今日の一曲 No.122:ショスタコーヴィチ作曲「交響曲 第10番 ホ短調 作品93」(大野和士&バルセロナ交響楽団より)

久しぶりの「今日の一曲」シリーズ、その第122回です。

今回は、第117回でも取り上げたショスタコーヴィチを、彼の音楽人生に再び触れながら、が、第117回とはまた別の作品を収録した盤に焦点を当てて、いつものように、余計なあれこれと共に諸々語らせてもらいます。

 あらためて、「音楽って不思議」ですね~。

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 《ショスタコーヴィチの音楽と(第117回のおさらい)》

 ・・・「ショスタコーヴィチ」との出会いは、小学5~6年生だった頃の、これより前のはずだ。記憶を辿っては、その小学5~6年生だった頃には既に始まっていて、それは中学生だった頃も、高校生だった頃も、社会人になってからも、また現在も時折あることで、自身がピンチに陥ると何故か我が脳裏においては決まって或る旋律が鳴り響くのだよね。で、その旋律というのがショスタコーヴィチ作曲「交響曲 第5番」の第4楽章冒頭から表れる(現れる)旋律で・・・

といったことなどを含めて、ショスタコーヴィチの音楽との出会いについて、またその後の経緯については既に色々と「今日の一曲」の第117回(2023/02/25 公開)で書かせてもらったので、今回はざっくりと簡単に。

 

大雑把に、ショスタコーヴィチの音楽とは小学生高学年頃のこれより前に触れる機会があったのだろうと想う。

とは言え、小学生、中学生、高校生だった、これらの頃において「ショスタコーヴィチ」に特段ハマったということはなく、自身がピンチに陥ると何故か我が脳裏で鳴り響く、その旋律との付き合いがあった程度だ。

大学生になってからだね、徐々に、20世紀初頭および20世紀前半のクラシック音楽(現代音楽を含む)に興味・関心をもつようになって・・・例えば、シベリウス、ニルセン、バルトーク、ストラヴィンスキー、コープランド、武満徹・・・、そのなかで、ショスタコーヴィチの音楽にも少しずつ繰り返し触れるようになっていった。

ショスタコーヴィチが置かれていた状況やらを理解しつつ聴くようになったのはそこからだいぶ後のことだ。私が社会人になって、これで(この職業で)何とか生活していけそうだな、とやっとどうにか想えるようになった頃、ぅん~、30歳代後半の年齢になってからだったように思う。

とまぁ、こんなところが大凡の経緯だ。

先ずは、ショスタコーヴィチの音楽・作品これ自体に魅力を感じた、というわけだ。

 

ちなみに、自身がピンチに陥ると何故か我が脳裏で鳴り響く、そのショスタコーヴィチの「交響曲 第5番」に関する話も第117回でたっぷりと語らせてもらった次第だ。

 

《音楽って不思議(1)》

 そろそろ本題へと入ろう。

「今日の一曲」シリーズの第122回として今回ここで取り上げる作品も・・・この流れだものね・・・、そのショスタコーヴィチの作品からだ。

で、今回は、ショスタコーヴィチの・・・結果的にだけれど・・・後期の作品から、「交響曲 第10番 ホ短調 作品93」を。

これを、大野和士指揮、カタルーニャ国立バルセロナ交響楽団(略して、バルセロナ交響楽団)による演奏の、2018年12月14・15・16日にラウディトリ(バルセロナ)の演奏会会場でライヴ録音した盤(CD)から、今回はご紹介させていただきたく思う。

 

何故これほどまでに面白いって思えるの?・・・

音楽って何なんだろうかなぁ?・・・

音楽って不思議・・・

を再認識させられる盤に出会ったのだよね。

 

《ショスタコーヴィチにとっての自由》

 先ずは、ショスタコーヴィチ作曲「交響曲 第10番 ホ短調 作品93」に在るその背景について、私が知る限りのところで・・・「今日の一曲」シリーズは、音楽家の心情等について細かく分析したり作品について詳しく解説したりして、それらを基に我が蘊蓄を語るといったものではない。そもそも私が音楽について多くを知っているわけではないのでね・・・、一寸だけ語らせてもらおう。

 

ドミトリ・ショスタコーヴィチ(ロシア・旧ソビエト連邦(旧ソ連):1906~1975年)は・・・読者の皆様の多くがご存知かと思うけど・・・、ソ連国内において音楽など諸芸術がソ連政府の管理下に置かれていた時代(「スターリン時代」と呼ばれる時代を含めて)に生きた作曲家だ。

第117回で取り上げた「交響曲 第5番」は、政府・当局の統制が最も強化されていった(ショスタコーヴィチ個人に対しての監視もとても厳しかった)ときの作品の一つだ。

 

今回ここで取り上げる「交響曲 第10番」は、ソ連政府の親分だったスターリンが亡くなって、当局の監視が幾分か緩くなってから(?)発表された作品だ。スターリンが亡くなるのを待っていたかのようなタイミングで・・・。

が、ショスタコーヴィチは、べつに、スターリンが亡くなったから、といった状況を見てこの「交響曲 第10番」の創作に入ったわけではないようだ。証拠になるスケッチも残っているらしいし、「交響曲 第10番」で用いられているモチーフの一部は実際にこれより以前の作品に使われている、とのことだ。

 

尤も、スターリンが亡くなったからと言って、ソ連政府・当局の統制の在り方がコロリと変わるなんてことはないわけで。スターリン亡き後も芸術等を含めてあれもこれもが政府の管理下に置かれていたこれは大して変わらなかったのだよね。「スターリン時代」ほどではなかったにしても・・・。

 

ショスタコーヴィチは、当局と目に見えて争うほどの、そこまでの仕方で抗うことはしなかった。自身が監視下に置かれ続けていたこと、またここに絡む事柄については生涯を通じて自身の思いを一切語らなかったようだ。だから、ショスタコーヴィチの作品についてはどれも色々と謎が多いらしいのだな。

 

でも、そりゃぁそうだよね。・・・って、私が分かったふうなことを言ってはいけないのだけれど。

ショスタコーヴィチ自身は、何が何でも音楽家・作曲家として生き続けていくことを最優先に考えたのではないのかな。それに、家族や親しい人たちが何かしら危害を加えられたり、周囲の人たちに迷惑になるようなことがあったりしては絶対にならない、と思ったかも知れないし・・・。

 

ただ、こうしたなかでも、ショスタコーヴィチは常に自身が表現したい音楽を探究し続けていたのだと想う。自身の脳裏の奥深くで、自身の胸裡の奥底で、そこではまったく自由のままに。

監視が最も厳しかったときの、そのなかで創られた作品の一つ「交響曲 第5番」でさえ、曲全体大枠となる形式や構成は当局の意に沿うようにしてあるものの、細かにはショスタコーヴィチの音楽でなければ表れない(現れない)音たちがあちらこちらに散りばめられている。

どんな状況下においても、ショスタコーヴィチは常に・・・少なくとも作品の構想を練っている段階においては・・・想像と自由な発想を原動力に創造力を働かせ研き続けていのじゃぁないのかな。

だから、「交響曲 第10番」の構想を練っている間も、ショスタコーヴィチ自身にしてみれば、自身の自由を当たり前にただただ繰り返していただけのことなのだと想う。

確かに、「交響曲 第10番」として作品を創り上げていく段階では、あるいは初演を迎えるにあたっては、ソ連政府・当局の監視の厳しさ具合も見極めつつ・・・そこいら辺は多少はズルくあっても・・・、といったことはあっただろうけれどね。

にしても、「交響曲 第10番」が無事に発表できたことに、その後も演奏が禁じられるなどの処分がなく済んだことに、ショスタコーヴィチは僅かながらでもホッと胸をなで下ろしたことだろう。ひょっとしたら胸裡では、ニンマリ、ふふっ、と笑みを浮かべていたかも知れない。「私の自由、万歳」って。

(*ショスタコーヴィチが実際にどんな思いをもって作品創りをしていたかは誰にも分かりません。ここまでの記載は私個人の勝手なる想像でしかありません。・・・念のため。)

 

史実としては・・・、

*1945年:「ヴァイオリン・ソナタ」の創作に着手(未完)・・・「交響曲 第10番」で用いられているモチーフが既に先に使われている

*1945年:「交響曲 第9番」を作曲・・・第9番(初稿)の総譜のスケッチのなかに「交響曲 第10番」で用いられているモチーフが既に書かれている。

*1953年3月:スターリン死去

*1953年12月17日:「交響曲 第10番」を発表・初演(エフゲニー・ムランヴィンスキー指揮、レニングラード・フィルハーモニー管弦楽団による演奏)

・・・ということらしい。

 

「交響曲 第10番」の構成等についても極々簡単にふれておこう。

大枠としては4つの楽章から成るオーソドックスな形の交響曲と言える。調性等を含めて古典派およびロマン派からの流れを受け継いだ形だ。

が、細かに中身を覗き込んでみると・・・ここでも私個人の感想を含むけれど・・・、例えば、ショスタコーヴィチ中期以降の作品に頻繁に用いられている彼のイニシャルを表す「DS(E♭)CH」の音型(もしくはこれを暗示する音型)はこの「交響曲 第10番」でも用いられていて、が、どんな箇所にどのように用いているかは「交響曲 第10番」ならではの工夫が随所に感じられる。ショスタコーヴィチだからこその旋律と音の響き具合が確りと主張されていて、新たに独自の表現を模索しては様々に挑み続けていたであろうその成果が表れている作品に思う。

交響曲で言えば、「交響曲 第5番」から「交響曲 第9番」までの作品に比べると、これらよりはずうっと自由に表現がされていて、奏でられる音たちから沸き起こるその面白さは数倍も増している、そんな印象だ。

 

《この盤に在る凄さ!面白さ!》

20歳頃から少しずつ繰り返し聴くようになったショスタコーヴィチの音楽。30歳代後半からはショスタコーヴィチがどのような状況下に置かれていたのかを僅かながらずつでも理解していきながら聴くようになった。

そのなかで、「交響曲 第10番」を聴く機会はなかなか無かったのだよね。

私が20歳代・30歳代だった頃はレコード店(またはCDショップ)でショスタコーヴィチのこの辺りの作品・・・「交響曲 第10番」およびこれ以降に創られた作品・・・を収録した盤が置かれていることは滅多になかった。いや、皆無だった、と言っていいかも。

また、テレビや特に20歳代から好んで聴くようになったFMラジオのクラシック音楽番組などからも、これらの作品の演奏が流れてくることは希なことだった。やっと、ここ最近の6~7年の間で徐々に聴く機会が増えてきた、といった程度だ。

 

結局、インターネットさま様ってところかな。そんなこんなでなかなか手にすることができなかったショスタコーヴィチの「交響曲 第10番」を収録した盤を、コロナ渦だった5年ほど前にネット上で見つけて、購入した。・・・ただし、ネット上においても、様々に色々あるなぁ、といった感じではなかったよ。

 

このときに購入した盤の一枚が、ご紹介の、大野和士指揮、バルセロナ交響楽団による演奏を、2018年12月14・15・16日にラウディトリ(バルセロナ)の演奏会会場でライヴ録音した盤(CD)だ。

 

誤解を恐れずに言うけれど、また敬意をもって申し上げるのだけれど・・・、

この盤に収録されたバルセロナ交響楽団の演奏は、ぅん~、どう申し上げればいいかな、オーケストラのメンバー一人ひとり個人の技量は全員が揃ってベルリン・フィルほどの域にまでには至っていないのかな?と感じる。アンサンブルの完成度についてもウィーン・フィルほどの精確さやバランスの良さまでには至っていないのかな?と感じる。ほんの僅かに所々で不安定さが在るのだよね。

だけどね、演奏全体を通しては、この不安定さを含めても何らかが不足しているようには決して感じないのだな。

なんか凄いの!

とっても面白いの!

何故にこんなにも心地好くにも面白くにも感じてしまうのだろう?!

・・・と思ってしまうのだよ。

 

で、私なりにこの足りない頭で考えてみるのだけれど・・・

一つには、指揮者の大野和士の意図がバルセロナ交響楽団のメンバー一人ひとりに確りと伝わっていて、指揮者・大野和士とバルセロナ交響楽団のメンバーとがきちんと意思疎通が成されていること、そして、メンバー皆が指揮者・大野和士の意図を汲んで、これを目指して懸命に良き(好き)演奏をとの思いで臨んでいること、こういったことを想像ではあっても感じ得ることができるから・・・だろうか。

もう一つには、ショスタコーヴィチの「交響曲 第10番」これ自体に宿る面白さと指揮者・大野和士の意図とバルセロナ交響楽団の懸命な演奏とが確りと噛み合っていること、これを感じ得ることができるから・・・だろうか。

ぃやぁ~、よく分からない。

こういうことだけじゃぁないように思う。

でも、なんだろう、分からない。

兎にも角にも、凄いと感じて、心地好くもあって、面白くもあって、張り詰めたような緊張感と暴走してしまいそうなワクワク感とで、私の内なる何処かが揺さぶられ続けてしまうだよな。

 

それと・・・だね、ご紹介の盤に収録された演奏はライヴ録音のため、演奏とは別に、打楽器奏者が移動していてのことなのか、指揮者が指揮台の上で思わず足を強く踏み込んだかしてのことなのか、その類の靴音らしきもの、また、演奏終了直後の聴衆からの拍手や歓声が会場内で鳴り響く、こうした演奏以外の音も収録されている。

演奏だけを確りと聴きたいという人にはもしかしたら雑音として感じるかも知れない。

けれど、私は、ライヴ感の在る、こんなふうな音も好みにしていて、楽しく聴いている。自身も演奏会場に居るような気分に一寸だけなれるので、ね。

 

《音楽って不思議(2)》

「音楽」って何なのだろうかな?

「好い(良い)音」、「好い(良い)演奏」、「好い(良い)音楽」と謂うこれって何なのだろうかな?

音楽に関わる何かしらを専門にされている人たちの間でも度々語られることだけれど、演奏の好さ(良さ)はテクニック的な完成度や完璧さだけではないと言われる、それはそうなのだろうなぁと思う。・・・経験から得た感覚でしかないけど。

我々は、いや、私は、演奏の何を、音楽の何を、どのような具合に聴いて感じて、心地好いとか、面白いとか、言っているのだろうか?

音楽を聴いたときの自分自身に何が起こって、色々な感情や感想、あるいは想像が湧いてくるのだろうか?

大部分は脳で起こっていることだよね、と、そりゃぁそうで、脳科学や認知科学では何かしらの説明がつくのだろうけれど。

それなら、何故に我々や私の脳はそのような仕組みで成り立っているのだろうか?

ぅん、いやぁ、分からない。

 

ところで、私の場合は「演奏を聴く」・「音楽を聴く」ということばかりではなく、時に・・・比較的頻繁に・・・、「音楽を創る」・「音楽を演奏する」という側になることもあるわけで・・・。なので、「音楽を創る」・「音楽を演奏する」という側からも語らせてもらいたい。少しばかり話題から逸れてしまうかも知れないけど。

・・・私はシンガー・ソングライターとしての役割(肩書き)をもって生活をしています。「自分で創った(作詞・作曲・編曲した)音楽」を「自分で(歌とギターとを用いて)奏でる」ということをしてお客様に音楽を聴いていただいている者です。・・・

と、いま申し上げたような言い方は、他者に向けて広く共有しやすい言葉で説明しようとするとこうなる、ということなのだよね。

でもね・・・いまからオカシナコトを謂うよ・・・、実感としては、「自分で創った音楽」を「自分で奏でる」というのは何か何処か違う、といった感覚なのだ。

高く空の果ての向こう側に拡がる大宇宙と自身のこの体内に在る細胞やら更なる極々小さなものたちが何かしらの働きを成している極小宇宙とが共鳴し合って、とそんな感覚があって・・・。共鳴し合った大宇宙と極小宇宙とが「お前さんを通して音楽を創らさせてもらうよ」、「お前さんを通して音楽を奏でさせてもらうよ」とのメッセージを受けて・・・、いや、命じられて・・・かな?「私」なるモノがこれに従いつつ、併せて、「私」なるものが薄らいで消えて無くなっていきつつ、が、自然とこれに応じて、そう、自然なのだけれど、創らされている、奏でさせられている、といった感覚なのだ。

とまぁ、感じるそのままを言葉にすると分かり難いことになってしまうのだけれど。

と同時に、「あなた大丈夫ですか?」と心配されてしまいそうでもあるのだけれど。

が、この言い方のほうが感覚的には実際に近くて、こういった「音楽って不思議」を実感することもあるのだよね。

 

・・・「音楽って不思議」については、まだまだ書き足らないのだけれど。だからといって、読者の皆様からしたらこれ以上は耐えがたいよね。ということで、ここいらで体裁を整えて、今回はここまでに留めておくとしよう。・・・

 

《私にとって「音楽」は・・・》 

無理にでも、まとめるとだな・・・、

詰まりのところ、今回ご紹介の、ショスタコーヴィチ作曲「交響曲 第10番」、大野和士指揮、バルセロナ交響楽団の演奏を収録したこの盤(CD)を聴くと、「音楽って不思議」を再認識させられるのだよ。

で、「音楽って不思議」を再認識させられる、こうした感覚が呼び覚まされることを欲してしまうときの私は、また繰り返し、部屋のCDラックからこの盤を取り出してくるのだな。

そして、聴き終えた頃には、私の内側にごちゃごちゃと在った、ぐにゃぐにゃと在った、何やら整理がつかないでいたモノたちが、いつの間にか、ふぁっと消えて無くなって、あぁ楽になったぁ、といった感覚だけが残るのだな。

 

私にとって「音楽」は、状況や場のそれぞれに応じて様々な仕方で私の内の何処かに作用してくるものであるらしく、が、結果的には多くの場合で、「救い」となる〈不思議な存在〉、と謂えそうだ。

 

「今日の一曲」シリーズの第122回、今回は、ショスタコーヴィチ作曲「交響曲 第10番 ホ短調 作品93」を、大野和士指揮、カタルーニャ国立バルセロナ交響楽団による演奏の、2018年12月14・15・16日にラウディトリ(バルセロナ)の演奏会会場でライヴ録音した盤よりこれをご紹介しながら、諸々語らせてもらった。

 

以上。

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*いつものことながら、悪文が並ぶ長~いをブログを最後までお読みくださいました読者の皆様に心より感謝申し上げます。ありがとうございました。