも及ぶことになる。

・・

・・・「医療現場の崩壊」、先ずはこれから始まる。

・・

その恐さは、医療現場を壊滅的な状況に追い込んでしまうことであるのだけれど、これだけに留まらず、医療現場の外側へも伝播して、様々な多くの事で人々(人類)が太刀打ちできないようなことを次々と引き起こすところにある。・・・それは、それこそいまこの時点では辛うじて機能している経済活動や生活の営みこれらさえも停めてしまうだろうし、そうなれば、これによって更に「人の命が奪われる」とも限らない。

・・

このような経済的危機および社会的危機は、嫌な予測データだけれど、現時点の状況このままでは・・・ほぼ避けられないであろう「感染収束経過期間の長期化」となった場合でも同じだ。

・・

けれど、これをいま、本当にリアルさをもって(=「共感する力」を伴って)「想像」できている人がどれほど居てくれるだろうか・・・。

 

「このウイルスの『致死率』は低い」

なんて言っていた専門家やら、これを伝えていたジャーナリスト、マスコミ関係者たち、そうじゃないのだよ!

 

人、ひとり唯一の「命」を、軽くみていませんか!?

 

だから、繰り返すけれど、

「他人との接触は『8割減』が必須で、何としてでも達成すべき、これは最低限の目標数値」

だ。

・・

*【Q&A物語】***

「なにか怒ってる?」

「恐いよ・・・?」

「厳しいこと言い過ぎじゃないの?」

・・

『そっかぁ~・・・』

『いや、でも、「8割減」は最低限なんだよ~』

『これを、日本中のみんなで守ることができなかった場合は、「医療現場の崩壊」とともに、危機的な状況があちらこちらで起るその様を皆が目にしなければならない、・・・そんなことになってしまうかも知れないんだ』

『もう一つ、もしも、現在の状況そのまま「6割減~7割減」で推移した場合には、たとえこれを楽観視した見方で解釈したとして、感染者数が減少に転じることはあっても、「感染収束経過期間の長期化」は避けられない。・・・これは「対策チーム」の解析からも明らかだ』

『そして、この「長期化」というものに対して、私たちは余程の危機感をもって臨む必要があるかと思う』

『なぜなら、感染者数が減っていくのを見て多くの人たちが少し安心をする、また段階的に経済活動も再開されていくとは思うけれど・・・、ところが、いつまで経ってもこれまであった本来あるべき日常の生活には戻っていかない、少しずつ良くなっていると思っていたのに、気付くと、依然として厳しい生活を強いられたままの状態が続いている・・・これが「6割減~7割減」が起こし得る「長期化」だからだ(先述した「真綿で首を絞められるような状況」とは、このような状況のことを指している。)』

『それは、一時的には経済活動が再開されて回復していくように見えるけれど、実際には、国などからの生活の補償や経済対策は徐々に及ばなくなっていって、結果、生活難で苦しむ人が増え続けてしまう。それで人が死ぬなんてことにもなり兼ねない・・・そうした状況になるということなんだ』

『いま現時点での様子からすると、こうしたことも考えられるのだけれど・・・』

『どうぉ?・・・「想像」できているかな?』

・・

「正直、あんまり想像できていないかも・・・」

「でも、『8割減』が、とても重要な数字だということは分かったよ」

「『医療現場を崩壊させない』、感染拡大やこれを終わらせるまでを『長期化させない』、人を『死なせない』、『重要な数字』なんだよね」

********

 

《3.資本主義経済とゲーミフィケーション》

 

さてと、日本に住む多くの人たち(いや全ての人たちかも)を敵に回したようにも思うのだけれど(汗)、次は、また別の角度から・・・

 

ここ最近、

「『自粛』と『現金給付』」

あるいは、

「『感染拡大防止』と『経済対策』」

といったワードが、いま、こうしてセットにされることが多いように思う。

それは、政治、マスコミをはじめ、広く世間でも度々これが強調される場面や様子を目にしてということなのだけれど・・・、ああ~、そう言えば、どこかの県知事さんもこの事をとても強く主張されていたなぁ~。

 

でも・・・

このセットって・・・?

ん~、これってどうなのかなって思う。

とても難しいことだと、危ういことだと、個人的には感じている。

・・

わかる!

分かっている!

生活のためのお金だ、無視できない!

「自粛要請するなら金をくれ!」

「営業自粛するから金をくれ!」

御尤もな主張であり、叫びだ!

・・・

生活が回っていかなくなるから、その分だけのお金の補償は「即」欲しい、まずは「必要」だ。

そう、「即」、「必要」!

・・

が、難しい・・・。

単純じゃない・・・。

いやぁ~、厄介な状況だぁ~・・・。

 

・・・などといった事柄について、ここから暫らく述べさせていただく。

 

更に敵をつくってしまいそうだけれど・・・(汗)。

********

「心配ないよ、もう既に敵だらけだよ(笑)」

********

 

では先ずは、これを「経済学的」な視点で眺めてみよう。

・・

もしも、現金給付等を含む補償および経済対策の・・・これら一つひとつのタイミングと規模を間違えると、どうなる?

そして、そんな適切さを欠いた補償や対策も途中から改善策などこれを補う措置が取られるならともかく、間違った策のまま、ウイルスの感染だけが終息(収束)し始めて、経済活動が再起動し始めたらどうなる?

特に、直接的に現金と絡めた補償(給付、貸付等)やここに関連させて行う対策(金融緩和策、財政出動、財源確保等)は難しい。・・・これもまた悪い言い方をすると、もともと世の中に出回るはずではなかったお金がこうした策を講ずる各国で撒かれるのだ。そしていずれは世界中へと流れ出ていくのだから、何の副作用もないなどということの方が考え難い。

・・

いま新型コロナウイルスはそれこそ世界中へと拡がっているわけで、中でも経済先進国とされている国・地域ではその補償の金額に国家間でバラつきはあるものの、各国ともに、ある程度のお金を現金給付等の補償に当てる。・・・それは国民生活や国内経済を支える目的で、どこの国々も、また日本はこれら他国に比べて著しく財政難にあるのだけれど、国の財政や財源確保が厳しくなることも承知の上でそうするのだ。

するとだ・・・、

新型コロナウイルスの終息に目途が立って経済活動が徐々に再開されていくと、世の中に出るはずではなかったこのお金たちは、どんな役目を果たすことになるだろうか?・・・これについては当然、補償どころではない経済的貧困にあえぐ国々も多くあることを忘れてはならない。

・・

こうした近未来的な社会状況等の予測については、現在、世界中から注目を集めている経済学者、歴史学者、哲学者、政治学者たちも、それぞれの分野の立場から言っているようだけれど(学者および専門家たちの意見は様々に分かれている。が、これらを踏まえて現時点での私個人の考えを述べるならば、日本を含む各国が対応を間違った場合に引き起こされる経済状況として最も可能性が高いのは、以下に示すように・・・)・・・

恐らく、待っているのは・・・

「インフレ」

だ。

「物価上昇」

だ。・・・この場合には直ぐにではなく、デフレもしくは緩やかなインフレ状態が暫く続いた後にくると思っている。

・・

「だって、資本主義経済の仕組みに多くの国々と人々が組み入れられてしまっているのだもの」

その影響は大だよね。

そして、世の中に出た予定外のこのお金たちも、結局はどこへ行くの?・・・って話だ。

お分かりかと思うけれど・・・、

最終的にはいずれ、いま既に経済的に優位な立場にいる・・・それはその自らが世界の動向を見極める能力と資金等をコントロールする能力を合わせ持っているという意味で言っているのだけれど・・・これまでの幸運と才とともに財・資本を富に蓄え持った人たちや組織へと流れていくことになる。

繰り返すけれど、

「だって、資本主義経済の仕組みに多くの国々と人々が組み入れられてしまっているのだもの」

・・・ねぇ。

・・

(「インフレ」を引き起こす要因となり得る、各国の為替の動向、各国の財政・財源状況、主な各種原材料となる品目の需要と供給、政治における各国間の協調と分断の具合など、またこれらとこれらに関連した幾つかが様々に絡むことでの影響等詳細については、ここでは取り敢えず述べずにおくけれど・・・)

・・

つまり、現金給付等を含む補償および経済対策のそのタイミングと規模を間違えると、ウイルスの感染拡がりに替わって起こるのは経済的格差の更なる拡がりだ。そしてこれによって、いま現在よりも厳しい環境・状況へと最初に追い込まれていくのは経済的弱者であり、貧困層とされる人々である・・・ということ。次いで、現在のところ中間層(経済的な意味で)とされる人々もその多くが困窮した生活をも覚悟せざるを得ない厳しい状況へと強いられることになるだろう。

このようにあまり想像したくないシナリオだけれど、新型コロナウイルスの感染拡大が終息した後は、「インフレ」と(もしかしたら別の経済状況になったとしても)「経済的格差を更に激化させる社会・世界」が待ち受けている、その可能性は決して低くないと見ている。・・・もちろん、こうならないための対策が成されることの方が重要であることは言うまでもない。

・・

だからホントはね・・・

それは平常時から、「貧困問題」、「経済的格差」、「社会的差別」、それと、このどれにも関わる「教育格差」については、世界や社会全体がこれらの問題に対してもっともっと深刻に受け止めて解決へと目を向けていなければならないのだけれど・・・、これも言ってしまえば、そもそも「教育(中でも『インクルーシブ教育』)」から始めていく必要があると感じる。

 

**【補足説明】**

*これら差別や格差の問題に関連して、筆者は、日本の教育(公教育)において、また世界の多くにおいても、「インクルーシブ教育」が進んでいない現状からこうしたことへの感度が鈍いがために繰り返されてしまい、また改善が進んでいかないのだと考えている。加えて、日本では、「ファイナンス(お金・金融システム)教育」や「キャリア(職・仕事)教育」の内容の不十分さ、これら教育のバランスの悪さもあると考えている。

・・

*「インクルーシブ教育」については、本文巻末の《参考》で簡単な解説を載せている。が、ここも、本文中ではこの専門用語にあまりこだわり過ぎることなく、このまま読み進めていただければと思う。

********

 

ここまでのことから、「経済学的」な視点で・・・、「自粛と現金給付」あるいは「感染拡大防止と経済対策」などこれらのセットを眺め視ていくと・・・、

例えば、一つには、生活の補償や経済対策を練る立場の側が、ウイルスの感染防止とそれによる感染状況を必要以上に見過ぎて、もしも生活の補償や経済対策を練る上でも感染対策等を前提とした考えで進めていくことを常としてしまった場合、その補償や対策は打ち出すタイミングも策としての中身も後手を踏んだものばかりになってしまうだろう。それは、タイミングも規模も実態に合致しない策ばかりになってしまうことを意味する。こうしたことが最終的に何を招くかは先に述べた通りだ。

感染が拡大しはじめてからこれによって起こるであろう「生活上困難になり得る事柄」、「事業の経営・運営上難しくなる事柄」などは、関係の省庁・管轄部署等で大体のことは予測できる(予測できた)はずで、むしろ、これら人々の生活や経済の面で予測し得るここに直視して、生活の補償や経済対策を打ち出していくことの方が届くべきところへ効果的に届くタイムリーなものになるかと思う。

もう一つ、例えば、生活の補償や経済対策を待ち望む側が、これとの引き換えでなければ生活や事業の自粛等には応じないといった考え(気持ちとしてはやむを得ないことだと思うけれど・・・)になった場合、この場合には、その自身が感染予防や感染防止のガードを甘くしてしまう役割を担うことになるだろう。これでは感染を拡大または長期化させる原因に自らがなって、自身の生活や事業においても困難な状況を反って長引かせてしまう。自分で自分のクビを絞めることにもなり兼ねない、経済的に厳しい状況へと強いられることになる。

・・

要するに、ここで述べている「経済学的」な視点からは・・・、「自粛と現金給付」あるいは「感染防止と経済対策」などこれらのセットはここに囚われ過ぎた場合、結局は、「資本主義経済の仕組みの罠」にハマっていく危険性を高めてしまう恐れがある、という結論になる。

 

*【Q&A物語】***

「難しくてよく理解できないけれど・・・」

「2つを比べながらバランスだけを整えるようなことになると良くないってことでしょ?」

「こっちはコッチ、あっちはアッチ・・・と、分けて考えた方がイイ2つだってことだよね?」

・・

『取り敢えず、そう思っていて欲しい』

『世の中には常に2つを見比べなから進めるべき事柄、あるいは、ある限られたタイミングで見比べながら対応した方が良い物事もあるけれど、ここ最近よく見かける2つのワードのセットは違うのではないのかな・・・と。少なくとも今は、そのタイミングではないと思う』

『これは憶測に過ぎないけれど、これまでの様子からは、どうも変なところで、あるいは必要以上に、「感染拡大防止」と「生活の補償・経済対策」とが睨めっこをしてしまっているように感じてならない』

『それでどちらかと言うと、「生活の補償・経済対策」側の方が後手に回ってしまっていて・・・、その対策が実施されるタイミングも遅く、内容や手続き方法にしても「えっ?」っていうものになってしまっているように思う』

『「感染拡大防止」は感染拡大の状況として起こり得るここに直視して、「生活の補償・経済対策」は人々の生活や経済活動等で起こり得るここに直視して、それぞれがそれぞれに直視した実態把握、データ分析、予測などに基づいて対応策を練っていくこと(・・・「課題の分離と解決」という捉え方)の方が、想定時期や想定規模に応じた幾段階にも備えた策も前もって準備することができて、タイミングも対策の中身としても適した策が次々と打ち出していけるかと思うんだけれど・・・』

『そうすれば、国民や対策を待ち望む多くの人々も、2つのワードをセットとしたこれらに囚われ過ぎることなく、もう少し落ち着いた気持ちで過ごせるんじゃないのかな』

********

 

次に「心理学的」な視点で眺めてみよう。

・・

ここでは、特に、現代社会の広くあらゆるところに仕組まれている「ゲーミフィケーション」について取り上げる。

それは現代社会のある側面ではたいへん都合の良いものではあるのだけれど、教育の場、非常時や緊急時では、むしろ注意が必要で厄介な仕組みであるかも知れないからだ。

・・

そして人々の心理面においては、先に述べた「共感する力」と相反する働きをする。例えば、「共感する力」は「他者への貢献感」といった能動的な(前向きな)心理的状態へと誘う働きも備えもっているのだけれど、「共感する力」からこの「他者への貢献感」を実感するような行動(体感・体験)を経験し始めると、人々は、持続的な活動および持続的な挑戦をも可能にする「持続的なモチベーション」を得ることができる。

一方、「ゲーミフィケーション」とは、「報酬と引き換えに物事に取り組ませる仕組み・手段」の一つで、報酬によって一時的に高められたモチベーション(=「短期的なモチベーション」)のその効果が働いている間に行動を取らせて成果を得ようとするものだ。

具体的にいま、新型コロナウイルスの感染が拡大している状況下で何を意味するかはお分かりかと思うので、ここは省くけれど・・・、

「ゲーミフィケーション」要素を含む手法はすべて、その目的とこの手法がもつ性格からして、長期に渡って持続的に取り組む物事には効果が無い。また依存度が高い仕組みのため、行動そのものから得る充実感などよりも報酬を求めることを優先するようになる。よって、こうしたことを何度も繰り返していると、報酬への依存度が徐々にエスカレートしていく依存症的な心理状態(ゲーム依存症、ネット依存症、ギャンブル依存症などと同様な状態)を招く恐れがある。

 

**【補足説明】**

*「ゲーミフィケーション」に当たる普段からありがちで、しかし、家庭での教育や学校教育などでは最も慎まなくてはならない例を上げると、・・・「こんどのテストで80点以上取ったら、○○するのを認めるよ(○○してあげるよ)。」・・・などだ。これは、子どもたちが本来もっている「学び続けようとする力」を削ぎ落していく手段でしかない。

********

 

ここまでのことも踏まえつつ、「心理学的」な視点で・・・、「自粛と現金給付」あるいは「感染拡大防止と経済対策」などこれらのセットを眺め視ていくと・・・、

そこには、「報酬」と「取り組み」の関係が潜在的に働く可能性がある。そのため、感染終息(収束)までの期間や生活面での自粛、経済の低迷が長期化しそうになってきたとき、ここに関わる様々な物事に対処するモチベーションを維持すること、精神的な安定を持続すること・・・これらが難しくなってくる。併せて、自らの知恵や工夫によって現状を乗り越えようとする心理状態よりも、国・地方自治体による対策や管理を強く望むような方向へとエスカレートしていく心理状態の方が上回ることが想定される。・・・この事が社会全体にまで及ぶ場合は、国民など人々一人ひとりの思考が低下して権力への依頼心の方が上回ってくる状況になるため、こんな時(ヘタをすると?)、政治においては独裁的な政治が展開され易くなる。こうしたこれら全てに渡って心理的な面で自己コントロールすることが困難になってくることを、私たちは十分に考慮しておかなければならない。

・・

つまり、ここで述べている「心理学的」な視点からもまた・・・、「自粛と現金給付」あるいは「感染拡大防止と経済対策」などこれらのセットはここに囚われ過ぎた場合、結局は、「ゲーミフィケーションの罠」にハマってしまう恐れがある、という結論になる。

 

*【Q&A物語】***

「これも難しくてよく分からないけれど・・・」

「とにかく、ゲーミフィケーションって恐いと思った」

「『報酬』と『取り組み』の罠ってことだよね?」

「何回も繰り返したり、長く続くと、色々と害もあったり、危ないってことでしょ?」

・・

『そうだね』

『ご褒美を目当てに頑張るといったことは、誰もが経験していて、割とありがちなことかと思う』

『ゲーミフィケーションは、ネット上のアプリでも、品物を売買する場でも、この現代の社会では至るところに仕組まれている』

『特に、いまのような緊急時または非常時とされている時は、この罠に注意していて欲しいんだよ』

『まずはできる範囲で構わないから、「自分自身で」、「考えて」、「行動する」ことが大切かと思う』

********

 

そんなわけで、とても難しい状況に、いま人間社会は、人類は、追い込まれている・・・ということを自覚しないとならない。

とても難しいのだよ。

とても・・・。

 

尚、この章(この項目)で記したことは、現金給付による補償や経済対策の云々、あるいはこれらを待ち望む声に対して申し述べたのではなくて、

「一見して、相対する2つのワードをセットとしたときに陥りやすい思考」

ここを焦点にした話なのだ、と思っていただきたい。

これを焦点に、いま私たちが置かれている状況下で囚われやすい事柄と、そこに付随して懸念される点について述べさせていただいた、そうご理解いただきたく思う。

 

********

「わぁ~、おぉ~、気持ちが沈みそうぉ~」

「はい、背筋を伸ばして、深・呼・吸ぅ~!」

・・

『深呼吸かぁ!』

『イイねぇ~!』

********

 

 

《4.「共感する力」で生き抜け!》

 

ここからは、それこそ綺麗ごとにしか聞こえない(思えない)かも知れないけれど(汗)・・・、これも自ら自覚しつつ、現時点で私が考える・・・

「新型コロナウイルスによる危機を生き抜くための対策」

・・・について、恐縮ながら申し述べさせていただこうと思う。

もちろん、あくまでも、「『自立と自律』の教育」を探求する者としての立場でこれを述べさせていただく。

 

それは、「正しい」とか「正しくない」とかではなく、「良い」とか「悪い」とかではなく、「考えていると、どうしてもこうなってしまう」といった提案になる。

 

さて、前提として(これは再度申し上げることになるけれど)、

できるだけ、「『自粛』対『現金給付』」または「『感染拡大防止』対『経済対策』」といった2つのワードをセットにした思考にならないようにする。

いや、これらのセットを全ての点で完全に無視するなんてことは実際にはできないのだけれど、囚われ過ぎてはいけない、という意味だ。・・・「資本主義経済の仕組みの罠」や「ゲーミフィケーションの罠」に自分たちの側からハマってしまうような思考に陥ることは、できれば避けたいからね。

 

これを踏まえて・・・

 

先ずは、直接的に、人一人ひとりの命に関わる「感染拡大防止のための行動」を今すぐ実行する。

他者と出来るだけ直接会わない、接触しない。

「他人との接触は『最低8割減』」

「健康保菌者(感染しているのに無症状だから感染の自覚がない人)になってしまって移動してしまわない」

これらのことを第一に優先する。

これで、

「医療現場の崩壊」

「オーバーシュート(爆発的感染拡大)」

「感染収束経過期間の長期化(感染拡大が収まり始めてから終息に至るまでの間が長くなること)」

を、とにかく回避する!

みんなで一斉にこれを実行して、できれば「一気に畳み掛ける勢いで」新型コロナウイルスによる感染を抑え込んでしまう!

・・・決して長期化させてはならない、早期・短期間のうちに抑え込む!

・・・実際には、完全な終息はないとされているので可能な限り終息に近い状態へと導く!

・・・これは感染拡大の第2波および第3波が来るのを遅らせると同時に、極小さな波で収めるための策でもある。

 ・・

*【Q&A物語】***

「やっぱり、『8割減』が最優先なんだね?」

「わかったよぉ、わかりました!」

「一気に畳み掛けてやろうじゃないのっ!」

・・

『そう、「8割減」!』

『「6割~7割減」では、感染者数は減少するかも知れないけれど、終息までにダラダラと何か月も掛かって、6月・7月になっても日常は取り戻せないかも知れないよ』

『それでは、真綿で首を締められるような状況に陥ってしまう』

『それでは、医療現場の崩壊は回避できても、医療従事者たちの疲労困憊していく状況を取り除くことはできない』

『それでは、国や地方自治体からの補償や経済対策も及ばなくなる』

『それでは、多くの人々の生活が困窮した状態にさらされることになる』

『だから、「8割減」を本気で自分の身に置き換えたその「思考」と「行動」以外に、ウイルスの感染を短期間のうちに終息させる方法なんてないんだ!・・・そう思って欲しい』

********

・・

ちなみに、「健康保菌者」は感染者数として発表されている数の他に、かなり数多く居ると思われる。

そもそも日本のPCR検査の流れからしても、「健康保菌者」を含めた実際の感染者数は現在発表されている感染者数よりもずうっと多いことは明白で、このことに加えて、ここで危惧されることは、発表されている感染者数の中だけでも「感染ルート不明者が5割を超えている地域」が既に国内の各地域・広範囲に渡って拡大しつつあることだ。こうした現状を踏まえて、それでも少なく見積もってみても、実際の感染者は現在発表されている感染者数の2倍~2.5倍ほどの数で居ると考えられる(地域によっても異なるけれど・・・)。

 

それだけに、医療従事者をはじめ、流通・運輸、食材・食料品・生活用品、金融、通信、水道・電気・ガスなど、これら生産業務・製造業務・販売業務・供給業務に関わる職業に就いて働いている人たち、また各地域の保健所で対応をされている人たち、行政や福祉に関わるその現場でお仕事をされている人たちなど、今もこの状況下でお仕事を継続せざるを得ない立場にいらっしゃる皆様には本当に頭が下がる。感謝、感謝、それしかない。

ありがたい(有難い)。

自らの使命感やプライドがあってでないとやっていられないかと思う。

ありがたい(有難い)、・・・30数年に渡るかつての教え子たちも医療現場やこれらの職に大勢就いている。

「どうか安全に」と願うばかりだ。

********

「ほんと、感謝しないとね~」

「医療や福祉の現場でお仕事をされている人たちに差別的な言葉を吐く人もいるらしいけど、それも『共感する力』の鈍さってやつかなぁ~。残念」

********

 

次は、政府や各地方自治体による生活の補償や経済対策について・・・

・・

先ずは、現金給付だ。・・・これは住民等各個人(0歳から全てを対象)向けの現金給付と、事業者(個人、小・中・大規模別)向けの現金給付から始めることを最優先にと思う。

この現金給付による補償、初回は、直ぐ目前の生活および事業運営維持にぎりぎり足りるか、あるいは現実には「こんなんじゃ足りないだろっ!」という金額でも一旦は良いとし、が、直ちに支給してもらう。・・・申請の方法(事業者においては事業活動・実体の証明を含めて)も簡潔な仕組みにして、これホント、「即」行われないとならない! 遅くとも5月の連休前までには支給されないとなぁ~、と思うのだけれど、・・・きっとそうはならない。

・・

また、決して望ましくはないシナリオだけれど、事態・状況によっては、2回目あるいは3回目の現金給付も致し方ないと政府等国は覚悟して準備しておく必要があると思う。・・・ただし、これが実施されるようなことがあった場合は、ありとあらゆる面で「現状とはまた異なる類の危うさが迫ってくる」ことを私たち(政府・国の側も、日本に住む国民・人々の側も)は自覚しておく必要がある。・・・厳しいことを言うようだけれど、危うくなろうとも、目の前のことを少しでも解決する為には、やむを得ないことをせざるを得ない場合もあるかも知れないのだ。

でも、それは、現金給付以外の他の補償および経済対策が効果的に打ち出せるか否かに掛かってくる。

********

「ん〜、ヤバイって感じ?」

「現金給付以外の補償や対策も効果的じゃないとダメってことね」

「でも、とにかく、現金給付、即、お願いしま~す!」

********

 

では、他の補償・対策についても考えよう。

・・

(以下に記す補償・対策などの例は、本当はより詳しく説明すべきなのだろうけれど、現時点では省略させていただくことにする。詳しく述べるには、ここから先で起こるウイルス感染拡大の状況を・・・、おっと、そうではなかったぁ~、「人々の生活上困難になり得る事柄、事業の経営・運営上難しくなる事柄など、これら生活や経済を予測する正確な情報と現実態を私自身がより深く知る必要がある」と考える。が、本来であるのなら私が説明をするまでもなく、先に述べたように、これらのことは関係の省庁・管轄部署等で予測できるはずで、またその予測に基づく先手を打った対策が提示されて然るべきで、余程その方が適格で効果的な策になるはずだと・・・そう思うのだけれど、現実は、いまのところ違うようだ。)

・・

(そんなわけで・・・、)

ここでは、大雑把なものしか提示できないけれど・・・

例えば、「長期に渡って待ってもらう補償(光熱費・家賃等)」、「長期に渡って免除(一部免除)してもらう補償(納税・年金納付等)」、「長期に渡って守ってもらう補償(教育・福祉関連、労働雇用等)」をはじめ、これらの補償と連動させて行う対策(無利子・無担保の長期貸付や全額補償型の長期貸付等を可能にする金融対策、各地方自治体の予算を補てんする等の税収入・財源を確保するための対策)は最優先かつ直ちに実施してもらう。

他、様々な生活スタイルにも行き届く・・・きめ細かな対策も必要で、特に、「(フリーランスを含む)事業の継続と雇用の維持を支援するための対策」、「障がい者や高齢者を守り支えるための対策」、「医療・福祉の現場を支えるための対策」、「子どもたちの保育環境および教育環境の安全を確保・支援するための対策」、「子どもたち・学生たちの教育機会を確保・支援するための対策」のこれらは何重にもセーフティネットを効かせながらその対策を用意してもらう必要がある。また、小・中・大の規模に関わらず各企業の働き方や企業戦略そのものを変革させるための対策も必要になってくるかと思う。

・・

いずれにしても、最終的には、自粛・休業等の間に個人および各事業者が得られるはずだったお金の分をできるだけ現金給付とは異なる補償とそれに伴う対策で補うこと、併せて、今回のウイルス感染を経験して変容していく社会を見据えながら各分野・業界が現状対応と将来性を兼ね備えた環境および機会を確保・獲得できるようにこれを支援するための対策を用意しておくこと、これらを強力に推し進めて実施してもらうことが重要になる。・・・そしてこれら補償・対策の一つひとつが実施される時期等については国民・人々の側からすれば早期に見通せる状況になることも大切で、先ずはその予定だけでも構わないから(これには第1弾、第2弾・・・と実施時期をずらしたもの、状況や対象に応じて補償・対策の規模を幾段階かに分けたものなど、予測をもとに先回りした内容で提示することが必要になるけれど、これも含めて・・・)、先に示した現金給付と同じに、遅くとも5月の連休前までには全てが出揃った形で発表されないとなぁ~と、思うのだけれど、・・・きっとそうはならない。

・・

何故なら、日本中のどこもかしこも「人材(人員)不足」だから・・・。

何故なら、あらゆる分野の各所で必要なはずの「人材育成」を約20年間(捉え方によっては20年以上)も怠ってきたから・・・。

「スピード感ある対応」、そりゃ~誰だって分かっているけれど、この国、日本では現在それができないのだよね~。

 

********

「ええっ!現金給付や他の補償が実際にされるのっていつになっちゃうの?」

「わぁ~、これは、こっちも、いろいろと覚悟しないとじゃん・・・」

「国・政府の皆さん、政治家の皆さん、各省庁や各自治体で働いていらっしゃる皆さん、皆さんどうしも互いに力を合わせて、非常時なんだもん、なんとか工夫をして、イイ対応をして欲しいです!」

「法律や規則など決まり事もいろいろあると思うけれど、『非常時の行動と協力を一番に考えて』、頑張って欲しいなぁ~と思います!」

「どう、イイこと言った?」

********

 

だから・・・、

これでは、

「間に合わない!」

「生活できない!」

「生き残れない!」

という人は、とにかく、そう叫び声を堂々と上げて、助けを求めて、救いを求める。

こうした行動を取って構わない。

こうした行動を取る方がイイ。

 ・・

そして・・・、

こうしたピンチに陥っている人(または事業者)は独りきりで行動するのではなく、日常的に関わりのある人たちにもここに加わってもらって、普段から繋がっている者どうしで、助けを求め合い、救い合う・・・その方がイイ。

・・

併せて、区・市・町・村レベルの自治体で、あるいはこれよりも小さい単位の地域ごとの集まり(コミュニティ)で、あらゆる策を出し合っていって、助けを求め合い、救い合う・・・そんな繋がりが持てたなら、更にイイ。

 ・・

ホントは、

「世界の数パーセントだけいる大富豪・富豪たちが黙って金を出しゃいいのに・・・」

とは思うけれど(元から世の中に出ているお金なのだから)、が、そんな真にご立派な大富豪・富豪の方は、どうやらなかなか居ないらしい。(・・・偏見かも知れない、失礼を申し上げたのであればお詫び申し上げます。)

 ・・

だから、普段から付き合いのある、普段から利用させてもらっている、そんな繋がりや関係・関連のある互いが、知恵を出し合って助け合う・・・「可能であれば」という前提条件が付くけれど、極力それがイイ。

・・

人々、国民、住民、仲間どうしが、あるいは子どもから大人までが、一緒になって互いを助け合い救い合うための行動を起こしていく・・・「どんな手を使ってでも良いから(人殺し等はダメだよ)」というのは大げさな言い方かも知れないけれど、極力それがイイ。

・・

*【Q&A物語】***

「せこい・・・かも知れないけど、物々交換とかってどう?」

・・

『おっ!ある意味、スルドイねぇ~!』

『せこい・・・なんてことはないと思う』

『お互いにお金で協力し合うことが難しい場合は、現物と現物で交換とか、お互いに出来る作業や得意なことを交換し合って協力し合うとか、普段やっている仕事を活かし合うとか、手伝い合うとか・・・』

『こうして、これまでにやったことのなかった生活スタイルや仕事スタイルをみんなで少しずつでイイから探し出して、改良していって、創り出していく・・・って方法もある』

『ま、これが、「国家インフラに頼らない小集団を創っちゃえ」までいくと、ちょっとアナーキーな思想になり過ぎるかも知れないけれどね・・・。まさに究極、よほど、国・政府等の対策やこの国の政治が当てにならなくなってきたときの最終手段はコレかな(笑)?・・・って、コレは真に受けないでよ』

*******

・・

ただ、これ、確かな情報を見極めることが平常時よりも難しいから、

「普段から繋がっている者どうしで・・・」

というのが「重要な鍵」になる。

・・

そこから徐々にその輪を拡げていくようにする。

見知らぬ者と突然手を組むのは危険が伴う。他人の弱みに付け込もうとする輩も現実にはいるのだから・・・。

「信頼」も重要なキーワードだけれど、見誤らないためには、「『普段から繋がっている信頼』からスタートする」ことだ。

 

それと、このことは「心理的な面」を重視して申し上げるのだけれど・・・、

(先に述べた「独裁的な政治」などと言わないまでも・・・)

補償や各対策および管理などについて、国民・人々の側は、はじめから政府や政治家ばかりに期待し過ぎてはならない。

そもそも普段から、皆さん、そんなにこの人達の言動に信頼を置いていたのですか?・・・と、少し思う。

平常時から確りとした仕組みを構築することができていないのに、この緊急時に上手くやれると思う?・・・この緊急時にそんな期待をする方が些か傲慢では?・・・と、また少し思う。

(・・・普段から、政治への信頼、政府への信頼が厚い国であるのなら別だけど、日本については少なくともここ3年ほどの間にそのような世論調査結果は出ていない。幾つかの世論調査を眺めても見つけられない。)

・・

いま現在の日本では、国の中枢にいる人も、○○専門家と呼ばれている人も、社会の端っこに追いやられてしまっている人も、加えて私なんぞは最も怪しい奴なわけで(笑)、どいつもこいつもその多くは、この緊急時・非常時に対応し得るだけの十分な教育もトレーニングも受けていないのだ、上手く、スムースに・・・なんていうことが出来るわけがないのだ。

誰が首相であったとしても、その舵取りはそうそう上手くなんていかないのだよ。だから、今こうした緊急時・非常時においては、特定の誰かに向けて攻撃的な批判などしてはいけない。(・・・余談ではあるけれど、物事への関心と批判的な視点というものの両立は、それは常日頃から、客観的な態度をもって物事一つひとつに目を向けておくことが大切で、かつ、自らもそのための力を養う姿勢が必要かと思う。)

もう一度だけ言うけれど、多くの人が、

「だって、想像したこともない、次々と、色々と起こる、こんな状況に対応できる教育なんて受けてきていないも~ん」

ということなのだよ。

続けてこれも繰り返し述べさせていただくけれど、今こうした緊急時・非常時にあっては、国・政府・首相等公とするものも含めて、社会的に影響力を持つ他者・組織への期待はほどほどにした方が良い、これらへの依頼心を強め過ぎないことだ。

・・

*【Q&A物語】***

「また、なんか怒ってる?」

「国・政府や他人を当てにするなってこと?」

・・

『ごめんなさい』

『いまここで述べたことは、少々荒っぽい表現であったとは思うけれど、国民・人々一人ひとりの「思考」や「行動」を「鈍くしてしまう心理状態」、これに陥ってしまわないようにとの意図なんだ。そう理解してもらいたい』

・・・

『国・政府や他人を当てにするなっていうことよりも・・・、他者の行為に気を「取られ過ぎ」たり、また、ある個人に向けて「攻撃的」になったりした場合、割と長い間に渡って、ここにばかり目が奪われがちになるのが人間で、きっと誰もがそういったことに陥る。ましてや、その他者が、社会や自分に及ぼす影響が大きいと感じれば感じるほど、これに陥りやすくなる』

『そうすると、自分自身や自分の周囲にいる人たちのために本来ならば「考えていたこと」や「行動するはずだったこと」を、または「考え続けること」や「行動し続けること」を、つい、自分自らが見失っていたり、気付いたら忘れていたり・・・なんてことに、どうしてもなってしまいやすい』

・・・

『確かに、他者や他者がしていることに注意を払っておくことも必要。が、「過ぎて」はならない。「バランスを常に自分の意識に置いておく」ことかと思う。「自分の思考や行動を停止させない」ためにも・・・』

********

・・

**【補足説明】**

*ここでは、「非常時などにおける個人に対する『攻撃的』な批判は慎むべきだ」と・・・こうしたことも述べさせてもらったのだけれど、これと別に、社会や組織の制度、物事の仕組みに対しては、非常時だろうが何だろうが「批判的な視点」は必要と考える。が、やはり「過ぎて」はならない、「自分の思考と行動を停止させない」ためにも・・・。/*それには、自身の意思を確りともって行動する姿勢と物事への関心・探求心を持ち続ける姿勢=「自己の確立」が先に必要かと思う。この「自己の確立」は先に述べた「自律の力(自律)」にも繋がる。/*不安定要素が増す社会の、いま、『「批判的な視点」と「自己の確立」を共に両立させていくことができる人材の育成』も世界各国に共通した課題の一つと言える。この点で北欧各国の教育(公教育)は既に先進的な教育を実践していて、アメリカ、イギリス、日本などに比べると何歩も先を歩んでいる。

・・

*筆者が探求・提案している「『自立と自律』の教育」とは、北欧各国のような教育(公教育)を目指すといった類のものでは決してない。日本の教育(公教育)は変えていかなければならないけれど、これまでの日本の教育を全否定するような変革もいけないと思っている。その上で、日本には日本のスタイルに合った・・・ただし如何なる国際社会の中でも通用する「新しい教育システム(仕組み)」が必要と考えている。

********

 

だから、多くは・・・、それはたとえ、ぎこちなく、不器用であっても・・・、

身近な人どうしで手を取り合うことから始めて、知恵をふり絞って、考え合って、出来そうな事から少しずつ、でも必ず実際に行動してみることだ。・・・やれそうなことから始めて次々と行動を起こしていく「ティンカラー的な行動」も必要。

そこでは、失敗しても、上手くいかなくても、あの手この手で、続けて、続けて、繋げて、繋げて、これを拡げていく。・・・本当は拡げ過ぎてもいけないのだけれど、いまはそれよりも行動を起こして続けていくことが大切。

もしも失敗や間違ったことを少ししてしまっても、周囲はその個人を責めたりしてはいけない。

皆で、フォローし合って、あの手この手で、何度でも続けて、幾重にも繋げていく。

・・・これがイイんじゃないか。

どんな立場の人も、今はこれがイイんじゃないか。

こうした「思考」と「行動」を繰り返し重ねながらまた少しずつ「共感する力」を取り戻していく、これがイイんじゃないか。

 ・・

そうなると、ここでまた一つ提案できることがある。

それは、「共感する力」を取り戻してくれるかも知れないこれら「思考」と「行動」を具体的に指し示して支えてくれるもの・・・「チームセルフリーダーシップ」だ。

皆で、互いに「チームセルフリーダーシップ」を目指して、「共感する力」を取り戻していきながら、協力し合い、解決策を見出し、新しい何かを創り出していく、そんなことができたなら、それこそイイんじゃないか。

 

**【補足説明】**

*「チームセルフリーダーシップ」は「自律の力」とも密接な関係にある。この「チームセルフリーダーシップ」の根本的な意味と考え方については「今日の一曲 No.106(2020/04/09更新のブログ)」の中で述べさせてもらっているので一度ご確認いただけたらと思う。これ「最重要事項」!  本文を読み終えた後にでもどうぞ(1分ほどで読める内容)・・・。/*ただし、ここでの「チームセルフリーダーシップ」は、協力関係を築く互いがこれを共通の方向性として認識し合うための・・・ある種「道しるべ(道案内)」としての役割を担う。よって、最初から「チームセルフリーダーシップ」の意味や考え方を厳密に理解しておく必要はなく、また洗練された能力として備えもっておく必要もない。互いがこれを大まかにイメージするだけのものであって構わない。先ずは、互いの関係性やこれから進めていこうとする協同(協働)作業について互いが「共通したイメージ」を描けているか?・・・が大切になる。各人互いがこの「共通したイメージ」・・・すなわち、「道しるべ(道案内)」を携えながら実際に物事に取り組んでいくことの方が重要と考えて、これを具体的に指し示すものとして、「チームセルフリーダーシップ」をここに提示している。

・・

*ミスや失敗は、個人には寛容であるべき。むしろ、その「環境」、「作業や行程などの仕組み」、「組織の仕組み」に問題が潜んでいることの方がはるかに多い。よって、こうした「環境」や「仕組み」に目を向けて修正または改善を重ねていくことが大切。

・・

*「ティンカラー的な行動」もこの先は必要になる。「ティンカラー」とは、直ぐにでも実践可能そうな事から始めて次々と行動を起こしていく人のこと。行動を重ねながら目の前で起こる変化によって次の小さな目標とそのための行動を決めていく。ミスや予想外などは当然のうちで、目の前で起こる変化に反応しながら次々と行動を起こしていく人のこと。ここから、こうした人が取る行動も一つの行動タイプと捉えて、これをある種の行動手法とするとき、「ティンカラー的な行動」または「ティンカラータイプの行動」と言う。/*ちなみに、これと対するのが「プラナー」で、日本の教育(公教育)はこれまで長きに渡って、計画的で、効率的で、組織的である「プラナー」の育成に力を注いできた。が、いま社会では実際の問題として、この「プラナータイプの行動」だけでは解決できない出来事や目的を達成するにも難しい物事が多くなってきている。/*例えば、未曽有の出来事に先が見通しにくい状況下では、「プラナータイプの行動」に固執せずに、時には「ティンカラー的な行動」を取ることの方が物事も進めやすく、解決策や改善策を見出すにも有効であるかも知れないのだ。/*先ずは、「ティンカラー」と「プラナー」の両タイプの行動を知っておくことが大切で、それだけでも、これまでより対応・対処の方法の選択肢が拡がるかと思う。

********

 

が、それでもどうしてもダメだったら、

「もう、死ぬ~」

と、もう一度叫び、わめき、救いを求めるのだ!

その人(その事業者)独りではなく、皆でだ!

でも、ホント、そう!

・・

もしも、もしも・・・だよ。

・・

いやいや、死んではならない。それでは感染拡大防止と他者の命を守ることを優先したその意にも反してしまう。これは、あまりに不謹慎すぎる発言だった。(・・・と、行間を読んだ人には伝わったはずなので、お詫び申し上げるのだけれど)・・・適切さを欠いた表現と知りつつ、申し訳ありませんでした。

・・

が、それほどに、人類は、いま、この新型コロナウイルスに追い込まれている・・・ということが言いたいのだ。

・・

ただね、こうした感染拡大を生じさせるウイルスだって、人類の、ある意味では身勝手な営みが生み出したものなのだけれどね~。ウイルスが恐いのか、人類が恐ろしいのか・・・ん~、何とも。

 

とにかく、取り敢えずのところ・・・可能性を見出すとすれば、

「共感する力」

と、この力を取り戻すための

「チームセルフリーダーシップ」

だ。

・・

それには、

「孤独(個独)になったり、させたりしない」

「他者と何らかの方法で繋がっておく」

ことだ。

そして・・・

「こんなときに、連絡したら迷惑かなぁ~」

なんて思わずに、

「迷惑がられてもいいっか、気になったのだから連絡してみよう」

といったくらいでイイかと思う。

こんなときこそ・・・。

・・

「助けて~なんて言っても無理だよな」

なんて思わずに、

「無理かもしれないけど、助けて~って伝えよう」

といった感じで、そう、自分で決めないで、まず、誰かに確りと届けよう!

こんなときこそ・・・。

・・

*【Q&A物語】***

「ん、大切にしたいね~」

「日頃から繋がりのある人・・・だね」

「繋がっておくこと・・・だね」

「ティンカラーとプラナーかぁ、自分で行動を上手に使い分けられたらいいのに・・・って思った」

「共感する力・・・だね」

「チームセルフリーダーシップって?・・・わかんないけど、ま、いいっかぁ~」

「チーム・・・なんちゃらは、頭の隅にでも置いておこうかな・・・」

・・

『はい、そんな感じでイイかと思います』

『こうして、言葉を頭の中に入れておくだけでも、少しずつ行動が変わってくる』

『はじめから上手にできることばかりでなくてイイ』

『たくましく、それを「生き抜く力」にするためには・・・これらの「言葉」をもとに、「自分自身自ら」が、「思考」して、「行動」していくことだ!』

********

 

それでも、やはり、どう~にもなりそうもないときは・・・、

ぅん~、アレだね~。

 ・・

********

「アレってなに?」

『ここでは言えない、絶対に公開できません(汗・笑)』

「なんだよ~、ケチ!」

「あとで、そっと教えてよ」

『それなら、君がどう~してもダメって思ったときは策を授けよう』

『何故ケチるかっていうと、まったく教育的じゃない気がするから(汗)・・・』

『ヒントにもならないとは思うけれど・・・、たしか、生前の清志郎さんも似たような事をおっしゃっていた・・・ような気が・・・』(・・・この方の熱烈なファンということでもないのだけれど、生きる「道しるべ」の一つかな?)

 ********

 

《5.最終章:自己反省文にも希望を》

 

大好きな本の一冊に、外山滋比古著「本物のおとな論」がある。

この本の中に書かれている事の一つひとつが順にこの瞬間も脳裏には浮かんでいて、こんな状態がここのところ数日間は繰り返し止むことなく続いている。

そして、「これに反した行為を私はしているんだなぁ~」といった思いにさせられる。

このブログを書いている間も、ずっと、常に・・・。

ま、罪悪感に近いのかなぁ(汗)。・・・どういった意味かをお知りになりたい方は、「本物のおとな論」を是非読まれるといい。これについてまたここで述べてしまうと、更に長くなるので省かせてはいただくけれど・・・。

 

さて、述べるべき事柄は大方書かせていただいたように思う。

それは、新型コロナウイルスの感染が拡がる現状を見るこの時点(2020年4月13日~15日)での、我が思考状態と心理状態を含めて、自身で感じ得ている限りのものはほぼ包み隠すことなく率直に述べさせていただいたわけで・・・、

これを、いま、こうしてお読みくださっている読者の皆様には、恐縮な思いと、感謝の思いを重ねつつ厚く御礼申し上げたい。

・・

が、それだけに、自己中心的な思いが少々前面に出過ぎたものになってしまっていることも否めないわけで、この点については自ら反省せざるを得ない。これには、日本国内に住む全ての人たちをも敵に回し兼ねないような極端な物言いと些か乱暴な表現を用いて述べている箇所が多々あることも承知してのことで、このような物言いや表現を連ねていると、こんな私と繋がる人はもう居なくなるかも知れない、助け合う人など居なくなるのではないかと、自分で書いておきながら自己嫌悪感にも陥るのだけれど・・・、これらに込めた真意が読者の皆様に僅かながらでも伝わって届くことがあれば、これはこれで必要なことであったと思えるのかも知れないと、・・・反省しながらも、幾分か甘えた期待感を抱いてもいる。

・・

それでも、新型コロナウイルス感染拡大という問題に直面した日本の社会を「『自立と自律』の教育」の探求から視た場合の・・・

「こっちに進むのは危険なのでは?」

「こっちに進む方が良いのでは?」

・・・といった提案のこの部分においては、おおよそ冷静に、またある程度の客観性も保ちつつ、これを明確にした提示ができたかと思う。

・・

兎にも角にも、皆様それぞれが周囲と何等か繋がりをもって、また普段からの信頼を活かしてこの難を乗り越えてくださることを、先ずは第一に願う。

・・

友達が少ない私は、この繋がってくれている人たちとの関係を引き続き大切にしていく外(他)ない・・・かなぁ~(汗)。

********

「あぁ~、友達少ないの・・・わかる気がする」

『そうぉ?』

『・・・って、おい!』

********

 

ところで、今こうした事態にあって、最も悔いていることは別にある。

それは、やはり「教育(公教育)」に関してのことになる。

気付いたときは、もう西暦2000年になっていた。教育現場に立って約17年間も経過していた。なんて鈍いのだろう・・・と振り返っては、反省をする。

が、気付いただけで、ここからの10数年間ほどは正直なところ手探りのような状態であったと思う。「子どもたちに少しでもこの先の社会・世界を見据えた教育を・・・」と思いつつも右往左往する毎日で、自身が教育現場で受け持っていた目の前の子どもたちに対して何とか対応するだけで精一杯だった。

「先生の数学の授業、わかりやすい!面白い!」

といってくれていた当時の子どもたち(高校生たち)に救われていたのは私の方だった。

********

「へぇ~、そうだったんだ」

「みんな楽しそうだったけどねぇ~」

『ん?君って・・・』

「いいから、続けて続けて・・・」

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・・

そして、2014年頃からだろうか、これにはこの少し前(2010年)から始めていた音楽活動も大いにヒントになったと感じているのだけれど、ようやく、その問題の根本的なものの正体が見え始めてきて、教育現場での実践と学際的な探求の成果が上手く絡み合うようになってきた。

こうして自ら広く動き出したのは、同ホームページの「子どもたちを育む『自立と自律』」のページでもご案内している通り、2018年からだ。

が、多くの人々に拡がっているとは言えない。

その活動の中心に据えている「教育を語りあおうよ音楽Cafe-Barで」という企画では、会場に訪れた人たちもその時その場ではとても熱心に取り組んでくださっていて活発な意見交換などもされるのだけれど、広く世間様に向けて拡がっていくまでにはまだまだ時間が掛かりそうだ。

********

「おぉ~、愚痴りはじめてるねぇ~」

********

・・

そんな折、ここで、世界中が、そして日本が、「新型コロナウイルスによる感染拡大」と対峙しなければならない事態となった。・・・このことは、自身の「教育を変容させていくことへの思考と行動そのものの力の無さ」を痛感する、そんな状況ばかりを目の当たりにする出来事になっている。

「もっと早くに、『自立と自律の教育』に私自身が気付いて、世の中へと、もう少しだけでも広く行き渡らせることができていたなら、もう少しだけでも皆で考え合うような状況を多く作ることができていたなら・・・」

と、・・・そんな後悔と反省を、・・・それでも自身でどうにかこれを抑え込みながら、いま、毎日を過ごしている。

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「ねぇ、暗いよ」

「大丈夫?」

********

 

が、そんな私の後悔なんぞよりも、何としても私の予測に反して欲しいことがある。

 

一つは、新型コロナウイルスの感染と直接的に関わることだ。

中でも、最悪の事態とも言える「医療現場の崩壊」と「オーバーシュート」・・・これは絶対に回避しなければならない!

それと、恐らく日本の社会と日本の人々が最も陥ってしまいやすい危機的状況はこれかと思うのだけれど、「感染収束経過期間の長期化」・・・これも何としてでも回避しなければならない!

・・・これらが叶う状況になっていくことを願っている。

・・

念のため申し上げておくけれど、これらの対策として諸外国で実施されている「ロックダウン」という手段は、日本では、もう既にここまでに進めてきている対策の流れからしても、ここに組み入れることは現実的でない。

故に、前章で述べさせていただいた提案の通り・・・いま当に私たちの身に迫り来る危機を回避または乗り越えるためには、科学的な分析に基づく対策とともに、日本で暮らす人たち一人ひとりの思考と行動が「自立と自律」にも繋がる「共感する力」を取り戻すといった方向へと変容していくこと以外に、そうそう道はないかと思う。

・・

残念ながら(涙)、「教育(公教育)」については、遅れている、追いついていない、すぐには変わっていかない・・・のが現状だ。・・・これら教育の現状を打破すべく、その課題解決の糸口として導入されつつあるのが「アクティブラーニング(主体的・対話的で深い学び)」や「人工知能AIによる学びの個別化」と呼ばれる手法なのだけれど、たとえ、これらが本来の狙い通りに正しく運用されていったとしても、日本の「教育(公教育)」は、ここから何十年か先の未来へと託すしかない状況にある。

それだけに、取り戻せるかも知れない「共感する力」が、いまは大切なのだと考える。

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「いま『教育』を変えていくことは、ミライ・・・に託すこと」

「かつてあった『共感する力』を取り戻すのは、イマ!・・・ってことだね」

「意外と、まとめるの上手でしょっ!」

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予測に反して欲しいことは・・・もう一つある。

それは、人々の生活と日本を含む世界経済に関することだ。

先に述べた通り、私の見通しは暗いものでしかない・・・のだけれど、この予測にも反して欲しい。

そして、日本を含む各国の政策および各国間の協調によって、「国民・人々の生活を守るための補償や経済対策」が世界中の人々に行き届くこと!

同時にそれは、新型コロナウイルス終息後の社会・世界が、「激しいインフレを引き起こして(他の好ましくない経済状況も含めて)、経済的格差を更に激化させるような社会・世界」となってしまわないためのものであること!

・・・そうなっていくよう強く願っている。

・・

しかしながら、私には「コレっ」と思える現実的な方策が浮かばない。

それで、これについても前章で述べた通り・・・危機的状況に追い込まれた場合の苦肉の策として対処療法的ではあるのだけれど、「チームセルフリーダーシップ」と「共感する力」を軸とした提案をさせていただいた。・・・いま目の前で起こる危機に直ぐにでも対処し得る方法としてはこれが最善策と考え、提案させていただいたのだ。

つまり、本当のところは・・・、「強く願っている」を叶えてくれる「コレっと思える」策については、「誰かぁ~頼む、お願い~っ!」って感じでいる。

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「ぅんじゃぁ、コレって思える策、誰かお願いしま~す!」

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さて、こんな私が、現在、取り組んでいることは・・・、

2020年4月9日に更新したブログ「今日の一曲 No.106」の「3.近況報告」の項目の中で書いたことだ。

これに変更はない・・・、が、自身では常に自身を変容させていこうと考えている。

それこそ不器用な人間なので、「ぎこちなくても、泥臭く、続けて、続けて、自分なりの知恵と工夫を重ねながら行動し続けていくしかない!」、「出会った人や繋がってくれている人たちの笑顔を想うことを忘れることなく続けていこう!」・・・そう思って取り組んでいる。

この地味~な取り組みを、これを感覚的な部分では、「人・社会・国を創る根源が『教育』、この教育によって様々な物事を実現していくのが『各人(個性)の営み』・『社会の営み』・『政治』・『国』、そしてこれらを支えるエネルギーが『文化』・『スポーツ』・『芸術』・『芸能』・『科学・学術研究』で、これが循環しながら螺旋状に組み上がっていく・・・」・・・そんな想像を拡げながら・・・

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「えっ?・・・あぁぁぁぁ~・・・」

「また、何か、わけの分からないこと・・・言い出してるよぉ~」

「ま、取り敢えず、がんばれぇー!」

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最後に・・・、

皆様ご自身らが受けてきた教育、各世代が受けてきた教育、また今現在の子どもたちが受けている教育、それぞれが少しずつ違う。もちろん、各人が置かれていた(置かれている)環境にもよるので、それは個々のレベルにおいてもまた違う。

このことは、確かに現状の社会に対して弱みになっているその大部分は重なり合ってしまっているのだけれど、受けてきた(受けている)教育のその環境とそこで得られていた(得られている)機会が少しずつ違う分だけ、弱みが全てで同じに重なっているわけではなく、その弱みは個々で言うのなら互いに少しずつズレて違っている。

だから、あきらめずに、それは子どもから大人まで、人々が互いに互いの弱みを補い合うようにして歩むことを始めれば、いま迫る危機を回避することも、あるいは厳しい状況へと追い込まれた場合にこれを乗り越えていくことも可能であると、・・・そう「考えて」いただきたい。

またこうした希望をもって、・・・「行動して」いただけたらと思う。

 

繰り返しになるけれど、その希望の鍵となる「思考」と「行動」とは・・・、

「チームセルフリーダーシップ」

を活かして、

「共感する力」

を取り戻すこと!

・・

それから、もう一つだけ・・・私がいつもブログ等で強調していることだけれど、

「ユーモアと笑顔」

だ!

・・

*【Q&A物語】***

「ユーモアと笑顔・・・OKで~す!」

「それなら任せておいてっ!」

「質問はないです!」

・・

『嬉しいことを言ってくれますね~!』

『たくましく、生き抜いてみせてくれることを、心より願っています』

『話を聞いてくれて、質問までしてくれて、ありがとう』

『いや、ありがとうございました』

『ところで、君・・・、誰・・・?』

・・・・・・

********

 

最後までお読みくださいました皆様に厚く御礼申し上げるとともに心より感謝申し上げます。

ありがとうございました。

どうか、お元気で・・・。

 

**《参考》**

●日本の「教育(公教育)」、「自立」および「自律」、「教育を語りあおうよ音楽Cafe-Bar」については?

→ 同ホームページ「子どもたちを育む『自立と自律』」のページで詳しく解説している。

・・

・・・尚、「自立と自律」を目指すその根本には「自由の相互承認」という教育哲学の分野で論じられている考えがある。この「自由の相互承認」の感度を高めることと「共感する力」を養い磨いていくことはとても近い関係にあると筆者は考えている。故に、本文中でも「『自立と自律』にも繋がる『共感する力』を・・・」と述べている。

 

●本文中で述べている「共感する力」および「共感」のそのものの意味とは?

・・・「共感」という言葉自体には曖昧さが伴う。受け取り方・解釈によっては危険な意味を伴うことさえある。それ故、本文中では、司馬遼太郎氏やジョージ・ソーンダーズ氏の作品も例に上げ、また度々、「自律の力」、「チームセルフリーダーシップ」といった言葉と「共感する力」を並べて書かせてもいただいた。本文中に用いた「共感する力」および「共感」が意味するものとは、あくまでも「自律の力」や「チームセルフリーダーシップ」にある「思考」と「行動」のこれらと両立するものであることを、ご理解いただきたく思う。

 

●「コンテンツ・ベースの教育」とは?

・・・「他者(教師)から伝えられる情報や知識をそのまま正確に蓄えられる人材の育成」を最優先にして進めていく教育のこと。伝える側が意図する必要な情報・知識を広く多くに行き届かせるためにも有効な教育手法であるとされている。特に19世紀~20世紀代の工業化と大量生産による経済活動で発展を遂げていた社会「産業主義社会」においては、ここに必要とされる能力を育成する上でも適した教育であった。それは、国家の中枢に立つ人や企業経営者らにとっても、指示の徹底、体制づくり、組織の掌握など、管理・監視する上で効率的で都合の良い教育であったとも言える。こうして現在に至るまで長きに渡って、日本でも世界の多くの国々でもこの手法を土台とした教育(公教育)が続いてきた(あるいは今なお続いている)。

 

●「コンピテンシー・ベースの教育」とは?

・・・情報や知識を得たところで終えてしまうのではなく、「得られた情報・知識を基に何ができるのかを考える能力(思考力)の育成」、「他者とコミュニケーションを交わしながら問題・課題を解決していく能力(行動力)の育成」、「・・・これらの能力を合わせもった人材の育成」を目的にした教育のこと。西暦2000年以降のコンピュータやインターネットの普及と併せてIT化と世界のグローバル化が進む社会「知識基礎社会」においては、いま当にここに必要な教育とされている。が、この「知識基礎社会」に合わせて新しく生み出された考え方では決してない。元々は、「いかなる社会の変化にも対応し得る人材の育成」、「より良い(好い)社会を提案・構築していくこと、または変容させていくことができる人材の育成」と併せて、「各人が本来もっている能力を伸ばし、各人がその能力を活かして社会と共に生きていくための教育」の実現に向けて、既に、100年以上前の19世紀後半から20世紀前半に掛けて確立されていった教育の根源的な理念としてあった。これが今日に至って再び、現在から未来を見据えた新しい教育の手法を生み出す考え方の土台となっている。・・・本文中に上げた「アクティブラーニング(主体的・対話的で深い学び)」も、『本来は』、この教育の理念と目的に沿った手法の一つ。

 

●「インクルーシブ教育」とは?

・・・上記「コンピテンシー・ベースの教育」を基にした教育理念および教育手法の一つ。もともとは、視覚や聴覚などの感覚機能に不自由を抱える子ども、生活に車椅子の利用が必要な子ども、難病を抱えている子ども、精神的な疾患を抱えている子ども、脳の機能の発達にアンバランスな面(社会生活上において)が認められる子どもなど、これらの子どもたち(いわゆる障がい児たち)と、そうでない子どもたち(いわゆる健常児たち)とを可能な限り同じ環境のもと同じ機会を与えながら教育を進めていこうとする考え方・手法で、それぞれの違いを認め合うことができる人間を育てることを目的に始まった。

このことは、いわゆる健常児とされる子どもたちの中でも得意・不得意があるなど、どの子どもたちも一人ひとり多くの面で平均的に発達していることはあり得ない、という捉え方が土台にある。

その後、習慣や文化の異なる子ども(例えば移民や外国籍の子ども)もここに含めて教育することが求められるようになると、その目的も更に具現化され、いま現在は、先に示した目的に加え、文化的な背景や社会階層の違い、同性愛者など性的嗜好性価値観の違い、政治的立場の対立による違い、これらの違いも乗り越えて対等な関係で互いの存在を認め合う人間を育てることがこの教育の目的とされている。

ここには、マジョリティの立場にある人間がマイノリティの立場にある人間を受け入れるといった考えで終わるのではなく、マイノリティとマジョリティといった区別した見方さえも取り払い、ただ一人の個性を認め、どの人間も同等の価値をもった存在である、といった理念の上に教育が実践されていくことを何よりも重視した考えがある。

 

●「チームセルフリーダーシップ」および愛間純人の近況については?

→ 同ホームページ「ブログ」の「今日の一曲 No.106(2020/04/09更新)」の文中の「2.チームワークに必要不可欠なもの」、「3.近況報告」という項目でそれぞれ載せています。

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*《追記》***

このブログを公開した後、2020年4月20・21日に文章の一部を修正・加筆いたしました。

誤字、脱字、文法上あるいは構文上において不成立または不十分であった箇所と、その前後で、文脈の流れや表現方法に支障がある箇所において、修正、加筆させていただきました。ただし、本文の内容・主旨は 2020年4月13~15日時点で書き記したそのままです。

公開直後に一度お読みくださいました方々には深くお詫び申し上げます。

たいへん、失礼をいたしました。

特に、カノミ様、SAWADA様、吉浦隆司様、弥勒のマル様、K様には、多大なるご迷惑をお掛けしましたこと、この場で恐縮ながらお詫び申し上げます。

また併せて感謝申し上げます。

また、多くの読者の皆様にも、あらためて感謝申し上げます。

どうか、どうか、お元気でお過ごしいただきますよう、心よりお祈り申し上げます。

 

2020年4月21日 

「自立と自律」の教育探求者 

 愛間純人

(本業はシンガー・ソングライター だよ)

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=再修正について=

*2020年4月23・26日:数箇所で誤字・脱字等を見つけ修正をいたしました。

=構成全体の改訂について=

*2020年4月29日:専門用語や文中の比喩的表現を説明するための【補足説明】を本文途中に付け加えました。

*2020年4月30日:専門用語を解説するコーナー《参考》を本文巻末に付け加えました。

*2020年5月1~3日:本文中のやや難解な内容についてQ&Aを兼ねた会話的文章を【Q&A物語】として本文途中に付け加えるなどしました。

*本文の内容・主旨は、 2020年4月13~15日時点で書き記したそのままです。

 

2020年5月5日

愛間純人

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=再々修正について=

2020年5月17日:「教養」と「自律の力」の関係性について記した【補足説明】を加えました。

2020年6月2日:一部文章の言い回しや表現方法等を見直して、ここに修正を加えました。

2020年5月17日・6月2日

愛間純人

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=データ消失後の対応=

*2020年6月8日:修正作業中に自宅上空を低空で飛ぶ航空機(米軍機数機)によって、ネット障害およびPCが誤作動を起こして、このエッセーの文書データほぼ全てを失いました(残ったのは《前書き》までの冒頭部分のみ)。・・・その後、別に管理・保存していた原稿をもとに手入力で(別に保存していたデータがこのホームページと互換性が乏しかったために手入力となったのだけれど・・・)復旧作業を行いました。

*2020年6月21日:復旧作業完了、再度公開。その際に併せて一部の文章の言い回しや表現方法を見直して修正を加えました。

*2020年7月7・13・15日:復旧の手入力作業における変換ミス等を見つけて、このときにこれらを含めて訂正と一部文章の表現方法を見直して修正を加えました。

*尚、本エッセー(ブログ)の内容・主旨等については 2020年4月13~15日時点で書き記したそのままを維持してここに載せています。

*2020年7月15日の修正を最後に、これ以降の文章をこのエッセー(ブログ)の「完成版」とさせていただきます。

・・・もしかしたらまだミス等が残っていることも、表現や言い回しとして不十分な箇所もあるかも知れないのですが、読者の皆様には大変失礼ながら上手に解釈していただきますよう何卒宜しくお願い申し上げます。

 

2020年7月15日

愛間純人

 

以上。