今日の一曲 No.107:さだまさし「恋愛症候群~その発病及び傾向と対策に関する一考察~」(シングル・EP盤より)

「今日の一曲」シリーズの第107回です。

その107枚目にご紹介する盤はEP盤になります。部屋のレコードラックにはアナログレコード盤のそれもEP盤だけを集めた棚があるのですが、そこへと手を伸ばしたのは、この「今日の一曲」シリーズの第30回(2017/05/04記載)~第38回(2017/06/18記載)で続けてEP盤に収録された曲をご紹させていただいたそれ以来になるかと・・・。

さて、今回その棚へと手を伸ばすまでには少々込み入った事情がありました。

それは同ホームページ「読楽論文」のページに載せているエッセーについて読者の皆様からのご意見・ご感想の中に「ユーモアと笑顔」に関するものが複数寄せられたことにあるのですが・・・(汗)、その詳細は本文において後述させていただくことにして・・・。

それで、「ユーモアと笑顔」のことに関してはやや深刻に受け止めていたはずなのです・・・けれど、何故か、私は私のどこかで常に呑気なところがあってそれは知らぬ間に、

「はて? ユーモアを感じる音楽というと・・・」

などといったことを考え頭に想い浮かべていたのでしょう、ふと想い出したのが今回ご紹介する一曲で、これを収録したEP盤が置かれたその棚へと手を伸ばしたというわけです。

では、このEP盤とそこに収録された一曲に触れながら、いつものように諸々書かせていただきます。

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《1.読者の声に納得》

ん~、確かに・・・、「読楽論文」のページで公開中のエッセーについて読者の方々から寄せられた「ユーモアと笑顔」に関するご意見・ご感想(「『ユーモアと笑顔』の大切さを言っておきながら、これについて何も詳しく述べられていない・・・」など)には一理あるように思った。

「ユーモア」については、特にここ最近は、医療・看護、心理学、社会学などの分野で研究が進んでいて科学的な観点からもその分析はされてもいるのだけれど、その割に、これらについて述べたものが一般書籍として数多くまた広く日本の各書店等に並んでいる様子が現在のところにおいてはどうもない。念のため数日前も再度調べてみたけれど、電子書籍も含めて、やはりそうした本の出版は数少ないようだ。しかも数少ない中で、ユーモアを演出するためのテクニック的な・・・いわゆる「How to 的なもの」の方に偏っていて、それはそれで参考になるのだけれど、根本的な事柄から理論立てて説明したもの、最新の研究成果などについて詳しく記したものについてはまず見当たらないというのが現状のようだ。

ちなみに、欧米の一部幾つかの地域の書店等では、わざわざ「ユーモア・コーナー」なるものを設けて、これに関連する書籍類を数多く並べているところもあるという、それも、そうした州・地域内では同様なコーナーを設けた店があちらこちらにあるらしい。

なるほど・・・、「ユーモアと笑顔」が大切なことは何となく共有できたとしても、多く一般の人が、科学的に、あるいは学際的に深くは知り得ることは意外と難しいのかも知れない、・・・そう思って、読者の方々からのご意見・ご感想にこうしたものが複数あったことには納得がいったのだった。

 

それならば、「ユーモアと笑顔」について、再度もう少し踏み込んで述べさせていただこうかと・・・、

「ん~、でも、どうやって?・・・」

などと思案しているうちに、

「はて? ユーモアを感じる音楽というと・・・」

などとやや本題から逸れたことを無自覚に想い浮かべていたようで・・・、自身でも気付いたときには、

「ユーモアのある音楽と言えばコレだな!」

と、そんな思いに至っていた。

 

《2.ユーモアのある音楽》

さて、音楽において、ユーモア要素を取り入れたものとなるとそれは古くから様々あって、クラシック音楽では古典の部類とされるバッハやモーツアルト、ハイドンの楽曲にもこうしたものがある。また私が小学生の頃に耳にしていた音楽では、加藤和彦らの手によって世でヒットするまでに至った「帰って来たヨッパライ」というフォーク系の曲もそうで、それは小学生当時に目にしていた様々な情景や出来事とともに懐かしく想い出される。

が、「ユーモアのある音楽」と言った観点で最初に想い浮かぶのは、1985年8月28日にシングル・リリースされた「さだまさし」の楽曲になる。これ、その翌年にCDでも発売されたようだけれど、私が持っているのは最初にリリースされたその当時のEP盤で、俗に言う「ドーナツ盤」ってやつだ。

ここで、念のため申し上げておこう。この「今日の一曲」シリーズを度々お読みくださっている方は既にご承知かと思うけれど・・・、私は「これっ!」という音楽やアーティストにのめり込むようなことが一切ないのだよね~。だから、こう言っては何だけれど、「さだまさし」の特別なファンということではない・・・。

それでも、さだまさしの楽曲では、中学生の頃に聴いた「雨やどり」(グレープ時代のもの)をはじめ、その後の「木根川橋」、「関白宣言」なども好きで、これらウイットに富んだユーモアある表現がされた楽曲は、それぞれその当時に何度も繰り返し聴いていた。

なかでも印象深いのが、「恋愛症候群」!

それは、1985年、その当時の私自身が置かれていた状況や心理状態もあってかも知れない。

 

《3.1985年と偉大なる人物》

1985年、それは、これまでの「今日の一曲」でも幾度か登場している偉大なる人物が深く関わってくる。

そして(これもこれまでに何度か書かせていただいたことではあるけれど・・・)、私の社会人1年目、2年目というのは、現在から考えても理不尽としか思えない荒んだ毎日の連続であった。務めていた職場は、もうその職務(ここでは、どういった業種であるかは敢えて言わないでおくけれど・・・、また大方皆様もご存知かと思うけれど・・・)を全うするなどいった状況にはなく、日々、「派閥争い」のみに明け暮れていた。そのうちに、あろうことか、どちらの派閥にも属さないでいたら、その板挟みにあう恰好でそこから干されてしまったのだ。ところが3年目、その職場に新しく現場のトップとして赴任してきた人物がスゴイ人だった。干されていた私を救ってくれたのも、職場とここに関わる全ての人たちを救ったのも、この人だった。・・・まさに、「救世主」のように思えた。

この偉大なる人物と出会ったのが1985年だ。

この人物のリーダーシップぶりというのは、「決断力」、「教養の深さ」、「実践・実行力」、「視野の広さ」など、先ずはその『思慮深さ』に並外れたものがあったと言うほかないのだけれど、ここに、常に『ユーモア』が伴っていたことがこの人物のスゴサで偉大なところであったように思う。

この偉大なる職場のリーダーと共に約5年間に渡ってそのすぐ近くに居ながら仕事ができたことは、その後に職場こそ変えることはあったけれど、同業の職に長く就いてきては(約32年間)大きな糧となった。まぁ~、ある意味ではその当時に厳しく鍛えられもしたのだけれど・・・、これも現在に至って振り返ってみると、この人の「ユーモアと笑顔」に励まされ救われながら、またその大切さを肌で感じることができていたことが、とても貴重で尊い経験だったのだと感じる。何んと言っても幸運であった。

 

《4.さだまさし及び「恋愛症候群」を考察?(導入部)》

その偉大なる職場のリーダーと出会って間もない頃、これら様々な出来事と重なったこともあって・・・と言い切れるほど断定はできないまでも、さだまさしの「恋愛症候群」の「ユーモア」にもそれは少々深く浸ることになった。

おっと、正確な題名は、「恋愛症候群 ~その発病及び傾向と対策に関する一考察~」だ。

 

この曲、早速イントロから「ユーモア」を持ち込んでいる。それはブラームスの楽曲の一部をギター1本で奏でるのだけれど、ラジオの教養番組の始まりであるかのように演出しながらも、実は少し馬鹿にしているようでもあって・・・(笑)。

 

恋と呼ばれる一過性の発情症候群における

その発病及び傾向と対策について考える

年齢 性別 職業 ツベルクリン反応 郵便番号の

如何を問わず 凡そ次のとおり

・・・

開き直らねば何も出来ず ただ暗く爪をかみ

目が点になってため息ばかりの A型

他人のことなど考えられずに 大切な花畑

平気で踏み荒らしてヒンシュクをかう B型

今日と明日では自分同士で意見が分かれて

熱し易く冷め易い AB型

その内なんとかなるんじゃないかと思っている内に

自分だけ忘れ去られている O型

・・・

 

歌詞は、「血液型による性格判断」らしき事柄から始まる。当時はこうしたことのブームの只中でもあった。

少々個人的な話になるけれど、大学生の頃から度々訪れるようになっていた霧ケ峰近くの山小屋でも、宿帳(宿泊帳)には血液型を記入する欄があって、それは緊急時に備えてということではなくて・・・宿の人とその常連客らで人間観察と分析らしきことをするためであった(汗)。現在なら個人情報保護法云々で問題になるところだ。・・・ま、それも、これをネタにして新たに訪れた人とも仲良く過ごそうということが主で、こんなふうに80年代当時というのは、それほどに血液型の話題だけで誰もが盛り上がれるような、それは少々浮かれ気味なところがありながらも寛容な時代だったと言える。

・・・必要ない情報だろうけれど、私はA型だ。

 

 

《5.さだまさし及び「恋愛症候群」を考察?(恋の部)》

その他 いきなり優しくなったり急に詩人になるケース

夜中にいなりずしをどうしても喰べたくなる場合

海に向かってばかやろうーと叫ぶなどはよくある話で

更に若いのに髪が薄くなる方もある

・・・

・・・

手相 星座 サイコロ タロット 四柱推命 その他茶柱まで

相性占いなど気になったら もう恋

・・・

相手には自分の良い所ばかり見せたくなるものであるし

相手の欠点には気づいても気づかずにいられるし

食べ物 着るもの 見るもの 聴くもの すべて好みが合うと思うし

毎日が二人の記念日になる

・・・

 

次いで歌詞に表れるのは、ドラマや映画、あるいはテレビCMの一場面を取り上げたものだ。これについては、1985年頃のこの当時の様子を知り得ない、これ以降に生まれた人たちにはピンとこないものばかりかも知れないけれど、これも言えば、タイムリーな話題をも歌詞に入れ込んで楽しませようとする、さだまさしのある種「サービス(共楽)精神」の才を感じる。しかもそのオチは、さだまさし自身の自己卑下的な表現で閉めている。

更に続く歌詞は、いつの時代も変わらず「恋愛」にまとわり付く様々なことを、例えば占いや人の態度などのこともここに一緒に並べて、古き時代の「恋愛」も、新しき時代の「恋愛」もその根っこは変わっていない様を、それも、さり気なく表現していて、これについては当然のことながら、さだまさしの「作詞家」としての才を感じる。

そしてここまでの前半の歌詞は、「恋愛」のうちの「恋」の部分に関して語っているのだけれど、こと「恋」に関しては、一種の比喩的表現と併せてそこにはたっぷりと「ユーモア」要素が盛り込まれている。

 

「恋愛症候群」を収録したEP盤は、実際のライヴ(1985年6月21日「さだまさし1000回記念コンサート)での演奏をそのままライヴ録音したものなので、ライヴ会場の客席からの笑い声や和やかな雰囲気までもが確りと録られていて、これがまた聴いていてイイ(好い)。・・・独り部屋で、この盤に針を乗せて聴いていると思わず釣られて一緒に笑ってしまいそうになる、いや、笑ってしまう。当時は、カセットテープにダビングをして、外出の際にはカセットテープ用のウォークマン(商品名を出してしまったけれど許してね)で聴くこともあったけれど、この曲はこうして聴いてはならなかった。その理由はお分かりかと・・・(笑)。

 

「恋愛論」を語るほど人間が成っているわけでもない私が述べるのも心もとないところではあるけれど・・・、

「恋愛」の「恋」の部分は、それは古くから、文学でも、音楽でも、演劇でも、「儚さ」や「痛み」とともに表現されるもので、さだまさしの「恋愛症候群」においてもそれは例外なく同じに思う。そこには「儚さ」や「痛み」が伴うからこそ、それを「ユーモア」に包む必要があって、表現としてはむしろ「ユーモア」を伴う比喩表現によって、「恋」の「儚さ」や「痛み」が多くの人と共有できるとも言える。・・・ま、さだまさしが、この辺りのことをどう思って創作したかはご本人に確かめれば済む話ではあるのだけれど、また「さださん」のことだから自ら語っていらっしゃるかも知れないのだけれど、こういった類のことは、受け手である聴き手側が勝手に想像することの方が楽曲に対する礼儀であるように思う。

 

《6.さだまさし及び「恋愛症候群」を考察?(愛の部)》

恋は必ず消えてゆくと誰もが言うけれど

ふた通りの消え方があると思う

ひとつは心が枯れてゆくこと そしてもうひとつは

愛というものに形を変えること

・・・

 

こうして「恋」を語った後、「恋愛症候群」は曲の終盤に向けて「恋愛」の「愛」の部分へと入っていく。そこでの歌詞はそれまでとは対象的だ。

ポップス音楽の一つの楽曲のその限られた枠のなかで、「恋愛」について直接的かつ明確に定義するようなことは難しいように思うのだけれど、「おそらく・・・」という前提となる言葉を置きながらも、さだまさしは、「恋」の「儚さ」や「痛み」に続いて、更に「愛」についてはその「普遍さ」あるいは「永遠さ」を堂々と定義してしまう。この辺りも見事に思う。が、「愛」を力強く定義しているこの部分の歌詞に「ユーモア」な表現は一切ない、大真面目に言葉を並べている。いや、むしろこのギャップが「ユーモア」なのかも・・・。

 

おそらく求め続けてゆくものが恋 奪うのが恋

与え続けてゆくものが愛 変わらぬ愛

だから ありったけの思いをあなたに投げ続けられたら

それだけでいい

・・・

 

《7.さだまさし及び「恋愛症候群」を考察?(音の部)》

もう一つ、歌詞では「恋」と「愛」を対象的にそれを明確に区別して表現しているのに、音では「恋」も「愛」も、どちらの部分にも同じ旋律をモチーフにしたメロディが使われていて、この上に歌詞を乗せている。

ただし、「恋」の方のメロディはその上昇具合を幾分か抑えたフレーズで終えているのに対して、「愛」の方はこれを僅かに変奏させて、高い方の音域へと十分に上昇していったメロディがその伸びやかさを放った後ゆっくりと下降して落ち着くフレーズになっている。それは、「恋が分岐してその僅か一部が変容していったのが愛なのだ」という定義も併せてこれを音として表現している。つまり、これらメロディの構成も常に歌詞に込めた意と共に確りと融合を成しながら、「恋」、「愛」、あるいは「恋愛の定義」を表しているというわけだ。

そして、「恋」、「愛」、「恋愛の定義」を表現したこれら歌詞とメロディの変遷とともに、さだまさし自身も、それはきめ細やかに表情に変化を付けて歌い、終盤には豊かに力強く歌い上げて、この「恋愛症候群」を音楽として届けてくれている。・・・こうして眺め視ては?・・・ん?・・・聴いていては・・・さだまさしの真に「作曲家」としての才、「シンガー」としての才を感じる。

・・・そんなわけで、楽曲全体としても、さだまさしのユーモアを交えた作品のなかでは、「恋愛症候群」は様々に工夫と技巧を要した深いものに思える。

 

《 8.ユーモアのそこには「哀愁」》

ところで、同ホームページ「読楽論文」のページに公開中のエッセーに関するご意見・ご感想として賜ったもののうち、「このエッセー(ブログ)で述べられていることは、通して、そこに真っ先に思ったのは『哀愁』であると・・・、『ユーモアの源泉は哀愁である』という言葉もありますし・・・」というものがあった。

これを寄せてくれたのは実を言うと友人の一人であるのだけれど、この人は、私が日常的に何を考えて、どういった行動をとっているかを知っている方で、またこの人自身が観察眼の鋭い人であるからだと思うのだけれど、正直、ここまで読み取って、また汲み取ってくださる人は居ないと思っていただけに、とても嬉しかった。

このエッセーでは最後の最後に「ユーモアと笑顔」に一言触れただけで終えている。それは「ユーモアと笑顔」の重要性を、そのエッセーで述べている全体から出来れば感じ取って欲しかったからで・・・、が、これを真正面から述べてしまっては、読者の「思考」と「行動」を停めてしまうと思い、それもまたこのエッセーの意図・真意に反してしまうと思い、これを書いているときはそう考えて留まったのだった。

これが結果的には、多くに読者の皆様にとっては不十分に思えて不満だったようで・・・、あぁぁぁ~、また余計なことを言ったかも・・・(汗)、スミマセン、これを読み取ってくれなかった人たちが悪いわけでは決してなくて・・・(汗)、勿論、冒頭で申し上げた通り、このことには納得もしているし、書き手である私の責任だ。・・・ふぅ~。

・・・おおよそ、人というのは、知人・・・それはその人について良く知る人になればなるほど、その知人が書いたものや何等か表現したものを、冷静に、あるいは客観性をもって捉えてその意図・真意を汲み取るなどといったことは難しいはずなのだけれど、この友人は、きっと苦労もしながら私のエッセーを確りと読み込んでくれたのだと想う。

 

嬉し過ぎて、うっかり、横道に逸れそうになったけれど・・・、その「哀愁」のことだ。

 

1985年、私の目の前に現れた偉大なる職場のリーダーは、その腐敗しかけた職場と無用な争いで疲弊しきっていた職員の「危うさ」、「痛み」、「哀しみ」を、それはとても温かく大きな「ユーモア」でこれを包み込んで、また更に、ここに新たなエネルギーを吹き込んだ。そして職員一人ひとりを勇気づけ、職場を活気ある、活力のある現場へと変容させていった。

またこれと丁度同じタイミングで聴くことになった・・・さだまさしの「恋愛症候群」もそうで、特に「恋」の部分についてはそこにある「儚さ」なるものを「ユーモア」で愛おしく覆い、「恋」が儚いながらも「愛」へと変わっていったときの力強さを一緒に表して、その意味の深さを「ユーモア」を伴いながら歌っては、これを届けてくれた。

 

こうして両者を一緒に眺め視ては、偉大なる職場のリーダーからも、「恋愛症候群」を創り上げた・・・さだまさしからも、彼らのその「ユーモア」の源泉にはそれまでに彼らが修練もしく修養を重ね磨き上げてきた才を感じる。その才の一つが「哀愁」への感度だ。これが無ければここまでに述べてきた彼らの「ユーモア」も恐らく生まれてはいないだろう。が、いま、「修練もしくは修養」、また「才」とも言ったこれらは特別なことではなく、彼らが日常的に地道に繰り返し重ねてきたものの中で身に付けていったものであるように感じる。

つまり、日々、日常を重ねる中にこそ、それは少しだけ意識をもって丁寧に積み重ねる必要があるとは思うけれど、そこにこそ「哀愁」への感度を磨き上げていく機会が在るかと思う。

 

《9.よき出会いの記憶》

ある学術的分析では「ユーモア」も幾つかに分類されるらしい。そして、私が事ある度に大切に思ってこれを強調してきた「ユーモア」とは、友人が言い当てたように、この「哀愁」の感度が源泉にあってこその「ユーモア」ということになる(他、「自律の力」、「共感する力」なども関係する)。

ここで語っている1985年のこれらの記憶とともに在る「哀愁」を源泉とする「ユーモア」は、それはきっとその後の体験・経験も重ねてきての後付けの記憶の中に在るものなのだろうけれど、そうであっても、この記憶が、今日の私にとって、その重要性なり大切さを気付かせてくれている鍵となっていることに間違いはない。またこれまでの「今日の一曲」に書き綴ってきた「ユーモアと笑顔」についても、いま「読楽論文」のページに公開中のエッセーの最後の最後に述べた「ユーモアと笑顔」についても、これら1985年の記憶が鍵となって表れていることは、恐らく間違いない・・・。

 

理屈ばかりを述べてはきたけれど、「ユーモアと笑顔」の大切さを理解するには、その人自身がそれを肌で実感することが何より先に必要で、そこから始まるように思う。

私は幸運にも、これをもたらしてくれた偉大なる人物と出会えたことで実感できる機会を経験し得たけれど、こうしたことだけでなく、それは一つには、「恋愛症候群」のようなユーモアを交えた音楽からでも、映画や演劇からでも、小説、落語、コント、漫才などからでも先ずは良いのではないだろうか・・・。これを自らが求めて出会うことでも良いかと・・・。

 

おそらく求め続けてゆくものが恋 奪うのが恋

与え続けてゆくものが愛 変わらぬ愛

だから ありったけの思いをあなたに投げ続けられたら

それだけでいい

あなたに 出会えて

心から しあわせです

 

1985年、それは、「ユーモアと笑顔」の・・・よき出会いの年であったのだろう。

偉大なる職場のリーダーとの出会いもそうだし、今回、「今日の一曲」の第107回としてご紹介させていただいた・・・この一曲との出会いもだ。

さだまさし、「恋愛症候群 ~その発病及び傾向と対策に関する一考察~」。

 

ちなみに私の血液型はA型だ・・・って、あっ、もう聞いたって・・・、要らない情報だった?・・・ね・・・。

 

今回もまた長文をお読みいただき、ありがとうございました。