今日の一曲 No.110:ベートーヴェン作曲「ピアノ協奏曲 第5番 変ホ長調 作品73『皇帝』」(ウィルヘルム・バックハウス&ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団:ベートーヴェン、ピアノ協奏曲全集より)

「今日の一曲」シリーズの第110回です。

今回は、前回、第109回(2020/12/21公開)からの続編です。予告したその通りに、お約束を果たそうと思います。

前回は、西暦2020年の今年に“生誕250年”を迎えた彼の作品から、いま、まさに、“マイブーム”となっている一曲をご紹介して、これに絡めて様々語らせていただきました。

ですが、私にとっては、マイブームとなったこの曲に触れておきながら、このまま素通りするわけにはいかないよなぁ、といった存在もまた併せて別にあって。それで、前回の終わりに予告申し上げたのです。

では、“このまま素通りするわけにはいかない一曲”これを取り上げて、諸々語らせていただきます。

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《イントロダクション》

~前回の内容をおさらい~

予告申し上げた通り、今回は、前回からの続編としてこれを語らせていただきたく思う。

それで、今回もまた、前回と同様、「ベートーヴェン、ピアノ協奏曲全集」に収録されたここから一曲をご紹介させていただくことになるわけだけれど、先ずは前回の内容を、極々簡単に掻い摘んで記させていただくとする。

 (*前回、第109回(2020/12/21公開)をお読みになった方は、この章の内容、ここは読み飛ばしていただいて構いませんよぉ~。)

 

現在、私がここに手にしている「ベートーヴェン、ピアノ協奏曲全集」は、1977年6月に出版されたものだ。これ、私が社会人として最初に就いた職場のそこを11年間勤めて退職するときに、その職場の先輩であったA氏(仮称)から、有難く、頂いたものだ。

ベートーヴェンが生涯に渡って世に送り出したピアノ協奏曲は全部で5作品。この全5作品が全集として3枚のLPレコード盤に収められている。ウィルヘルム・バックハウス(ピアノ)、ハンス・シュミット=イッセルシュテット(指揮)、ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団による演奏だ。

付属の資料によれば、実際に録音がされたのは1958年~1959年ということのようだ。よって、恐らく、初版から17~18年してあらためて再版された盤かと思う。

 

さて、今年の春先、その頃までは、私もこんなことを考えていたのだよねぇ~。

西暦2020年の今年は、彼、ベートーヴェンの“生誕250年”でもあって、こうしたことを記念するイベント的なコンサートなどもあちらこちらで開催されるだろうと思って、ならば、そのどれか一つだけでもそこへと出掛けて行って、彼の作品これを、生の演奏で聴きたいなぁ~、と。

が、“コロナ渦”とも言われるこの状況下で、それは叶わず。いま私が置かれている環境や立場など様々を考慮してもまた、やむを得ないのだった。

それからの、春、夏、秋、と季節が過ぎていく、この間の詳細な経緯については省かせていただくけれど・・・。

でもね、思ったのだよ。特別感もあるこの年をこのまま終えてしまってイイのか?って。

それで、先月11月からは“イベント”を開催することにした。

とは言っても、自分独りだけで愉しむためのものだ。ハハハハハ・・・。

それは週に二度だけ。自身が所有するレコード盤やCDから彼の作品が収録されたものをその度ごとに一つ選んで、このためだけの時間を確りと設けて、丁寧にじっくりとこれを聴く。

(*“イベント”では、ベートーヴェンの作品だけでなく、生誕90年を迎えた武満徹の作品も聴いて愉しみました。)

そして、こんなふうに“イベント”を続けていくうちに、今月、12月に入ってからだった。

「ベートーヴェン、ピアノ協奏曲全集」のこれにハマったのだ。中でも「第3番」は“マイブーム”となった。ん? いや、これについては現在も進行中で、いま、まさに、“マイブーム”となっている。

とまぁ、こんな経緯でもって、前回においては、ベートーヴェンの「ピアノ協奏曲 第3番 ハ短調 作品37」を主として取り上げながら、併せて、同じ「ベートーヴェン、ピアノ協奏曲全集」に収められた他の4作品についても簡単にこの一つひとつに触れて、色々と語らせていただいたのだった。

 

そして、前回の終わりに予告申し上げたのは・・・。

次は、この続編として、同じく「 第5番『皇帝』」を取り上げる、と。

 

《自然と・・・、ね》

そんなわけで、「今日の一曲」シリーズの第110回、今回は、ベートーヴェン作曲「ピアノ協奏曲 第5番 変ホ長調 作品73『皇帝』」を取り上げて、これに絡めて諸々語らせていただく。

 

ところで、私には、70歳を超える現在も現役の洋服職人として働く叔父がいる。私がクラシック音楽を聴くようになったのには、何よりもこの叔父の影響が大きい。2~3歳頃から聴いていたらしい。まぁ、自身の記憶では4歳頃からになるけど。

私が幼少の頃、叔父は私の家に遊びに来る度にレコード盤を持って現れてくれるのだった。しかも、帰るときにはこれを置いていってくれた。叔父が置いていってくれたこのレコード盤が、“音楽好きの私”を育てたと言える。4歳頃には自分独りでレコードプレーヤーを操作して、叔父が置いていってくれたそのレコードで音楽を愉しんでいた。それで、クラシック音楽と呼ばれるこれには自然と慣れ親しんでいったのだと思う。

私とクラシック音楽との関わりを大雑把に語れば、幼少期および小学生低学年の頃までは、主に、ピアノやヴァイオリンの小品曲を聴いていたように想う。3・4年生頃からかな、弦楽四重奏曲、交響詩、歌劇序曲なども聴くようになったのは。それから徐々に、協奏曲や交響曲なども、比較的何等かイメージがしやすい、ストーリー性のある楽曲であれば、やや演奏時間の長い、40分、50分を超える作品も聴いた。

ただし、モーツァルト、ハイドン、ベートーヴェンなど、古典派とされる人たちの作品はあまり好みの方ではなかった。特に中学生・高校生頃まではそうだった。ロマン派、印象派、北欧の作曲家の作品などこれらを好んで聴くことの方が多かった。そのうちにストラヴィンスキーや武満徹など現代音楽へと。古典派の作品を自ら少しずつ好んで聴くようになったのは社会人になってからだ。

 

が、ベートーヴェンの「ピアノ協奏曲 第5番」、『皇帝」といった名も付いたこの作品は、小学4年生頃から聴いていた記憶があって、古典派の作品とされるその中では割と好んで聴いていた方の作品かと思う。

もっとも、「第5番『皇帝』」は、ベートーヴェンのピアノ協奏曲5作品の中でも一番にポピュラーとされる作品だ。多くのクラシック音楽ファンから親しまれている。だから、レコード盤からだけでなく、ラジオやテレビからも度々聴く機会があって、これもまた自然と、ピアニストやオーケストラが異なるそれぞれを色々と聴くようにもなって、それで、多少、他の古典派の作品よりは早くから馴染んでいたところがあったのかと思う。

 

ちなみに、小学生の頃は、GSも、フォークも聴いていた。中学生・高校生の頃は、ジャズも、ロックも、テクノも聴いた。

 

《ガンバレ!小4生》

さて、この「第5番『皇帝』」を初めて、それも、きちんと全楽章を通して聴いたということであれば、その小学4年生の頃で、やはり、叔父のレコード盤からだったと記憶している。

ぅん、そうだ、このときは小学4年生だったはずだ。通学区域が変更になってそれまでとは違う小学校へと通うことになったのだからその年だ。

夏休み、叔父の家に遊びに行ったときのこと。

叔父はその頃には洋服職人として独立していたのだと想う。叔父が住む家には、洋服を仕立てていくその作業場となる部屋があった。叔父は、洋服づくりをしながら、当然、作業の内容にもよるとは思うけれど、その作業場でよく音楽を聴いていたらしい。

それで、叔父の家でレコードを聴かせてもらうときは、決まってこの作業場の部屋でだった。

その日も、仮縫いなどがされた“スーツ・ジャケット”がトルソーに掛けられているこれを眺めながら、が、これに決して触れてしまわないようにして、その部屋へと入った。そうしてから、レコードを聴かせてもらった。

叔父がレコード盤の上に針を置くと、何やら、勢いのある音が響いてきた。オーケストラとともに、いや、それ以上に、ピアノの音が力強く、煌びやかにも感じた。

“レコード・ジャケット”を見せてもらった。

「皇帝・・・、ふぅ~ん」

と、先ず最初に“皇帝”というその文字に目がいったからだろうか、それでそのような反応をしたのか・・・。

「ベートヴェンのピアノ協奏曲『皇帝』だよ。聴いたことあるかい?」

「ぅんぅん、初めて」

と、そんなような会話になった憶えがある。

私は、『皇帝』というこれに勝手なイメージを描いて、聴こえてくる音を楽しんだ。それはいま現在に至っても、尚も鮮明な印象と記憶を残す確かな一場面だ。

であるのに、このとき聴いたレコードの、ピアノが誰で、指揮者が誰で、どこのオーケストラで、といったその記憶はまるで残っていない。

そんなもんだよね~。

もう一寸だけ賢い子であれば憶えていただろうに・・・。ふぁぁ~。

 

それから、夏休み明けかな。学校の図書室で、この「ピアノ協奏曲 第5番『皇帝』」について調べたのだ。

賢くもなく、学校のお勉強もダメダメだったのに、こんなことだけはよくしたのだよ。エヘヘ。

18世紀から19世紀のヨーロッパで“皇帝”がどんなものだったのかも調べた。ん~、なんか難しかった憶えがある。が、おおよそのイメージは掴んだような・・・ 、ん? いや、これは曖昧な記憶だな。

それよりもだよ。

「『皇帝』って、そういうことだったんだぁ~」

と、ぼやいたかどうかまでは不確かだけれど、当時は、少し、ガッカリしたのだった。

クラシック音楽ファンの方はご存知のことと思うけれど、ベートーヴェンの「ピアノ協奏曲 第5番」、これに名付けられた『皇帝』というのはベートーヴェン自身によって付けられたものではない。楽譜の出版や演奏会を開くに当って、謂わば、これによって稼ぐ側の者がその宣伝のために後から付けたものだ。

が、このことが、小学4年生にしてみれば、

「なぁ~んだ」

となるわけで、『皇帝』を勝手にイメージしながら、その上で「ピアノ協奏曲 第5番」を聴いていた自分を残念に思うのだった。

「そう言えば、『運命』もそんな感じだったなぁ」

と、これもボソッと呟いたかも知れない。

以前に知ったこれと同じであるかも知れないと、もっと早くに気付くべきだったと、ね。

それでまた、更に、ガッカリするのだった。

 

ガンバレ、小4の俺・・・(涙・笑)。

 

《中学生時代に買ったレコード》

でも、こんな経験こそが、この作品への好奇心を煽ったのかも知れないのだ。

というのは、私、中学生のときに小遣いを貯めて、この「第5番『皇帝』」のレコードを自分で買っているのだよね。

アルフレート・ブレンデル(ピアノ)、ズービン・メータ(指揮)、ウィーン・プロムジカ管弦楽団による演奏・録音のLPレコード盤を。

実は、今回の我が“イベント”においては、「ベートーヴェン、ピアノ協奏曲全集」よりも、中学生のときに買ったこの盤の方を先に聴いた。そう、この盤を聴いたから、全集の5作品も全べて聴きたい、とその気になったのだ。

この盤の「第5番『皇帝』」からは、活き活きとした力強さ、輝かしさ、ダイナミックさ、といったこれらが前面に出ている印象をもつ。総じて、勢いがあってパワフルだ。それはまた、叔父の家で最初に聴かせてもらったレコード盤のそれとも“近い”といった感覚でもある。

だから、ベートーヴェンの「ピアノ協奏曲 第5番 変ホ長調 作品73『皇帝』」となると、先ずはこの印象があって、私の場合にはこれが一種基準となっているところがあるようなのだ。ラジオやテレビから聴くときも、無意識的に、あるいは知らぬ間に、この盤のその演奏を基準にそれら色々を聴いている。

 

結果、自然と耳に聴こえてきて馴染んでいたそれと、中学生になって自分で買ったレコード盤のこれが、相互に作用したのだと思う。お蔭で? 古典派の人たちの作品がさほど好みではなかった私も、ベートーヴェンの「ピアノ協奏曲 第5番『皇帝』」だけは、小学生の頃から年齢を重ねて社会人となるまでのその間も、途切らせてしまうことなく、またこれがたとえ頻繁でなくても、時折何となくでもこれ聴いてみようかなぁと思う、そういった僅かにも特別な存在になったのかと。

そう考えると、中学生のときに買ったレコード盤のこれだって、ラッキーアイテムの一つだ。

これまでは、このラッキーを、ちゃんと感じられてなかったカモ。

“一寸”、“僅か”、“ほんの少し”、といったその“ラッキー”も、もっともっと大切にしないとなぁ。

 

前回で、「第3番」を“マイブーム”の一曲として取り上げておきながら、この「第5番『皇帝』」に触れす、このまま素通りするわけにはいかないよなぁ、と考えたのもこうしたことからだ。

 

《何か特別な感じ、何か異なる印象》

さて、「ベートーヴェン、ピアノ協奏曲全集」の方の、「第5番『皇帝』」だ。

我が“イベント”開催期間中(笑)、同全集からは5作品全てを、「第2番」、「第1番」、「第3番」、「第4番」、「第5番『皇帝』」と、この順番で聴いた。そして、このときに聴いた、これら作品の一つひとつそれぞれの印象やら感想については、前回、その第109回(2020/12/21公開)で、きっと、“くどい”と言われてしまうほどアレモコレモ様々に、十分に語らせていただいた(汗)。故に、「第5番『皇帝』」についても多少は前回に触れてしまったのだけれど、これとは重複しないところで、ここからは語っていこうと思う。

さ、できるかな?

では、スタート!

 

我がイベント開催期間中においては、12月13日に、「ベートーヴェン、ピアノ協奏曲全集」の「第5番『皇帝』」これを聴いた。

全集、3枚組のLPレコード盤のうち、その3枚目のA面(第1楽章)とB面(第2・第3楽章)の両面に渡ってこれは収録されている。

そのレコード盤の上に、そっと、針を置いた。

“ベートーヴェンらしさ”のこれが先ずは届く。

が少しすると、これまでには得たことのない、“何か特別な感じ”を抱いた。

それは、言ってしまえば、全集の他の4作品からも感じたことではあったのだけれど、今回、この「第5番『皇帝』」を聴いては、より更に強くこれを感じるのだった。

というのも、叔父のレコードから聴いたそれとも、中学生の時に買ったその盤とも、これまでにラジオやテレビを通して聴いた色々なものとも、そしてこれまでも何度か同じ盤によるこれは聴いてもいるのだけれど、そのどれとも、明らかに“何か異なる印象”を受けたからだ。

 

全集に収録された5作品はいずれも、ウィルヘルム・バックハウス(ピアノ)、ハンス・シュミット=イッセルシュテット(指揮)、ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団によって演奏されている。

 

もちろん、同じ作品であっても、それぞれの演奏者たちのその演奏にはそれぞれの特徴があって、またこれを聴く側の心具合や状況に依るところも無視はできないわけで、音楽とは、それぞれ、その度ごとに、違って聴こえてくる。

が、これを前提にしてもだ・・・。

先にも述べ語らせていただいた通り、「第5番『皇帝』」から受ける印象は、おおよそ、優雅、豪華、煌びやか、輝き、力強い、勢い、といった言葉・文字を用いて表現することになるだろう。特に私の場合、「第5番『皇帝』」は、“活き活きとした力強さ”や“輝かしさ”が前面に表れた、総じて、“勢いがあってパワフル”といった印象が“基準”となっている。また、この全集を以前に聴いたその記憶を辿っても、この“基準”からは大きく離れていた印象はない。

が、2020年12月13日のこの時点で聴いている、この全集に収められたこのメンバーによるその演奏は、やはり、“何か特別な感じ”、“何か異なる印象”がある。

そして、その“何か特別な感じ”あるいは“何か異なる印象”は、きっとバックハウスが奏でるピアノから先ずは生み出されている、とそう思うのだった。

 

ウィルヘルム・バックハウス(*ヴィルヘルム・バックハウスと表記されることもある)は、1884年3月26日生まれ、ドイツ出身のピアニスト。後にスイスに帰化。85歳で亡くなるその直前まで演奏活動・演奏旅行を続けていたらしい。全集に収められているのは、バックハウスが 74~75歳のときの演奏だ。

けれど、年齢云々のそうしたことは、その演奏から特に感じるものはないように思う。

ただただ、バックハウスが奏でるピアノの音のその一粒一粒が美しいと感じる。

以前に聴いたときも、ピアノの響きのこの美しさには好感をもった。けれど、これほどだっただろうか。

いやぁ~・・・。

ん~、より一段と、ピュアに美しい感じが・・・。

それはまるで、♫雨上がりの朝~(笑)、森深く木々の葉に乗る水滴たちが踊りを披露しているかのように映る。水滴たちおのおのが純粋清らかな色合いと綺麗な球形を成して葉の上のそこに留まっていると、でも、ふと、風に葉が揺らされて、幾つもの水滴たちがまた別の葉から葉へと次々に跳ねて渡っていく、・・・そんなイメージなのだ。

たとえ曲調が変わっても常にこれだけは維持されていて、その美しい一粒一粒の音の粒子たちは絶えず不変さを以ってこちら側へと届く、そんな印象なのだ。

おっと、私、ファンタスティックに語り過ぎているカモ。

もちろん、「第5番『皇帝』」という作品これ自体がもつ、元々の、力強さ、勢い、煌びやかさ、といったこれらも感じる。しかしながら、こうしたものが前面に出て表れている感じがしない。それよりも、純粋さ、透明感、こういったものとともに、品格、崇高さ、これの方が更に優って伝わってくる感じがするのだ。

ここに、イッセルシュテットとウィーン・フィルハーモニー管弦楽団とで奏でる、その落着き払った深く味わいのあるアンサンブルが届く。

そして、遂に、これらが相まった音たちからは、やはり、“何か特別な感じ”を抱くし、これまでに聴いてきたどれとも、明らかに“何か異なる印象”を受ける。

ぅん〜、心地イイけど、なんだろう・・・。

まぁ、言葉では言い尽くせないよね。

 

《嗚呼、2020年》

“コロナ渦”とも言われるこの状況下で、11月から始めた我が“イベント”は、謂えば、2020年という特別感もあるこの年をこのまま終えていいのか? といったところからの想い付きで始めたもので、これによる何かにさほど期待をしていたわけでもなかった。が、開催して、こうやって試みて、本当によかったと思っている。

(*“イベント”では、ベートーヴェンの作品だけでなく、生誕90年を迎えた武満徹の作品も聴いて愉しみました。)

アハッ、自画自讃だな。

まさか、今更、「ベートーヴェン、ピアノ協奏曲全集」のこれにハマるとはねぇ。でもこれこそ、ラッキーだったと言える。中でも、「第3番」は“マイブーム”となった。そして、「第5番『皇帝』」を聴いては、ここに収録された演奏のその特徴をより強く感じ取れた感覚もあって、これまでには感じ得なかったこの身の一層深いところで感動を得ている、そんな新たな体験も愉しむことができた。

 

西暦2020年の今年は、おおよそ誰もが、立てた予定または想い描いたその通りには過ごせなかったんじゃないのかな。

もっとも、新型のウイルスによって感染が拡がるその脅威を、だいぶ以前から予測して警鐘を鳴らしていたそうした人たちでさえ、その予定は大幅に狂わされたらしいから。

 

まして、私なんぞは。

今年の2月中旬頃だ。その頃には日本でも“新型コロナウイルス”と呼ばれるこれによって新たな感染症が拡がっていく、そんな様相はその時点でも見て取ることができた。が、これを食い止めることも難しいと思った。そこで、自分自身の考えを整理するのと併せて、恐縮ながらそれは私なりにではあるけれど、せめて何んとか重大な事にならないようにと、これに関するエッセーを書いて、5~7月には同ホームページの「読楽論文」にそのエッセーを載せて提言を含めてこれを発信した。でも、当然で、見事ってなくらい無駄な抵抗に終わった。

いえいえ、そんなでもこのエッセーをお読みになって下さった方は思いのほか多かったようで。熱心なご意見も多数寄せられ、励ましの言葉までいただいた。これには重ねて感謝申し上げたく思う。

しかしながら、エッセーで述べたうちの、どちらかと言えば悪い方の予測の方向へと、世の中は、社会全体は進んでしまった。

2020年12月の現時点では、この新たな感染症のこれだけの原因で、日本国内だけでも、毎日、何十人もの人が亡くなられている。倒産した企業、解雇された人、失業した人も増えて、数知れない。

哀しいことに。

残念なことに。

 

そして、この10ヵ月ほどの間は、私自身の行動も著しく制限された。

「いやぁ、まいったなぁ、困ったぞ」

「生活していけるかなぁ」

「生きていけるのかなぁ」

と不安な言葉を吐いては、何度、愚痴ったことか。

情けないよねぇ~。

でも結局は、自分で考えて、自分で工夫して、いまここで出来得ることの一つひとつを、ちゃんと行動にしていく、それしかなかった。

その甲斐あって、いま、こうしていられる。

 

ただね、10ヵ月もの間、私が、こうやって過ごすことができたのも私独りの力では決してない。

短い時間だけでも会ってくれたり、連絡を取り合ってくれたり、とそうした人たちも私の周囲には多くはないけど居てくれて、こうした人たちの寛容さと優しさあってだ。

またそればかりでなく、直接会うことはできなくても、細目に連絡を取り合うことはなくても、これまでの音楽活動や様々な機会を通じて出会った人たちのその一人ひとりのことを想い出して考える、これだけでもまた、私にはとても励みになったし、支えになった。

 

どうかすると、私という人間は“ぶっきらぼう”なところがあって、特にこの数年は執筆作業のこれに没頭したい時期も度々あって、人付き合いに関しては無頓着な印象を他人様に与えてしまうところがあるようで。だけれど、本人は、至って人が好きであり、出会い、関わり合った人たちについては誰かしら順繰りに年中考えていたりと、どちらかと言えば、常に誰かと会話を交わし合っていたい方の種類の人間でして。

それで、2020年においては・・・、

1)昨年の11月から取り掛かっている、現在はあと少しのところまで仕上がってきている、その資料の執筆と編さんをしているときも

2)フースラー・メソードによるボイストレーニングをしているときも

3)曲を創って、ギターを弾き、これを練習しているときも

4)時々だけど、家庭教師(中高生の自学自習のための相談)みたいなことをしているときも

・・・こんなふうに過ごしていては、出会ってくれた、関わってくれた、色んな人たちのことを常に想い出していた。というより、想わずにはいられなかった。

そして、これまでに私と出会い関わってくれた人のその存在があってこそ、私という人間は、いま、幸運にも、こうして生き続けられているんだなぁ~、とそう実感したのだった。

ホント、皆の存在に感謝した。

 

11月からの我が“イベント”は、先にも言った通り、当初は、さほど何かを期待して始めたわけではなかった。

けれど、何か試みてみよう!とそこへと踏み出せたのは、出会い関わってくれた皆さんの存在あってこそで、有難いと思うその心境に至ったことで、このための時間を確りと設けて、丁寧にじっくりと、ベートーヴェン(と武満徹)の音楽を聴く、というこれができたのだと思う。新たな感動まで味わうことができた。

 

目に見える恰好では様々に制限されることも度々ではあるけれど、それだけに、“他者との繋がり”を“想像し続ける”こと、これがとても大切なことに思えた。

ここからは、“感謝”という思いも生まれる。

すると、自然と、“生き続けていく”その力も湧いてくる。

 

一寸ばかり無理やりかも知れないけれど、ベートーヴェンの音楽にはこうしたメッセージも込められているように思う。その意味では、ベートーヴェンの「ピアノ協奏曲 第5番『皇帝』」という作品は特にそうしたメッセージを余計に含んでいる一つに思う。

ベートーヴェンがこの「ピアノ協奏曲第5番『皇帝』」を書いている頃というのは、ヨーロッパ社会全体が政治的・国家体制的に不安定な時にあって、加えて、ベートーヴェン自身も聴覚に抱えた不自由さが一段と深刻になり始めていたときだったと言う。彼自身がオーケストラと合わせてピアノを弾く、それはもう出来なくなっていたらしい。また、こうした聴覚の不自由さのせいもあってか、ベートーヴェンは他人とのやり取りがあまり得意ではなかったようだ。余談になるけど、彼は、異性との恋も、これをとうとうその先へと成就させることはできなかったみたいだよね。トホホ。

それでも、彼の「ピアノ協奏曲 第5番『皇帝』」という作品のここからは、「力強さ、勢い、こうしたパワフルさをもって事に臨み、生きるんだぞ」といったことのメッセージを感じる。不安定さや深刻さよりも。

更には、バックハウスのピアノとイッセルシュテットおよびウィーン・フィルハーモニー管弦楽団の演奏からのこれも付け加えるなら、「こんな時こそ、冷静に、もう少しゆったり心広く構えてみろよ」といった、「どうあっても、品格を絶やさず生きろよ」といった、そうしたことまでを感じる。

ベートーヴェンが作品を通して発している、その作品を聴いた人々へ向けたメッセージには、彼が“想像し続ける”ことで生み出した作品のこれへの情熱と、彼が生み出した作品を聴いた人たちが“他者との繋がり”を信じて“生き続けていく”こと、これを願う、そんな思いが込められているかと。また、演奏者はこれをも再現しようと、もてる能力をここに注ぐわけだけれど。

尚も、誠に勝手なる深読みをこのまま続ければ、様々不遇とも言えるその状況下に置かれたベートーヴェンであったからこそ、“想像し続ける”ことをあきらめなかったのかと。他人とのやり取りが得意ではなかったベートーヴェンであったからこそ、“他者との繋がり”を大切に思っていたのではないかと。そしてこれらは、彼の作品たちのその奥く深くで存在しているように想う。「ピアノ協奏曲第5番『皇帝』」にもそこかしこに組み込まれているように想うんだよね。

言い方を換えれば、むしろ聴覚などの不自由さが、彼の“想像し続ける”これに大きな力を与え、これこそが、彼が音楽を創造していく上での源泉になっていたのではないだろうか。また、彼にあった人間的な不器用さは、彼に“他者との繋がり”を強く求めさせ、これが彼を、平和や人類愛を追求するそこへと向かわせたのではないだろうか。そして、もう一つだけ足して言えば、その当時にヨーロッパ社会に拡がっていた不安定さが、“想像し続ける”と“他者との繋がり”のどちらをもベートーヴェンの意識に深く働きかけていたのかも知れない、とね。・・・こんな具合に。

 

随分と、クサイ語り口になってしまったけど(汗)。

アハハ。

ん?

やっぱり、一寸無理やりっぽいか?

でも、少なくとも、2020年12月現在、この時点での私は、ベートーヴェンからもこうしたメッセージを受け取った。

ただ、そう思うのも、2020年に遭遇した様々やその生活の中で経験したことの色々があったからで、また、私と出会い、関わってくれた人たちのその存在があったからで、これと、ベートーヴェンの作品から聴こえてくる音たち、これとの相互作用によってなのだろう。それで、受け取ることができたメッセージなのだろうと思う。

 

2020年という、この年の瀬にあっては、「ベートーヴェン、ピアノ協奏曲全集」の「ピアノ協奏曲 第5番『皇帝』」これが、私をとても勇気づけるものとなった。また、心のどこかに余裕を生んで、“他者との繋がり”を“想像し続ける”この助けにもなった。

そう、いま、ちゃんと、“生きて続けていく”力があるものなぁ。

となれば、西暦2020年の今年も、ある部分ではこれはこれで“よかった”、とそう思ってイイのかな。

ふぅ~ん、よしよし、と。

でも何よりも、出会い、関わり合ってくれた皆様に、あらためて感謝申し上げる。

ありがとうございました。

 

「今日の一曲」シリーズの第110回、今回は、前回からの続編として、ベートーヴェン作曲「ピアノ協奏曲 第5番 変ホ長調 作品73『皇帝』」を、「ベートーヴェン、ピアノ協奏曲全集」から、ウィルヘルム・バックハウス(ピアノ)、ハンス・シュミット=イッセルシュテット(指揮)、ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団によって演奏・録音がされたLPレコード盤のこれとともにご紹介して、これを中心に諸々語らせていただいた。

 

皆様、どうか、どうか、心身ともに健やかに、お元気で。

皆様にとって、西暦2021年がよき年となりますよう、心より願っております。