今日の一曲 No.99:八神純子「雨の日のひとりごと」(アルバム「思い出は美しすぎて」より)

「今日の一曲」シリーズの第99回です。

さて、ここ最近のこの3週間ほどの東京は、すっかり梅雨空の毎日で、それは蒸し暑く感じる日と肌寒く感じる日とが小刻みに繰り返されていて、きっと私如きオジさんに限らずともその体調の維持には特別な気遣いが必要であるくらいかと。そんなわけで些か憂鬱な気分にもなりがちですが、「こんな季節には!」と思って部屋のレコードラックから取り出してきた盤とここに収録された一曲を、今回はこの第99回としてこれをご紹介しながら、また諸々語らせていただこうと思います。

そう言えば、この盤との出会いは私が高校3年生のとき、ちょうど今頃の季節でした。ではそのあたりの話から・・・、もしかしたら、学校の勉強や進路に悩む中学生・高校生、またはその保護者の方にとって参考になるような事柄もあるかも知れません。

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《学校のお勉強と優秀なる友人たち》

このことは「今日の一曲」の中でも何度か語ってきていることだけれど、かつて、私なる者は、それは小学生のときからずうっと“学校のお勉強”が嫌いなまま、当然のことながら苦手なまま育ってしまい、高校受験時にはかなりの苦戦を強いられながら、でも、ホントどうにかこうにか高校へ入学したのだった。

小学生・中学生時代および高校1年生までを通して、学校の成績でまずまず良好であったのは「音楽」と「美術」、次いで「体育」と「技術・家庭」、辛うじて人並みだったのが「英語」といった具合だった。他の科目は、それは多くの皆のために底辺を支えているような状況にあった(汗・笑)。

 

高校2年生の夏を過ぎた頃、あることをきっかけに、それはたいへん有難い友人たちのお蔭でもって、学校の勉強を、そして大学受験に向けてこれに取り組み始めた。

そりゃぁ、勉強を始めたとは言え、ほとんど基礎知識もない人間の勉強はそう簡単ではない。

ところが、勉強の方法など学習面で支えてくれる友人、マインド(メンタル)面で支えてくれる友人、それぞれに優秀なる友人たちが、こんなどうしようもない私の周囲には居てくれるのだった。お蔭で、少しの挫折は何度も繰り返すものの大きく挫けてしまうことはなく、高校3年生の5月頃には、ある程度ではあったけれど、自分自身で勉強を進めることも出来るようになっていた。こうなると、“勉強する”というよりかは“学習に取り組む”といった感覚に近かったように思う。

それにしてもだ、いつも不思議に思うことの一つなのだけれど、こんな私であるのに、人との出会いだけは強運なのだよね(笑)。

この高校時代の友人たちにも感謝、感謝でしかなく、ただそれだけで他に言葉が見つからない。

 

《「学校のお勉強」習得術》

“学校のお勉強”を習得する最大のコツ、その根本は、先ずは自分の特性を自覚すること。そしてその自分の特性に適した方法で学習することだ。つまりは、“一人ひとり違う”ってことを前提としないとならない。

先ずは学校の先生の言った通りにやってみる。が、これは大概7割~8割方その通りにやっても上手くはいかない、または続けられない。でもこれは体験として必要。上手くいかなかったことの体験は後に経験となって役立つ。

次に、“少し”お勉強ができそうなヤツに(「ヤツ」=親しみを込めての表現で、よき友人のこと)、授業で分からなかった内容などについて教えてもらう。このついでに、このヤツが、どのような方法で勉強をしているのか、ノートをどう使用しているのか、これらを聞いてみること。そして暫くの数日間はこれを真似してみる。

そしてこのヤツには、しつこいなぁ~、と言われてしまうかも知れないほど色々と教えてもらう。そのうち、これを取り巻く連中も現れるので、この連中からも勉強方法も含めて様々教えてもらう。

が、いつまでもこのまま他人の真似をしていてはダメ。教わりながらも、自分では少しずつ何度も何度も改良を重ねていくこと。その時その時点での自分にとって、取り組みやすいスタイルを見つけていくことが肝心だ。

実は、“学校のお勉強”それ自体よりも、何度も改良を重ねたり、自分のスタイルを探っていく、こうした試行錯誤を通じて、自身で、あるいは友人らと一緒に、思考を繰り返していくことこそが“真の生きる力”に繋がっていく。って、これは、こんなオジさんにもなってから気付かされたことだけれど(汗)。

特にノートの使い方は重要な鍵になるかと思う。ちなみに、「耳から聴いた方が頭に入りやすいタイプ(聴覚言語型)」と「目で見た文字などからの方が頭に入りやすいタイプ(視覚言語型)」とでは、それぞれノートの使用の仕方は大きく異なってくる。

 

ってな具合に、こうしたことが順次進んでいくように、私は友人たちの力を多いに借りながら、徐々にではあるけれど、その自分の勉強方法、いや、学習方法を見い出していったのだった。

 

《高3、期末テスト直前の日曜日》

ところが、将来への具体的な進路はなかなか定まらなかった。

音楽が好きだから音楽大学を目指そうかという考えも一瞬だけなら想い浮かべてみたことはあるけれど、学科の他にも実技で色々な試験があることを知って、そのためのレッスンにも通わないとならないというので、それは、時間的にも、家庭の経済事情的にもあまりにハードルの高いことだと、これに関しては自覚するに容易く、簡単にあきらめる他なかった。

では他に何があるのか、と問うたところで、興味として湧いてくるものは何も無かった。いまに至って振り返れば、世間を知らな過ぎた、とそうも言えるかと思う。しかしながら、当時は、これに色々あれこれと想い悩んだことも事実だ。

それでも時代は「コンピュータ」だった。この先の時代の新しい何かに対応するには「コンピュータ」と、そこに関連した「考え方」を身につけておいた方がイイ、そんな漠然とした感覚だけはあった。

で、そう感じて、あろうことか、理数科系科目に重点を置いた受験に備えてその勉強をするようになっていった。

・・・ってね、この時点では、笑っちゃうほどに、手に届きそうな大学のそうした学部・学科などといったものは、何処にも全く存在しないのだった。

 

こんな高校3年生の夏休み前、1学期の期末テスト直前の頃だったように思う。でもその日は確実に日曜日だった。

学校が休みの日曜日などは自分の想うがまま自由に勉強も進めることができるので、その日もほぼ一日を、期末テストに備えて、また大学受験に向けて勉強するそれに当てるつもりで、実際、早朝からそう過ごしていた。ただし、これは毎週のことであったのだけれど、昼食と休憩時間を兼ねたこの時間だけはテレビの前に居た。

この頃、「ヤマハ」の主催で、「ポピュラーコンテスト(通称:ポプコン)」というのがこれには各地方大会から全国大会まであって、アマチュアとされるバンドや個人がそれぞれにオリジナルの楽曲を引き下げて演奏を競いあう企画が、大方10代~20代の年齢の音楽好きの間では注目を浴びていた。そしてここで優勝や入賞を果たした人たち、ここからプロとしてデビューをしたミュージシャンたちを紹介する「コッキーポップ」という音楽番組もあって、当時はこれが日曜日の正午過ぎに某民放テレビ局で放映されていた。

 

その日、この「コッキーポップ」という番組のテレビ画面の映像を追いつつ、が、ふと、想い出したのだった。

そろそろ発売されているんじゃないのかな?」

と、そうきっと心の内で呟きながらだったと思う。

想い出したことのそれとは、これよりだいぶ以前の放送で、数年前に16歳で「ポプコン」に入賞した後、プレ・デビューという形で活動していた女性シンガー・ソングライターがいよいよプロとして活動を始めてファーストアルバムを出す、というのを知ってこれを気にしていたことだ。

「昼飯を喰ったら、久々に行ってみようかな・・・」

「そう言えば・・・」

と、これもまた続けざまにそう心の内で呟いたかと思う。

確かにそうだった、この半年ほど前までは、例の物静かそうなオジさんが一人で営むレコード店へはたとえ買う目的の盤がなくても週に一度か二度は立ち寄っていたのに。それが気が付けば、受験生の振りをしてというのでもないはずだけれど、せいぜい1ヶ月に一度くらいのペースになっていた。

「でもここはそれどころではない。期末テストや受験勉強などよりもレコード店へと直ぐさま向かうべきである」

と、こんな価値観だけは変わらず健在だった。それで、この日の「コッキーポップ」が終わると直ぐに、そのレコード店へと向かった。

思った通り、目的の盤は発売がされて4~5日ほど経過していた。

 

ここで購入したこれが、「今日の一曲」の第99回として今回ご紹介する盤だ。

八神純子、ファーストアルバム「思い出は美しすぎて」。

もちろん、当時のLPレコード盤だ。

 

《 この一曲だけでノックアウト!》

自宅に戻って、早速、レコード盤に針を乗せて聴いてみる。

 

すずしい雨の音が好き

悲しいことも忘れて

ひとり雨の中に居たいの

きっと何もかも 忘れられる

きのうの悲しいお話も

・・・・

 

伸びやかさと、包み込むような柔らかさを感じる歌声に、まずは耳を奪われる。

更には、この歌声が音域の全てで澱みがないこと、それに魅了される。

フレーズによっては、時に甘くもあり、時に一寸だけ強くもあり、これが歌詞とともに届く。

アルバム作成当時の彼女は、19歳か20歳だけれど、いやぁ、とてもとても・・・

「これは凄すぎる!」

と、またしても心の内で叫びながら、が、そんな言葉でしか感想を言い表せない。

以前にテレビ画面を通して聴いたときも十分に惹かれはしたけれど、盤に収録されたその歌声は、テレビで聴いたそのときの何倍も上回って感じるのだった。

しかもだよ、A面の1曲目に収録された「雨の日のひとりごと」という曲は、彼女が16歳で「ポプコン」で入賞したときの楽曲だ!

おぉっと、いまこの瞬間も、少々興奮気味に語ってしまったけれど。

 

たとえば 雨は 私の恋人

こんな日には

ずっと そばに居て

やわらかな この白い雨は

空から何を運んでくるの

もしも 幸せ 運ぶのなら

私にも

ひとしずく わけてください

 

その「雨の日のひとりごと」は、ワンコーラスの間もその途中で転調がされるのだけれど、これが印象的に、一瞬、刹那さのある心情を魅せたかと思うと、再び、自然な流れのままに、ぱぁっと明るく広がりのある世界へと連れ出してくれて、何んと言っていいか、心の奥の方まで優しく、清々しい気持ちにさせてくれる曲でもあるのだ。

そこに、この歌詞と、この歌声だものなぁ~。当時、こっちはまだ高校3年生のアホずらしたガキだもの、そりゃぁもう、この曲に“ノックアウト!”だよね(笑)。

 

この日、期末テストに、大学受験に、これへ向けてのお勉強の方は、いったい、どうなったんでしょうねぇ~(汗)。

 

《「何となく」の感覚は大切》

ちなみに、アルバムタイトルにもなった「思い出は美しすぎて」はシングルカットされた曲で、この翌年の春頃にかけてじわじわとヒットチャートを上昇。私が通い始めたばかりの大学でも昼休みになるとキャンパス内に放送で毎日のように流れていた。

そう、私は、何んと、奇蹟的にも大学生になったのだった。

 

さて、第29回(2017/05/03記載)では、彼女の、セカンドアルバム「夢見る頃を過ぎても」から「I'm A Woman」をご紹介させていただいたわけだけれど、そのセカンドアルバムでは、華やかなサウンド・アレンジに伴って、彼女の歌声もまたパワフルな力強い面が強調されるようになる。

でも、このファーストアルバムでは、アルバム全体が、あくまでも愛らしく柔らかな印象で統一されている。

だからなのか、社会人になった以降も、そして、いいオジさんになった現在も、ほんの少しの間、ゆったりと心を解して自分自身を甘やかしてもイイかなぁ~といった気分のときに、併せて、気分を換えてここから先へと一歩踏み出したいようなときに、この盤は、部屋のレコードラックから取り出して聴くことが多い。

 

それは高校3年生の当時も似たようなことであったかも知れない。

これより以前までは、どちらかと言うと、学校や大人たちに対して斜に構えてみせていたところが多分にあった。けれど、高校3年生頃になると、勿論これに関しては何度も言うけれど、それは友人たちのお蔭で、その以前よりもずうっと自身を大切にして、周囲にいる人たちのことも考えるようになっていたと思う。そんな心持ちの変容は、小学生のときからそれまでの間の自分にはもっとも無駄と思えていた“学校のお勉強”さえも、自分自身の取り組み方に依ってはその意味が大きく違ってくることに気付かせてくれた。“あともう一歩だけ踏み出してみよう!”と考えるようになった。

 

しかし、そうにまでなっても、高校生だったその当時、そこから先の進路に関しては、正直、まるで自分自身ではどうして良いのか分からなかった。それで、「何となく」といった感覚だけを頼りにその選択をしたのだった。

ここから述べることは、“このことを現在から振り返って想い起こしてみると”ということになるのだけれど、それでも言わせていただくとすれば、「何となく」も、これはこれで意外と大切な感覚かも知れない、ということだ。

私は高校生のとき、その当時の社会なり、あるいは時代の流れから、“「コンピュータ」というものがこれからの時代を先取りして、だからこれに関わる「考え方」だけは身に付ける必要があるように思った”それは先に語らせていただいたようにその通り漠然とした感覚でしかなかった。自ら積極的に選択しようとするものの中から見つけたものではなかった。「何となく」の感覚だ。

考えてみれば、中学生や高校生の10代ほどの年齢で、加えて、社会や時代が急ぐように激しく動く中にあって、誰もが明確に“自分のやりたいこと”なんてそうそう見つけられるはずもないのだよね。このことは、依然、2019年現在の社会や世界においても同じに思う。

であるのなら、明確な目標と言えるものでなくても、また積極性もなくそれが消去法的で「何となく」であっても、自身が僅かながらでもイメージした方向へと歩み出してみる、このことは決して悪いことではないように思う。

 

現在、もしも、将来のことで悩んでいる高校生や中学生が居て、彼ら彼女たち、あるいはその保護者の方に向けて、先と併せて重ねて申し述べさせていただくのであれば・・・、今やグローバルな時代にあって、ここからの将来や未来を見通せる確かなものなどそうは無いのだ、ということから先ずは理解した方がいいかと。だからこそ、どんな状況にあっても、どうにでも適応できるだけの「知識」と「知恵」をもって、更には「教養」を身に付けるために、身の周りで可能そうな出来ることから「行動」を起こして、「実行力」と「思考力」と「創造力」を高めていく必要がある、とそう認識するのが好い(良い)かと思う。そして、こうしたことを身に付けていったり、高めていったりできる場へと辿り着けるように、自分がもっとも適していそうな方法や方向を探りながら、その選択は直感で構わないから、先に言った「何となく」でも構わないから、兎にも角にも、少しでもそこへと近づいて行けるように歩んでいくことが大切かと思う。実際に自分でそう思って選択して歩んだ結果であるなら、もしも、それはもしもだけれど、ここに少々の失敗や間違ったかもといった感覚があったにしてもそれは問題ではない、それは体験として必ず経験となって次に活きる、・・・とそう言ってあげたい。たいへん恐縮ながら。

要は、歩み始めてからの自分自身の取り組み方と姿勢が何よりも大切で、その行動と体験に依ってこそ、得られるものの意味が大きく違ってくる。だから、もしも万が一でも、本当に失敗と感じて大きな失望感を味わったのなら、一旦はその時にゆっくりと優しく自分自身を癒してあげたらいいし、謂えばこれも経験になる。きっと、次への一歩を、自ら、また自ずと、踏み出して歩みはじめたくなる。

 

些か、話がズレたか?・・・。

 

でも、・・・だよ。

それは、うっとおしくも想える梅雨空や降り続く雨をただ単にそのまま憂鬱に眺めるばかりではなくて、この曲、「雨の日のひとりごと」のように、

♪もしも幸せ 運ぶのなら 私にも ひとしずく わけてください♪

などといった具合に、しなやかに、優しい気持ちに置き換えられるくらい、自由で、豊かな心持ちで、ちょっとしたユーモアもここに常に持ち合わせて居られるような人であるなら、雨粒が跳ね上がる歩道も、起伏のある道のりも、それさえも楽しく、幾らかばかりかだけでも歩みやすくなるかも知れない、と。・・・どう?

 

「今日の一曲」、その第99回は、将来を漠然としか描けなかった高校生の頃も、いいオジさんになった現在も、あるいは、梅雨空の下にぽつんと一人で居るようなときも、ちょっぴりの苦みをほんのり柔らかく甘さに換えて、その時々にほっとした一時とその先を歩むヒントを届けてくれた、またこれを今も変わらず届けてくれている、そんな一曲として、八神純子のファーストアルバム「思い出は美しすぎて」より「雨の日のひとりごと」をご紹介させていただいた。

 

長文にお付き合いくださいましたこと、心より感謝申し上げます。

ありがとうございました。

 

《追記》

たいへん恐縮ながら、以下追記させていただきたく存じます。

今回は、それは僭越ながら、中高生とその保護者に向けて少々余計なことも語らせていただきましたが、“社会的な成功”を念頭におかれるのであれば、ここで述べさせていただいたことはそれとは違っているかも知れません。こうした事柄については、いま世間において多数の書籍等もありますので、むしろこれらをお薦めします。

が、いずれにしてもご参考程度に。

何よりも、ご自身で、あるいはあなたが信頼を寄せる方とともに、あれこれと試行錯誤されながらここに思考・探求を重ねていかれますことをお薦めします。

まぁ、私自身のことを棚に上げておいて何ですが・・・(汗)。

“あなたご自身にとっての好き(よき)人生選択を!”と、心より願っております。