今日の一曲 No.105:ベートーヴェン作曲「交響曲第9番 『合唱』」(カール・ベーム & ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団、他)

「今日の一曲」シリーズの第105回です。

年の瀬のクラシック音楽と言えば・・・偉大なる作曲家の一人に挙げられるこの方の一作品になるでしょう。毎年この時期になると、この曲が演奏されるコンサートは日本国内の各地で「いったいどれだけあるの?」と思うほど盛んに開かれます。またそのどれもが盛況だそうです。

私個人はそれを自ら積極的に聴こうなどということも無く過ごすのですが、それでも、ほんの少しクラシック音楽に関心を向けていると、毎年その年の瀬には、テレビまたはラジオなどからもこの曲を演奏した幾つかを聴いて、しかも、いつのまにか聴き入ってしまうのだから不思議ですね~。

特に来年は「生誕250周年(2020年12月16日)」を迎えることもあって、記念イベントなども多く予定されているようです。

そこで今回は、この曲が収録されている私の最もお気に入りの盤を「今日の一曲」の105枚目としてご紹介しつつ、またいつものように諸々語らせていただこうかと思います。

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《1.幼少期に出会ったベートーヴェン》

誕生日が12月16日という偉大なるその作曲家とは、ルートビッヒ・ヴァン(ファン)・ベートーヴェンのこと。

そのベートーヴェンが作曲した音楽との出会いは、私が幼少期の頃、叔父が家に遊びに来てはその度に置いて行ってくれたレコード盤の中にあった。だから2~3歳の頃には聴いていたと思う。

(*クラシック音楽を幼少期から聴くようになった経緯について、もう少し詳しくお知りになりたいような場合は、「今日の一曲 No.101(2019/07/29公開)」および「今日の一曲 No.102(2019/08/20公開)」をザックリとご覧いただくだけでも分かるかと思います。決して恵まれた家庭環境などというこではないことも・・・)

 

記憶では、「エリーゼのために」などピアノの小品曲などが最初で、5~6歳頃にはピアノ・ソナタ曲の「悲愴」や「月光」なども聴いていた。ピアノ曲以外ではヴァイオリン協奏曲「ロマンス(ヘ長調)」や「エグモント序曲」といった作品からだったように想う。それから徐々に演奏時間の長い作品を聴くようになっていった。・・・とは言え、叔父がレコード盤を置いていってくれたのは私が小学生低学年の頃までなので、題名からその情景などが比較的イメージしやすかった交響曲第6番「田園」やピアノ協奏曲「皇帝」などの作品を叔父のそのレコード盤で何回か聴いたという程度だ。

だから小学生のうちは、交響曲第5番「運命」も有名な冒頭部分が演奏される第1楽章くらいしか聴いたことはなかったし、交響曲第9番も第4楽章のそれも合唱のクライマックス部分くらいしか知らなかった。

ただ、何年生のときだったか・・・、小学校の音楽の教科書に「喜びの歌」という題名の歌の歌詞や楽譜が載ったそこに「ベートーヴェン作曲」と記されていたのを、確かにそれはそうなのだけれど、学校の先生がそれそのままをベートーヴェンの作品であるかのように説明したことに対して、

「えっ、たったこれだけの『喜びの歌』という短い歌を、ベートーヴェンの音楽と言ってしまうの?・・・」

などと、こんなときは反抗的な思いを心の内で巡らせるようなこともあった。

それでもだよ、音楽と体育と図画工作の授業の他には楽しみがないような小学生小僧の私にとっては、これを大きな不満にすることもなく学校生活を送っていたのだった(笑)。

 

《2.ベートーヴェンを遠ざけて》

こうして、学校のお勉強は「さっぱり・・・」な方であったのだけれど、クラシック音楽への関心は途切れることなく日々日常的にそれはきっと極自然に持ち続けていた。そして小学生高学年から中学生くらいになると、ロマン派や印象派、ロシア系および北欧系の楽派とされる作曲家たちの作品を何故か好むようになって、これらの作品については演奏時間が40分~1時間以上の大作と呼ばれるような楽曲も聴くようになった。ブラームス、チャイコフスキー、ドヴォルザーク、ボロディン、シベリウス、グリーグ、ドビュッシー、ラヴェル・・・などの作品だ。

その一方で、古典派とされるモーツァルトやハイドン、そしてベートーヴェンの音楽へはその興味がだんだんと薄れていった。

恐らく、古典派音楽の形式的な流れやほぼお決まりの楽器編成から奏でられる音が、当時まだ中学生のガキだった私ごときの浅はかさでは、それが単にワンパターンで面白みに欠けた音に感じてしまっていたのだろう、もっと面白くて、刺激的で、奇抜な感じの音楽はないの?・・・といった方向へと関心が向いていった。それは1970年代後半から80年代前半で、ポップスも、ロックも、様々なサウンドによる音楽が次々と生み出されていく高揚に満ち溢れたその時代に我が身が置かれていた、これに大いに影響されてだったと、いまから振り返ってはそう思う。

 

《3.変容していった高校2年生以降》

耳にする音楽は如何なるジャンルも境なく聴いた。それは分類すれば、「クラシック音楽」とされる音たちを聴くのが主ではあったものの、小学生低学年の頃にはGS(グループ・サウンズ)の音楽も聴いていたし、小学4年生頃からは日本の歌謡曲やフォークもロックも、中学生になると洋楽のポップス、ロック、カントリーなどの音楽、これらに加えて、高校生くらいからはスタンダード・ジャズからフュージョン系ジャスも、はたまた世界各地の民俗音楽も興味をもって聴いた。

何かの音楽やアーティストを特定して深くは聴きはしないのだけれど、テレビやラジオから聞こえてくる音楽の全てを面白いと感じながら聴くことができた。

 

音楽の聴き方が変わったのは、高校2年生の秋頃からだろう・・・色々あったお蔭でね(汗)。

「色々あった・・・」こうした体感・体験がその前までに自身の内に燻っていたものの意識を大きく変えた。それは、それまで大嫌いで苦手としか思えなかった学校のお勉強のことでさえ、初めて、自ら確りと学ぼうと思うようになったのだから余程のことだったのだ。(*「色々・・・」については、これまでの「今日の一曲」で何度か記載してきたことなのでその詳細は省略します)

そして音楽を聴くことについても、・・・それまでは、聴こえてくる音のメロディやリズム、サウンドといったものに単純に反応するだけの感覚的な部分の方が圧倒的に占めていたように思う。だけれど、高2生のこの頃からは、音楽のその作品にある背景など、作曲者あるいは演奏者の意図や創造の原点といった部分にも触れて音楽を聴いてみようと、そんな思いを占める割合も徐々に増していった。

まぁ、何もかも、もの凄い労力や時間を割いてまでというわけではないのだけれど、自分で調べられる範囲の大概のことをした上で、あらためて注目した音楽を聴いてみるといったことが多くなった。結果、このことは、それ以前までには無かった音楽の面白みを増大させてもくれた。そう言えば、交響曲などのオーケストラ作品を「ポケット・スコア」を手元に置いて聴くようになったのもこの頃からだ(*このことも「今日の一曲 No.101」、「今日の一曲 No.102」では詳しく記載しています)。

 

その高2生の秋から大学生の頃(奇蹟的に大学に合格したのだよ)にかけては、クラシック音楽の中でも、特に、20世紀以降の作品、また現代音楽作品にも強く興味惹かれるようになった。マーラー、ストラヴィンスキー、バルトーク、シュミット、コープランド、武満徹・・・など、これらの人たちの作品だ。

が、当時、これらの作品や作曲者の背景について調べていると、モーツァルトやベートーヴェンの名前に行き着くこともまた度々だった。楽器の仕組みや楽器奏者について知ろうと調べていても同じで、例えば、クラリネットについて調べているとモーツァルトの作品へ、ピアノの歴史を調べているとベートーヴェンの歩みを辿ることへと繋がっていく、そんな具合だった。

「面白く、刺激的で、奇抜に感じる音楽もここから来るのかぁ~・・・」

と・・・。

 

《4.再びベートーヴェンと「第九」を》

こんなことが徐々に積み重なって、一旦はベートーヴェンを遠ざけていたこんな私めもようやく社会人になった頃から、日本国民らしく、年の瀬の「第九」くらいは漏らさず聴くようになった。・・・真なるクラシック音楽ファンの人たちやベートーヴェン音楽をこの上なく愛好する皆さんたちから言わせれば、「遅すぎる!」と叱られそうだけれどね(汗)。

それで、テレビであるなら、「NHK交響楽団による第九コンサート」はこの頃から現在まで毎年(今年はこれからだけれど)、ここ十数年では指揮者の佐渡裕さんが主宰となって開催している「一万人の第九コンサート」もほぼ逃さないで、これらの番組を通してベートーヴェンの「第九」を視聴している。

FMラジオからは、これは事前にエアーチェックする時間があったときに限るのだけれど、色々な指揮者やオーケストラによる「第九」を、特に23歳~30歳の社会人駆け出しの頃にはカセット・テープにも収めながら聴いていた。これらの「第九」を収録したカセット・テープも一時期は10本くらい保管して持っていた。

 

ちなみに、もう多くの方がご存知の事かと思うけれど、・・・またその経緯も長くなるといけないのでここでは語らないでおくけれど、・・・『年の瀬にベートーヴェンの第九を聴く』といった行為が一種の年中行事のようにイベント化されて、それが国内全域にまで及んで認識されている国というのは、世界でもここ『日本だけ』のことだ。

 

さて、FMラジオから録音したカセット・テープではなくて、正々堂々と購入した盤についてご紹介させていただこう。

先ずは、中学生のときに購入したクラシック音楽全集の中のからヨーゼフ・クリップス指揮でロンドン交響楽団の演奏によるLPレコード盤、そして、小澤征爾指揮でサイトウ・キネン・オーケストラが2002年の9月に長野県松本で演奏したときのライヴ盤CD・・・、これらも好い感じなのだけれど、私が所有する盤の中で一番のお気に入りは、カール・ベーム指揮でウィーン・フィルハーモニー管弦楽団の演奏を1970年に録音したLPレコード盤のこれをあたらめて2001年に再版したCDだ。

 

1970年頃の当時に、このカール・ベームとウィーン・フィルハーモニー管弦楽団の演奏を収録したLPレコード盤を手に入れられたならもっと良かったのだろうけれど、私自身は小学生でもあり、演奏を聴き比べて自分でレコードを買うなどといったことが許されるような環境には居なかった(当時のLPレコード盤は高額だった)。また、この「第九」は、一枚のLPレコード盤に収めるには大変厄介な楽曲でもあったらしいのだ。・・・というのは、当時のLPレコード盤(80年代以降のLPレコード盤はこれとは違う)は、片面に22分~25分、長くても30分以内にA面とB面のそれぞれに収めるのが音としてはベストであったらしい。だけれど、「第九」は、第1楽章が約16~17分、第2楽章が約10分~13分、第3楽章が約15分~17分、第4楽章が約24分~26分(内、合唱部分が約19分~20分)と、2枚組にするにはロスが多くなってしまうし、どうにも良質な音として一枚に収めるには難しい楽曲の代表だったらしい。だから、少しだけ音の質を下げては第3楽章の途中までをA面に入れた盤、そうでなければ、さらに音の質を下げてでもA面に第1楽章から第3楽章を無理やり収めて、聴きどころとされる第4楽章だけをB面にといった盤が多かったようだ。

こうした当時のアナログ・レコード盤事情なども考えると、CDが効率的に高周波をカットした音であるにしても、総じて良質な音で第1楽章から第4楽章までを途切れることなく聴かせてくれることを可能にしたのだから、この場合は良しとすべきかと・・・。アナログ・レコード盤を愛する者の一人としては悔しい気持ちもあるけれどね(汗・笑)。

 

さて話を戻すけれど・・・、

この1970年代のカールベームとウィーン・フィルハーモニー管弦楽団が組んだ演奏については、このCDを買うそれよりずうっと以前のおそらく中学生・高校生の頃から他の楽曲も含めて幾つかから、それはテレビで視聴した古い映像からであったり、FMラジオを聴きながらカセット・テープに収めたものからであったり、あるいは知人・友人が所有する盤を聴かせてもらうこともあって、この組み合わせによる演奏が他には無い言わば群を抜いた好さ(良さ)を持ち合わせていることを、20歳代になる頃までにはそれは強く印象付けられていた。

それから大分時が経ったある日こと。それは自分なりにも「音楽を聴くこと」に対して、ある程度のことは積み重さねてきたという僅かに自負するものも自覚しつつあった40歳のときのことだった。偶然とは言え、幸運にもそれとの出会いが待っていた。

「こんなときにこそある出会いなのかなぁ~。」

と、それは救われるような思いさえした。

(*前回の「今日の一曲 No.104」では、「こんなときにこそある出会い・・・」が、どういったタイミングであったのかをご想像いただける事柄についても記載させていただいております。が、ここでは、あまり気に留める必要もないかと)

 

《5.ここ全てにベートーヴェンの「第九」が》

このとき手にしたCDの・・・カール・ベームとウィーン・フィルハーモニー管弦楽団によるベートーヴェン作曲「交響曲第9番ニ短調 作品125『合唱』」の演奏、これを収録したこの盤から聴こえてくる音たちは、かつて若き日の私に強く印象付けたそれをまったく裏切ることなく、むしろそれ以上の音と響きで届くのだった。

緻密さも自由さも、繊細さも大胆さも、安らかさも激しさも、軽快さも重厚さも、優し気な温かさも頑な力強さも、儚さも輝きも、これら音が成し得るあらゆる表現が、楽器が奏でる一つひとつの微細な振動によって湧き起こる音粒子の様まで魅せながら、最終的には絶妙なバランスとブレンドを以って組み立て上げられたその響きと共に異彩を放ってこちら側へと伝わってくる。こうして興奮しながらこれを文字や言葉で表現したところで、とても表し難い、真に音楽そのものを届けて、これを教えてくれているかのようだ。

ここには、ベートーヴェンが創り出した楽曲であることが大前提にあって、カール・ベームの指揮とウィーン・フィルハーモニー管弦楽団の奏者一人ひとりの技術と楽団が伝統的に備えもったアンサンブルの力、ここに合唱部分では、ギネス・ジョーンズ(ソプラノ)、タティアーナ・トロヤノス(アルト)、ジェス・トーマス(テノール)、カール・リッダーブッシュ(バス)、ウィーン国立歌劇場合唱団らの洗練された歌唱力もあって、これら演奏者の能力全てが見事なまでに相まってこそ起きているのだと、それを第一に感じる。

ただもう一つだけ加えて、この演奏の録音に関わったエンジニアたちの技術もまた、それは当時としては勿論のこと、ここにも突出した優れた技能の結集があったのではないだろうか・・・。

私個人は、ベートーヴェンの「第九」がもつ魅力ほぼその全てを収めてくれている盤だと思っている。

 

ベートーヴェンが約30年間に渡って構想を抱きつつその人生の終焉目前に作曲した「交響曲第9番 ニ短調 作品125『合唱』」、この曲には、当時のヨーロッパにおける権力者や民衆への深いメッセージが込められているという。

そのメッセージの全てを私自身は理解することも受け止め切ることも恐らく出来ていないだろうし、また出来ないのだと思うけれど、この「今日の一曲 」で語ったことのある・・・ジョン・レノンやバルトークの音楽にも、ブラームス、マーラー、ピーター&ポール&マリー、忌野清志郎、武満徹といった面々の音楽にも、他、これらに限らず、各々の表現方法で、またこれを表立って訴えることなどなくても、多くの音楽家やミュージシャンたちが創り上げてきた『愛と平和』を願う音楽のその原点はここにあって、それ故に、世界中の至る所でその時代ともに生み出された、あるいは今この瞬間にも生み出されている・・・様々な多くの音楽のその一つひとつから、少しずつでもその一瞬一瞬に何かを感じ取っていくことで、それは些か傲慢かも知れないけれど、

「ひょっとしたら、ベートーヴェンのそれにも近づくことができるのかなぁ~」

などと思ったりする。

 

さて、今年のこの年の瀬は、新たにどんなベートーヴェンの「第九」が聴けるだろうか。

 

そして、「生誕250周年」を迎える来年2020年(12月16日)では、この楽しみがさらに増えることになるかも知れない。そうであって欲しいものだ。

また、そんな自分でありたいものだ。

 

どうか、皆様も、よき年末・年始をお迎えください。