今日の一曲 No.120:バッハ作曲「前奏曲とフーガ イ短調 BWV543」(中田恵子・アルバム「Pray with Bach」より)

「今日の一曲」シリーズの第120回です。

今回は、前回(第119回)の続編として・・・だからといって前回を読み返すなどの必要はないよ・・・、前回と同じくオルガニスト・中田恵子が演奏するバッハの作品を、ただし前回のとはまた別の盤より一曲を選んでご紹介します。

そして、いつもの通り、私事の色々も含めて諸々語らせてもらいます。

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《前回からの続編ではあるけれど》

前回(第119回:2025/01/19公開)の「今日の一曲」では2025年の新年を迎えて最初に部屋のラックから取り出した盤の、そこからの一曲として、オルガニスト・中田恵子のアルバム「Joy of Bach」より「トッカータとフーガ ニ短調 BWV565」を取り上げて諸々語らせてもらった。

となるとだよ、もう一つこちらの盤についても触れないわけにはいかないよなぁ、となってね。そんなわけで、「今日の一曲」第120回の今回は、前回からの続編として、触れないわけにはいかなくなったその盤とそこに収録された楽曲より「一曲」を選んで諸々語らせてもらうことに。

 

ところで、今回のその盤だけれど、ここ2年くらいの間に限って言えば私めが最も回数多く聴いた盤のそのうちの一枚でもあって、だから前回からの続編というよりは、愛間が最近よく聴いている盤(CD)らしい、といったことの捉え方で一向に差し支えない。

よって、読者の皆様におかれましては、今回のこれが前回からの続編だからと、その前回(第119回)の「今日の一曲」をわざわざ読み返す、そのような必要はない、というご理解でいていただきたいのだな。

 

《簡単に前回のお復習い》

前回にご紹介したオルガニスト・中田恵子のアルバム「Joy of Bach」にはバッハの作品のなかでも比較的ポピュラーなものが集められ収録されていて、故に、私が前回に選び取り上げた一曲も自ずと・・・もちろん、2025年の新年を迎えて私めが最初に聴いた曲として取り上げたわけなのだけれど・・・多くの人が耳にしたことがあるであろう「トッカータとフーガ ニ短調 BWV565」のこれをご紹介しながら諸々語らせてもらう恰好となった。

そして、「Joy of Bach」に収録された「トッカータとフーガ・・・」について私は「ジャズィなポップなダンスミュージックのようだ」、「このトッカータとフーガ踊っている」「80年代にヒットした映画『フラッシュダンス』の1シーンとも重なる」などと言って感想を述べたわけだけれど。が、取り上げた「トッカータとフーガ・・・」だけでなく、収録された曲のどれもが畏れ多さや厳粛さのなかにありながら、ある種、躍動感に満ち彩り溢れた演奏のこれが際だった、まさに「Joy of Bach」そのままが十分に詰め込まれたアルバムで、オルガニスト・中田恵子の、バッハを多くの人に愉しんでもらいたい、との強く明確な意志在ってのアルバムに感じた次第だ。

 

で、アルバム「Joy of Bach」に収められた演奏は、2016年9月、フランス・ベルフォールのサン・ジャン教会で録音されたものらしいのだな。

 

《世界的なパンデミックのなかで》

さて、その約3年半後のことだ。

2020年春先頃から新型コロナウイルス感染者が世界中で急激に増え始めて、いやぁ、あっという間だったね、世界の多くの人がパンデミックを経験するはめとなった。

そして日本国内に住む人々誰の身おいてもそれは例外ではなかったのだよね。新型コロナウイルスの感染拡大とともに生活を大きく変えざるを得なくなった人たちも決して少なくなかった。私自身も大分ダメージを受けた。ま、私の事はここにはあれこれ書かないでおくけど。

 

それからまた少し時が経過して、その新型コロナウイルスの感染拡大が第3波、第4波・・・と続いて、一方では確かにワクチン接種なども始まって感染拡大のこれ自体は徐々に収束に向かいつつもあったのだけれど、人々の生活はまだまだといった頃で、相変わらず困難な生活へと強いられていく人たちも多くいた頃だ。併せて、世界を見渡すと、戦争やら紛争やらをわざわざ始める輩もいて、はぁ~なんだろうねぇ、といった具合の世界情勢へとなっていった頃だ。

 

こうしたなか、2022年3月28日~31日、日本キリスト教団鎌倉雪ノ下教会で演奏収録に臨んだオルガニストがいた、というわけなのだな。

 

更にこの約半年後、その鎌倉雪ノ下教会で収録されたものは「Pray with Bach」との名でCDアルバムとして世にリリースされた。

 

私自身もあれこれと色々に追い込まれたような感覚で生活をしていた頃だったから、漠然とだったけれど、「何かに願い、祈る」そんな心持ちであったように想う。それでなのか、アルバムのリリースを知った当時の私は何かに急かされながら「Pray with Bach」を買い求めたように記憶している。

 

《なるほど「Pray with Bach」だ》

先の、鎌倉雪ノ下教会で演奏収録に臨んだオルガニストとは、そう、中田恵子さん、のことだ。

 

ってなことで、「今日の一曲」シリーズの第120回は、前回に続いて同じくオルガニスト・中田恵子のアルバムにはなるけれど、今回ご紹介する盤は、前回の「Joy of Bach」とはまた別の意図をもった、対称的な印象さえするアルバム「Pray with Bach」だ。

 

このアルバムには、バッハ自身も礼拝で演奏したであろう「オルガン小曲集」(=コラールを基にした46の小作品から成る曲集)から18曲が収録されている。加えて、これら18の小作品の、前と、中間と、後の、それぞれには「前奏曲とフーガ イ短調 BWV543」、「前奏曲とフーガ イ長調 BWV536」、「トッカータとフーガ ヘ長調 BWV540」(=前回ご紹介した「トッカータとフーガ・・・」とは別の曲)が並ぶ。

 

ここで、盤(CD)付属の小冊子に載せられているオルガニスト・中田恵子の文章を一部抜粋してご紹介する。

・・・(冒頭の文章を省略)・・・2020年3月、コロナ渦の影響で急遽教会の礼拝をオンラインで行うこととなった。礼拝堂には牧師先生と奏楽者、撮影者のみ。会衆がいないため普段よりもよく響くオルガンの音に複雑な想いがした。突然に始まった当初の生配信では、オルガンの音を良い状態で流すことは難しく「生のオルガンの音が欲しい」との声も聴いた。私自身、コロナ渦のためコンサートや海外での録音予定がキャンセルになった。そんな中舞込んだ、自分がオルガニストを務める教会での録音機会。本当に嬉しかった。「奏楽で弾いているような曲を録音できたなら、礼拝に来られない人たちにも喜んでいただけるかも知れない」と思ったのがきっかけで今回の選曲に至った。・・・(途中省略)・・・聖書の物語を読み解くように聴くことも、また普遍的なそれぞれの「祈り」を重ねて聴くことも、何も考えずに聴くことも自由だ。ただ聴いてくださる多くの方の、少しの慰めになれば嬉しい。・・・(*一部抜粋のこの文章においては、私が省略した部分にもとても大切なことが綴られています。が、ここでは、中田恵子さんが置かれていた状況がわかる部分を特にピックアップさせていただきました。)

 

そして、このアルバム「Pray with Bach」から私が「今日の一曲」として選び取り上げるのは、「前奏曲とフーガ イ短調 BWV543」。

 

余談を一寸だけ。

実は、この「今日の一曲」シリーズを書いていて困るのが一枚の盤に複数の楽曲が収録されている場合だ。一枚の盤からただ一曲を選んで紹介する、なんていうルールを設けてこのシリーズを始めちゃったものだから。自分で勝手に決めて自身で勝手に困っているだけなのだけれど、いやぁ、度々ホントに困っているのだよぉ。ふぅ~・・・。

 

《バッハだなぁ~という感覚》

全21曲が収録された「Pray with Bach」のここから何故に「前奏曲とフーガ イ短調 BWV543」を選び取り上げるのか。

 

ぅん~、一つには、この曲、リストがピアノに編曲した譜もあって、そのためピアノで演奏されることも度々あるのだよね。それでかなぁ、私個人もこのアルバムのなかでは幾らか以前より馴染みのあった方の曲で、こうしたことから選ぶきっかけになったのかも知れない、けれど・・・。ん~・・・。

 

それにしても、収録された曲・演奏のどれもがそれぞれにとてもとても心地好いのだよね。

 

なので、敢えて申し上げるのだけれど、そしてあくまでも何者でもない私如き者の感覚で恐縮ながら申し上げるのでもあるけれど、現在の私めには、この曲・演奏が最も「バッハだなぁ~」と感じるから、かなぁ・・・。

 

私がバッハを聴くときは・・・これについては前回に書き記したものを再度同じ文章でここに記す・・・どうやら、胸裡で起きている何かしらを落ち着けたい、然もなくば、脳みそ内で右往左往しているあれやこれやを一度空っぽにしたいとき、みたいだ。幾らかばかりか自身を静観して眺めたいときかも知れない。・・・というわけで。

こんな私の心具合にすんなりと音たちが入ってきては私の内の何処か深いところへと染み渡っていくような、同時に何とも言いようのない安心感に包まれる、この体感および感覚の一つが「バッハだなぁ~」なのだよね。

併せて、先にも書き記した通り、このアルバムを求めた頃の私は「何かに願い、祈る」という心持ちでもあったから、当時のここにもすうっと寄り添えてもらえたような感じがしたのだろうと想う。またアルバムの1曲目に収録されている曲だから、より印象的に「バッハだなぁ~」と感じた、このときの感覚が現在も残り続けているからかも知れない。

まぁ、現在(いま)また世の中で起きている色々を眺めると、「何かに願い、祈る」これは私の内の何処かでは少しずつ変化しつつも依然と続いているからね。このアルバムを求めたそこからその後も聴く度にまた寄り添ってもらえている感覚が湧くのだな。それでまた、「バッハだなぁ~」と。

 

「前奏曲とフーガ イ短調 BWV543」という曲のその音たちだけを追うと・・・私如き者が聴いての感覚だけで言えば・・・、前奏曲部分においては、冒頭、分散和音的な1声がやや高めの音域からフレーズを繰り返しながら徐々に音域を下降して、そのうちに中音域から低音域における持続音や冒頭からの1声に呼応するような音たちが重なって曲全体が少しずつ厚みまたは深みを増していく。所々で起きる不協和音までもが美しい流れのなかにある。フーガの部分においても、1声の主題提示から始まって、これが繰り返されながら至って構造的ななかに美しい流れをもって徐々に音が重なっていく。その一方で動きの速いパッセージ(16分音符の刻み)が何処かの声部でずぅっと続けられる。前奏曲部分は徐々に深みを増していくそれが美しい感じがするのだけれど、フーガの部分では何か更に空間的な拡がりをも魅せるかのように感じる。兎にも角にも、流れが美しい、これを殊感じる曲に思う。

 

恐らくは、バッハ作品自体がもつ、あるいは「前奏曲とフーガ・・・」というこの楽曲自体がもつ精巧さと気品から成る美しさのエネルギーと、オルガニスト・中田恵子の演奏に宿るその精確なテクニックと豊かな表現の威力、そしてそして、鎌倉雪ノ下教会に備え付けられたパイプオルガンから発せられる音たちの響きの何とも言えない温かく包み込んでくれるような優しさと強さを併せ持った崇高で安心感のある音色と、これらが絶妙なバランスで合わさって私へと届いてくるからこそ、「バッハだなぁ~」という心持ちにしてもらえているのだろうね。

 

そう言えば、不思議にも思うのだけれど、前回に書き記したオルガン曲に対する私の幼い頃から何十年も続いていた「オルガン怖い」も、この盤、中田恵子のアルバム「Pray with Bach」を繰り返し聴いている間にすっかり消えてしまったようなのだ。在るのはただただ「バッハだなぁ~」のこれだけ。

 

《音楽と出会うこと》

こんなふうにして音楽を聴いていると、盤との出会い、そこに収録された楽曲や演奏との出会い、あるいはもう少し拡げて謂えば、音楽との出会い、こうしたものが有り難い、本当に有り難い、とあらためて思う。

 

私自身も音楽を創作し奏でては客席や聴く人たちへと届ける側に立つこともあるわけで。そこでは様々な人それぞれにとって「音楽と出会う」その瞬間・時間と空間が好き(良き)ものとなるように、と私はそこに居るようにしているのだけれど、いや、最近は「私」なるものをできるだけ消して、「ただ単に音楽を届ける媒体の一つ」として居られるようになれたらなぁ、なんて思ったりしているのだけれど、いずれにせよ、有り難く在るその時空のそれに対して謙虚に丁寧な姿勢で居たいと思っている。・・・って、コレ、何を言っているのか伝わってる?

 

と、わけが分からなくなったところで終わりにしよう。

 

「今日の一曲」シリーズの第120回、今回は、オルガニスト・中田恵子のアルバム「Pray with Bach」より「前奏曲とフーガ イ短調 BWV543」を取り上げながら諸々語らせてもらった。

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*いつものことながら、長文と、悪文の数々、読者の皆様にはご容赦のほどお願い申し上げます。

*大抵は、ジャケット表紙と盤(CD)を一緒に撮った写真一つだけを載せるのですが、今回はジャケットの構造上それができなかったので、上のジャケット表紙の写真とは別に、付属の小冊子と盤(CD)が映った写真も下に載せておきます。