今日の一曲 No.109:ベートーヴェン作曲「ピアノ協奏曲 第3番 ハ短調 作品37」(ウィルヘルム・バックハウス & ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団:ベートーヴェン、ピアノ協奏曲全集より)

「今日の一曲」シリーズの第109回です。

今年、西暦2020年は、この方の“生誕250年”でもあって、ならばこそ、何か一つ、そうしたイベント的なコンサートなどへ出掛けて行って、彼の作品を、是非、生で愉しもう!とそんなつもりでいたのですよねぇ~。が、“コロナ渦”と言われるこの状況下で、それは叶わず。

でも、ふと、思ったのです。そうである今年をこのまま終えてイイのか? って。

そこで、私、先月よりこの約1ヵ月半ほど、自分独りで勝手にイベントを設けて愉しんでおりました(笑)。週に二度、このためだけの時間を用意して、その度ごと、自身で所有する盤の中から彼の作品が収録されたものを一つ選んで、これだけを丁寧にじっくりと聴く、とまぁ、そんなことを。

するとここに、一寸した“マイブーム”が湧き起こったのです。

そこで、今回は、いま、まさに、“マイブーム”となっているその盤とここに収録された一曲をご紹介しながら、諸々語らせていただこうと思います。

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《2020年における残念なこと》

西暦2020年の今年。

“生誕250年”と言えば、クラシック音楽ファンの方のみならず、恐らく、多くの皆様方がご存知のことに思うけれど、それは、“ベートーヴェン”という偉大な音楽家・作曲家のこと。

また、“生誕90年”と言えば、それは、“武満徹”という日本を代表する世界にも名の知れた現代音楽作曲家のこと。

 

そして、“音楽活動10周年”と言えば、それは、“愛間純人”というシンガー・ソングライターのこと、ってこれはどうでもいいな。

エヘヘ。

 

それで、今年の2月くらいまでは考えていたのだよね。

ベートーヴェン、武満徹、それぞれ彼らのそういったことを記念するイベント的なコンサートがあちらこちらで開催されるだろうと思って、ベートーヴェンの作品が聴けるそのどれか一つでもいいから、武満徹の作品が聴けるそのどれか一つでもいいから、そこへと出掛けて行って、生の演奏が聴きたいなぁ~、と。

 

ところが、春頃には、こりやぁ無理っぽいなぁ~、といった事態となってしまったわけだ。

日本中も。

世界中も。

そして、ふと気付くと、“コロナ渦”と言われるこの状況下で、私が個人的に、あくまでも私の極個人的なことの範囲内に限りだけれど、最も残念に思っていることは、“彼らの作品を生の演奏で聴きたいなぁ~”というこれが叶わない、このことカモ、ってね。

そりゃぁね、社会全体を眺めては、同ホームページの「読楽論文」に載せたエッセーで述べさせていただいた通りで、しかも、これの内の、どちらかというと悪い方の予測の通りになってしまっている現状に、これには私自身も、非常に痛みを感じるし、寂しく、時に哀しい思いにもさせられて、当然、“残念”に思うことも少なくない。

が、いま言ったのは、そうした類の事ではなくて、至極、私事としてのこと。

 

その“私事としてのこと”の中には、自身の音楽活動や生活の営み、これらも含まれる。

でも、これら自身の音楽活動や生活の営みといったものは、私個人の範囲内に限ったことの中でも、私自身がアレコレと行動していけば、大抵は、“どうにかなる可能性がある”ことだ。上手い具合に進まない場合でも“残念”とはならない、結局は“どうにかしてやるっきゃない”ことだと思うから。例えば、“他者から力を借りて”または“他者と助け合って”と、そうしながらでも“乗り切っていくその可能性はある”わけだから。

だから、こんな調子で物事を捉えていると、2020年というタイミングにおいては、ベートーヴェン、武満徹、彼らの作品を生の演奏で聴きたいなぁ~と思っていたこれが叶わないこと、このことが、“私事としてのこと”の中では、やはり、“最も残念”なことになるなぁ、って。

 

《我がイベントを開催!(笑)》

それで、気付くの遅すぎ!ってな感じではあるのだけれど、夏、7月頃からはこうした。

ラジオまたはテレビの番組から、ベートーヴェン、武満徹、彼らの作品を聴く機会を積極的に探し出して、番組が放送される時間と私めの生活上の色々とのタイミングが合えば、これら番組を通してそれを聴くようにした。特にテレビは、普段は視聴するといった習慣がないのだけれど、そうした。その成果としては、日本の各地のオーケストラがそれぞれにベートーヴェンの作品(交響曲)を演奏して繋いでいくといった企画、武満徹のギター曲や合唱曲を紹介した番組、と、こんなのも視聴できたのは好かったし、“少し”楽しめた。

 

えっ、“少し・・・”なの?

って、そうなのだよね。

 

というのは、これも私が明らかにアマノジャクであるからで、それでこんな見解になるのだとは思うけれど・・・。

ラジオやテレビというものは、特にテレビがそうで、これら媒体によって放送される番組では、またこれも番組制作側としてはその情報も兼ねて親切で用意するのだろうけれど、映像画面からだけでも十分に伝わってくるそれにもナレーションや字幕を被せたり、あるいは何等か関連する映像を参考程度に流したり、関係する曲のその一部だけを聴かせたり、とこうしたことをしてくれちゃうんだよね。あっ、勿論、これは番組制作側の方々に対しての不満やクレームではないよ。

ただ、アマノジャクである私めにとってはこれが余計なんだ。純粋に音楽一曲そのものを、作品一つそのものだけを聴きたい。折角、好いなぁ、と思ったその演奏も、私めの内側では、番組がしてくれちゃうこれよって半減してしまう。つまりは、“少し・・・”となってしまうのだ。

それで、また、

「あぁ~、生の演奏を聴きに行きたかったなぁ」

「残念だなぁ」

と、遂、独りで、ぼやいてしまったりする。

 

でも、ふと、思ったのだよ。

そうかと言って、“残念”のまま終えてイイのか?って。

2020年という、そうした特別感もあるこの年をこのまま終えてしまってイイのか?って。

それで、先月、11月に入ってからだ。ある“イベント”を開催した。

ジャァーン!

まぁ、自分独りだけで勝手に愉しむ、その程度の“イベント”だけれど。

週に二度、あまり時間に余裕がないときは30~40分、時間があるときは60~90分ほど。自身で所有する盤の中から彼らの作品が収録されたものを、その度ごとに一つ選んで、それはまた単にその音楽を部屋に流しておくといった感じでなく、わざわざこのためだけの時間として確りと設けて、これだけを丁寧にじっくりと聴く。

とは言え、実際に始めてみるまでは、所詮、自分自身で所有しているレコード盤やCDを聴くだけのことだよね、と私自身も心の内の何処かではそんなふうに思っていた部分が正直あって、さほど、大したことを期待しているわけではなかった。ただ、“何もしなかった”ということに、したくなかっただけだ。

ところが、実際に始めてみると、中には何年も聴いていなかった盤もあって、こうして一つひとつを聴きいていくうちには、これまで思っていたのとは何やら違った感じに伝わってくるものもあって、想ってた以上に面白いぞ!といった感覚が次から次へと湧いて出てくるのだった。新たな体験と発見があったのだ。

そして、ベートーヴェン、彼の作品に関しては、これまではとまったく違って聴こえる! と少しばかり衝撃的に感じさせられた盤があって、またここに収録された或る一曲については、いま、まさに、“マイブーム”が湧き起こっている、それほどまでのことになった。

 

《嫌な奴だった、その人から頂いたもの》

「今日の一曲」シリーズの第109回、今回、その109枚目にご紹介する盤は、1977年6月に出版された「ベートーヴェン、ピアノ協奏曲全集」という3枚組のLPレコード盤からになる。

ベートーヴェンが生涯に渡って世に送り出したピアノ協奏曲は、全部で5作品。

この全5作品が全集として、3枚のLPレコード盤に収録されている。

ウィルヘルム・バックハウス(ピアノ)、ハンス・シュミット=イッセルシュテット(指揮)、ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団によって、演奏・録音がされている。

付属の資料によれば、実際に録音がされたのは、1958年~1959年ということのようだ。

だから、私が手にしているこのLPレコード盤も、初版から17~18年ほどして、あらためて再版された盤かと思う。

 

“・・・かと思う”といった曖昧さがあるのは、この全集、実は私が自身で購入した盤というわけではないからだ。

これ、例の色々とあり過ぎた、私が社会人となって最初に勤めたその職場、そこを11年間勤めて退職するときに、先輩職員であったA氏(仮称)から、有難く、頂いたものなのだ。

 

先輩A氏と出会った頃。私は社会人1年目だった。

当時互いに勤めていたその職場は腐敗し切っていた。派閥争いばかりをして日々明け暮れるような、謂えば、酷い職場だった。

どちらの派閥にも属さないでいた私は、2年目に一度ここから干されてしまった。

で、A氏は、派閥争いの一方の側の先頭に立って動いていたその一人だった。まぁ、嫌な奴、だった。きっと先輩のA氏も、私のことを嫌っていたと思う。

だいぶ省略するけれど、その後、その職場は、責任者トップが交代。新しく赴任してきた“もの凄い上司”その“救世主”によって、職場のあれもこれもが次々と改善されていった。私も復帰が許された。併せて、派閥争いのこれを先頭に立って仕掛けていたような人たちは、皆、ほぼ一掃される恰好となった。

けれど、そのA氏は、どういった経緯からか、そのまま職場に残って居た。確かに、仕事それ自体はとても良くできる人だった。「何故、こんなにも優秀な人が派閥争いのそれも先頭に立っていたのだろう?」と当時は思ったくらいだ。まぁ、いまに至ってなら分からなくもないけど。

さて、社会人の3年目、4年目、5年目・・・と、私は、“もの凄い上司”その“救世主”の下、幸運にもその上司によって上手く力を引き出してもらった。仕事へと向き合うその考え方から取り組み方まで、様々を叩き込んでもらった。徐々に重要なポジションに就いてこれを任されることも増えていった。

一方で、先輩のA氏はすっかり目立つような立場ではなくなって、大人しく穏やかな様子でこの職場に居た。仕事はソツなくこなしていた。けれど、周囲はそのA氏から距離を置いた。それは当然で、かつて、A氏によって嫌な目に遭った職員は少なくなく、この頃はむしろこうした人たちが職場で中心的な役割を担っていた。

が、この雰囲気もまた、私は嫌な気がした。

こんなことが、また少しずつ新たな派閥争いを生むのでは?と気になったのだ。

だから、私は、A氏とも機会ある度に関わるようにした。とは言え、完全に溝を埋めるまでの仲にはなれなかったかな。それでも、A氏が手掛ける仕事が“この職業のその職責として好ましい方向のもの”、”きっと必要なことだよねぇ”と思えば、これに積極的に関わって応援した。

こんなとき周囲には、

「なんで、あの人に協力するの?」

などのことを言う人も居た。

だからその度に、

「イイことはイイものとして、ちゃんと進めないと」

「誰とかが言っている意見だから、誰とかがやろうとしている事だから、なんて言っていたら、また元に戻ってしまうんじゃないの?」

と、返した。

余談だけど、この“コロナ渦”の社会でも、これに似たような事があるかと。

話を戻そう。

“もの凄い上司”その“救世主”が退職した後、それから数年が経過して私もこの職場からは去ることにした。どうしても他で、挑んでみたいことがあった。

職場を去る2~3日前のこと。

先輩職員のA氏から、

「ちょっと荷物になるけど」

と渡されたものがあった。

渡された布性の大きな手提げ袋のその中を覗くと、レコード盤が何枚か入っているようだった。

「えっ?いいんですか?」

と確認したこれに、A氏は黙って頷いた。

1994年3月の終わり。が、肌寒く、春が未だ待ち遠しいような、そんな思いでいた記憶がある。

 

ご紹介の盤、「ベートーヴェン、ピアノ協奏曲全集」はこうして手にしたものだ。

 

《5つのピアノ協奏曲》

さて、我が“イベント”の話だった。

ベートーヴェンの作品を聴くうちに、この「ピアノ協奏曲全集」にハマったのだ。

ベートーヴェンの5つのピアノ協奏曲の中で、最もポピュラーなのは、「ピアノ協奏曲 第5番」、『皇帝』といった名も付いた、これかと思う。多くのクラシック音楽ファンから、ベートーヴェン・ファンから親しまれている。

私も、叔父の影響で、クラシック音楽には幼少期の3歳頃から慣れ親しんできたわけだけれど、ベートーヴェンの「ピアノ協奏曲 第5番『皇帝』」も小学生の4年生頃には聴いていた記憶がある。

ちなみに、私が、どう、ベートーヴェンの音楽と関わってきたか、これについては、丁度一年前に、「今日の一曲」シリーズの第105回(2019/12/17公開)で「交響曲 第9番『合唱』」を取り上げながら、様々、割と詳しく語らせていただいたので、こちらを覗いていただきたく思う。(・・・恐縮です。)

早い話、モーツァルト、ハイドン、シューベルト、そして、ベートーヴェンも、これら古典派とされる人たちの楽曲は元々好みの方ではなかった。特に中学生・高校生くらいまでは。自ら少しずつ好んで聴くようになったのは、社会人になってからだ。

 

で、“マイブーム”は、この「第5番『皇帝』」ではない。

ウヒョ。

 

“イベント”を始めて約1ヵ月。「ピアノ協奏曲全集」のこれを聴き始めたのは、12月に入ってからだ。

最初に「第2番」を、次に「第1番」を聴いた。

これは、ベートーヴェンが実際に創作した順番がこうであるとされているから、こうして聴くことにした。

「第2番」も「第1番」も、ベートーヴェンが20歳代のうちに書いたとされる楽曲だ。先ずは諸先輩方が築き上げてきたこれに倣って作ってみるか、といった感じでね。あっ、いや、これは私の想像だ。それで私は、以前からこの2つの作品について特に「モーツァルト的だなぁ」と思っていた。そして、今回もまたそう思った。ただし、今回は、単にこれだけではなかった。少しだけ違った。というのは、ベートヴェンのそんな若々しい「未熟さのある一面が心地好いなぁ~」と感じたし、「モーツァルトとベートーヴェンが共作・共演しているようで面白い!」とそんなふうにも思った。

 

そして、「 第3番」。

それはだいぶ以前、この全集をいただいてから数日して、「第1番」から「第5番」を順に通して聴いたときのこと。この「第3番」が“モーツァルト的”であるここから脱して“ベートーヴェンらしさ”のこれへと確立されつつあった作品と感じた一方で、続けて「第4番」と「第5番『皇帝』」のこれら2作品も聴くと、ベートーヴェンの5つのピアノ協奏曲の中では、どうにもこの「第3番」が、中途半端というか、やや物足りないというか、そんな印象をもった。

それで、「第3番」については、それ以来、依然、そうした“負”の印象が私の頭の隅には残っていた。

でも、今回はわざわざ設けた我が“イベント”だ。じっくりと聴こうじゃないか、とそう自分に言い聞かせながら盤の上に針を置いた。

暫く、じっと聴いた。

「ん? なんかイイ感じ?・・・」

また暫く聴きながら、

「ぅわぁ~、これイイねぇ!」

と、独り、部屋で、そっと(であったとは想うけれど)、そう呟いた。

残っていた“負”の印象それとは、まったく違う。

「あぁ~、心地好いなぁ~」

と、思わず、遂、また続けて、小さく(であったとは想うけれど)、声に出してしまった。

なんだろうなぁ、ん〜、安心する。

 

次に「第4番」。

この全集で初めて知った作品だ。以来、「ベートーヴェンが新たに挑んだ、これが輝いている」と思いながら聴くようになった。今回もあらためて聴いては、やはり、そう感じた。そして今回はこれに加えて、湧水が流れてくここに光が細やかに反射する、そんな光景も想い浮かべて聴いた。この「第4番」という作品これ自体がもつ「繊細さ」と「眩しさ」、これを以前よりも増して余計に味わった感じがした。

 

続いて、「第5番『皇帝』」。

この作品は、これまでに何度聴いたか分からない。この全集以外の盤でも、またそれはラジオやテレビを通じて聴いたこれも含めれば、小学生の頃から色々と耳にしてきたことになる。

ところで、今回、ここであらためて聴いては、「第4番」と似た感覚があった。ただ、「第4番」のその印象と異なった点は、「自由に羽ばたこうとする力強さ」みたいなものも更に併せて感じたことだ。それ故、元々「第5番」に想い描いていた「豪華さ」、「優雅さ」、「煌びやかさ」といったこれらがより一層の迫力を伴って感じた。

 

だから思うよね。

音楽とは、これを聴く側のその時々の心のもち具合、そこにある状況・状態で、ホントそれぞれに違って聴こえてくるんだなぁ~、と。

また、こんなことがその都度あるから、音楽は、楽しい、面白い、のだと。

 

《マイブームはルール違反?》

こうして我が“イベント”期間中においては、ベートーヴェンのピアノ協奏曲も5作品全てを聴いた。

すると、どうしてか、たまらなくもう一度聴きたくなってしまったのだよね~、「第3番」を。

実は、このイベントでは、もう一度聴く、というのはルール違反としていた。じっくりと一つひとつの作品を聴く、というその主旨に反するからね(笑)。

ところが、“もう一度”どころでは済まずに、この後、二度聴いた。

12月16日、ベートーヴェンの誕生日には、これが遂に三度目となった。

アハハハハ・・・。

ルール違反は笑って誤魔化すしかない。

よい子の皆さんはマネしないようにね。

 

そんなことで、2020年12月のこの時点においては、ベートーヴェンの「ピアノ協奏曲 第3番 ハ短調 作品37」これが、いま、まさに、“マイブーム”というわけだ。

 

「ピアノ協奏曲 第3番 ハ短調 作品37」は、第1楽章から第3楽章まで全体を通しては、所謂、クラシック音楽の古典派の作品のその典型を成している。それだけに、これが「第1番」や「第2番」ほどではないにしても、依然、“モーツァルト的”なところ、これを僅かに感じる。が、「第1番」と「第2番」を創作した上で得た経験や、この「第3番」を書いていたその頃には交響曲も手掛けていたらしいので、そうしたこともあってかと思うけれど、オーケストラのアレンジからも、ピアノ譜のそこからも、ベートーヴェンだなぁ、といったものが随所に感じられる、それもまた確かだ。

あまり決めつけてもいけないけど、ピアノ協奏曲5作品を順に並べては、恐らく、聴いた誰もが、「第3番」を以って初めてその“ベートーヴェンらしさ”を感じることだろう。私が「第3番」を、“モーツァルト的”なここから脱して“ベートーヴェンらしさ”へとこれが確立しつつあった作品、と思うのはそんなところからだ。

でも、これが、「第4番」、「第5番」になると、その“ベートーヴェンらしさ”は十分過ぎるくらい明らかなものとなる。だって、ベートーヴェンはそれまでの協奏曲の形式を見事に打ち破ってしまうのだから。

「第4番」、「第5番」では、ベートーヴェンは、「こんなのもありなんじゃない?」といった、それはもう彼にしかできない変革を作品に仕掛けて挑んでいる。第1楽章の冒頭からピアノの独奏を入れたり、第2楽章から第3楽章へと進むその繋ぎ方であったり、と。そして、オーケストレーションやピアノ演奏の技巧にしても、そこには様々な要素が盛り込まれていて、これによって奏でられる色々を、それはややもすると興奮気味に楽しませてもくれる、そうした多彩さまでを求めて聴こうとすれば、もう、「第4番」と「第5番」となるわけだ。殊に、ダイナミックスさ、勢い、といったことまでが加わった作品となれば、やはり、「第5番『皇帝』」になるだろう。

 

尤もらしいことを語ってみせたけど、あくまでも私個人の解釈だよ。

 

ぅわぁ、些か理屈っぽくなった? カモね。

申し訳ない。

 

《これがマイブームとなった理由》

くどいけれど、でも、“マイブーム”は「第3番」だ。

そんなわけで、理屈っぽくなったついでに、“マイブーム”となったその理由を分析して述べよう。

イヒッ。

一つには、古典派作品の典型的なその形式にピタッとハマっているその完成度の高さ、ここから受ける安定感、あるいは安心感といったものだろうか。

が、それだけでもないな。

もう一つには、第1楽章~第3楽章それぞれで奏でられ聴こえてくる主題(旋律)とその展開の仕方にあるのかな?

これら主題には、確りと、“ベートーヴェンらしさ”を感じる。それは、言い方は悪いが、ややイモったく、またドンくさくもある、一寸ばかり不器用さを感じさせる主題たちで。けれど、この主題たちを、ベートーヴェンは遠慮なく繰り返し用いて、様々に展開していっては、これらをちゃんと育て成長させていく。聴いている側としてはそうしたことを絶えず作品から感じて、ここから、何んとも言えない嬉しさなのか、喜びなのか、あるいは微笑ましさなのか、ある種特有の心地好さを与えてもらっている、そんな気持ちにもなる。

これが以前までは、“中途半端”、“物足りない”と感じていた。

しかしながら、2020年12月現在に至っては、こうして、“イイねぇ”、“心地好い”、“安心する”と感じる。

何故か?

いやいや、それはヤメテおこう。ここから更に掘り下げてまたこれを語ってしまっては、野暮といった、そうしたことにもなるだろう。

ん?

もったいぶった感じ?

ふぅ~ん。

申し訳ない。今回は、こんくらいにさせていただきたく思う。

 

兎にも角にも、ベートーヴェンが元々好みの方ではかった私も、2020年「ベートーヴェン生誕250年」のここに至っては、とうとう、ベートーヴェンの作品の一つが“マイブーム”となった、とまぁ、そういうわけだ。

そして、“最も残念”のこれも、この全てを補えたわけではないけれど、そのうちの多くを、“新たな体験と発見”へと換えることができた。

その意味では、この我が“イベント”も、成功であったのかな。

 

やっぱり、何でも、そうそう簡単にあきらめるものじゃない、ね。

無駄に想えても、そこへと少しでも近づこうとするその試みは挑んでいった方がイイんだろう、ね。

さぁ、何としてでも“今を生きて”みせるぞ!

ぅん~、ベートーヴェンも、そう思ってたのかもなぁ・・・。

 

「今日の一曲」シリーズ、第109回、今回は、ベートーヴェン作曲「ピアノ協奏曲 第3番 ハ短調 作品37」を、「ベートーヴェン、ピアノ協奏曲全集」から、ウィルヘルム・バックハウス(ピアノ)、ハンス・シュミット=イッセルシュテット(指揮)、ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団によって演奏・録音がされたLPレコード盤のこれとともにご紹介して、諸々語らせていただいた。

 

尚、次回、第110回は、続編として、ベートーヴェン作曲「ピアノ協奏曲 第5番『皇帝』」を取り上げて、語らせていただこうと思っている。

バックハウスのピアノ演奏などについても、今回は語っていないので、次回に、と思っている。

まぁ、気が変わらなければ(汗)。

 

長文を最後までお読みいただき、ありがとうございました。深く感謝申し上げます。

皆様、くれぐれも、心身穏やかに、そしてお元気で。