今日の一曲 No.98:サイモン & ガーファンクル「明日に架ける橋(Bridge Over Troubled Water)」(アルバム「セントラルパーク コンサート」より)

「今日の一曲」シリーズの第98回です。

それは、現在40歳代後半から60歳代の方であるなら、彼らの奏でる音楽の何かしらを大抵は耳にしたことがあるかと。今回、第98回としてご紹介する盤とそこに収録された一曲は、そんな彼ら2人組ユニットのコンサートほぼそのままを収録したライヴ・アルバム、2枚組のLPレコード盤からになります。

この盤を手にした当時の私は、大学生生活もラストスパートといった頃であったのですが、その頃を想うと思い出すある出来事と、最近あった嬉しいある出来事とが、きっと私の内の何処かで交差し合ってなのでしょう、ふと、無性に聴きたくなってご紹介する一曲です。

では、一旦、大学生生活を送っていたその時代へと遡って、そこからまた、いつものように諸々含めて語らせていただこうと思います。

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《イントロダクション:奇蹟的にも!》

“学校のお勉強”が不得意中の不得意だった私も、高校2年生の夏を過ぎた頃からある出来事をきっかけに、これには多分に優秀なる友人たちのお蔭があってこそで、この不得意な“学校のお勉強”と、これに加えて無謀にも大学受験に取り組むと、恐らくぎりぎりセーフといったところであったかと思うけれど、奇蹟的にも大学受験のこれに合格して、志望していた大学の一つに入学することができた。が、当然の如くと言うべきなのだろうねぇ、入学後はその大学の勉強についていくのがやっとやっと。それでも、人との出会いの幸運さと強運さだけはあって、大学でもまたそこで知り合った友人たちや先輩たちに助けられながら、成績の方はともかく?(汗)、 一つの単位も落とすことなく大学生生活を続けていられるのだった。・・・といったこれらの話は、これまでの「今日の一曲」シリーズの中でも何度か書かせていただいてきたことだけれど、今回、ここで語らせていただくのはここから先のお話。

 

《T研究室と卒業研究と》

さて、大学3年生になって希望のゼミを履修するために「T研究室(仮称)」に入ると、これも幸運に思うのだけれど、研究室のカラーというものととても相性が好かったと言ったらいいのか、その「T研究室」の同期15人ほどで進めるディスカッションやディベートを交えた授業、研究室から紹介される企業での実習(「企業実習」:インターンシップ的な学外研修)などが面白く感じられて、学業成績としての評価も「A」(一番良いとされる評価)が並ぶようになった。これ、ちょっとした自慢、なんちゃって(笑)。

謂えば、“教授らの話を静かに聴きながら黒板に書かれた文字をノートに写し取っていく”といった“講義形式”のもので理解するのは苦手であったけれど、“実践的な内容のあれこれを議論や話合いを交えながら物事の様々を理解していく”こうした“ゼミ形式”や“体験型の実習”の方が性分として合っていたのだろうとも思う。

 

そんなわけで、無事にというか、結構充実感も得ながら、大学生生活も4年目の春を迎えようとしていた。

 

卒業要件を満たすには、あとは「卒業研究(卒業論文)」の単位を修得するだけだった。

でもこれが決して簡単ではなくて、これに取り組む学生は皆、自身が所属する研究室の研究と関連した事柄を「卒業研究テーマ」に据えて、12月の「中間発表会」では他の研究室の教授や助教授らを前にその研究成果をプレゼンテーション、更にはそこでの内容と評価、あるいはアドバイス等を踏まえた上で、翌年2月末までには「研究レポート」を提出しなければ単位修得には至らない、“卒業”とは、ならないのだった。

そして私が所属していた「T研究室」では、卒業研究テーマに関してだけ言えば、それは確かに、教授が提示してくれる6~7つのテーマの中から各学生が選べるようになっていたのでその題材探しに苦労はなかった。しかしながら、その代わりと言っては何だけど、提示されるテーマのこれらどれもが、学会や企業の開発部門においても最先端をいく研究として見なされるような事柄で、そのため、これについて何等か結果や結論を導いて単位修得へと漕ぎ着けるには、大小一つひとつの波を乗り越えていくにも決して気の許せない、他のどこの研究室の学生よりも、時間的にも内容的にも、とてもハードなものであったのだ。

だから、現在の大学生のような?などと言って決めつけてはたいへん失礼かも知れないけれど、早くから「就活(就職活動)」に多くの時間を費やしているようではむしろ大学を卒業すること自体が危うくなる、そんな仕組みであった。そのため「就活」に関しては、先に上げた、3年生のときの「企業実習」(夏休みと春休みの間のそれぞれ1ヶ月間)と、これと併せて個人でも就職先の候補となり得る所でアルバイトをするなど(企業実習先でそのままアルバイトをする者も少なくなかったけれど)、あらかじめ目安をつけておいて、4年生になってからの夏の2ヶ月くらいの間で集中的に動く学生がほとんどだった。あとは研究室に籠りっきりで「卒業研究」に時間を費やす、といった具合で、私が所属していた「T研究室」の4年生の姿とはこんなだった。またそれは毎年そうであったようだ。

それ故、他学科を含めても一番厳しい研究室であるとの噂も学内にはあったほどで、学生全般からは人気のない方の研究室だった(汗)。であるのにだ、敢えて「T研究室」を希望する学生というのは、それはある意味ではチャレンジャーであったと言える。と同時に、卒業までには最先端の確かな学術研究にも触れておきたい、取り組んでおきたい、とこうした思いを胸に秘めた者たちが集まっていたのだと、そんなふうにも言えるかと思う。まぁ、少々現実離れした一寸ばかり変わったヤツが多かったかもね~。

もっとも、私個人は、この研究室を率いるT教授の、自身のことも、自分の取り組みの一切についても何も余計なアピールなどしない、ただただ学術研究に取り組むこれが面白いのだと、それもまた口に出して言葉にするでもない、その人柄に惹かれて「T研究室」を希望した。「卒業研究」についてもハードであることを重々知った上で(笑)。

 

それで予測の内ではあったものの、大学生生活4年目の春は、桜の花をのんびりと愛でる間もなく、新年度を迎えた4月早々から慌ただしくこれに取り組んだ。

私が取り組むことにした題材は大手建設会社からの依頼も兼ねた研究テーマで、やや規模の大きな実験から始めなければならなかった。ただこの実験は、他の3人の研究テーマにも必要な実験であったことから4人での協同作業となった。

先ずは、実験の打ち合わせ、実験で使用する器具・器材等の準備に取り掛かるなどの他、本実験前までにはこれを小さな規模で仮実験しておかなければならず、これら全てにカラダもアタマもフル回転状態にして対応した。が、しかし、有難くも、人との出会いの幸運さと強運さはここにおいても健在で、4人の連携は初めから息がピッタリ。作業自体は確かに早くもハードであったけれども、面白く楽しい時間にして進めていくことができた。

(*尚、実験の様子や卒業研究を仕上げていく頃のことは、これまでの「今日の一曲」でも何度か書かせていただいているので、恐縮ながら、今回は省かせていただきます。)

 

《その復活コンサートに興奮気味》

さて、ここから更に時を遡ること半年と少し前。

夏の終わりのニューヨーク、セントラルパークでは50万人もの人がそのステージに熱狂した。

観衆の中にはマイク内蔵のカセットテープ・デッキを肩に担ぐ人の姿も多く、それはその頃の時代を象徴するかのような人々の様子で、こうした写真や映像が当時はこれらを伴って、テレビをはじめ音楽雑誌などでも直ちに、そして大々的に報じられもした。

1960年代に人気を博した2人組ユニットは1970年に一度解散、それから約11年振りとなる復活コンサートをそこで開いた、というのがこれだ。

「サイモンとガーファンクルかぁ~」

「なんか、とにかくスゴイなぁ~」

と、音楽雑誌の他にもFMラジオ番組を紹介している雑誌などに載ったその熱狂ぶりを伝える記事や写真に見入っては、当時は、単純にも簡単に引き込まれてしまっていた。

ん? きっと、多くの音楽ファンがそうであったとは思うけれど、これは私のこと(笑)。

で、いま、当時のことを冷静に振り返ると、その時点で私が持ち合わせていたものというと、ポール・サイモンとアート・ガーファンクルという二人の名前を知っていたこと、彼らの楽曲について言えば、「サウンド・オブ・サイレンス(The Sound Of Silence)」、「スカボロー・フェア(Scarborough Fair)」、「ボクサー(The Boxer)」の数曲を聴いたことがある、といった程度だった(汗)。特別なファンというわけではなかったし、それこそ、彼らについて何か詳しく知っているわけでもなかった。アハハハハ・・・。

ただ、その後の暫くの間も、というのは、この翌年の5月には世界ツアーの一環で彼らが来日するとの情報も重なってだったと記憶しているけれど、この話題に、自身も含めて、日本の音楽ファンや日本の音楽界全体もやや興奮気味で、ラジオからも「サイモンとガーファンクル」の曲が聴こえてくることが以来度々となった。そんなわけで、下宿先のアパートに居る限り大概はFMラジオを部屋に流しておくことが習慣になっていた私は、それは広く浅くといったところではあったけれど、その僅か半年ほどの間で他の曲も色々と知るようになった。

 

《内緒の山小屋、そこで聴いた一曲》

そんな“サイモンとガーファンクル熱”のそれも冷めきらない秋のこと。

これ以前より大学の友人を通じて度々訪れるようになっていた霧ケ峰(長野県)近くの山小屋に、ただこのときばかりは、独りで一週間ほど連泊した。

いつもなら、夏休みや冬休みに、あるいは5月の連休中に、大学の友人ら5〜6人と3泊ほどして過ごすのだけれど、このときは初めから“独りで”と決めていた。なぜなら、大学の授業も、この1ヵ月半ほど後に迫っていた学園祭前夜祭の準備担当として任されていた仕事も放り出して来てしまったわけで、それは自分なりに密かに思うことがあったからで、だからこそ、誰に対しても後ろめたく、平等に内緒にしておかなければならなかった。

大学の友人や先輩らには「実家で急なことがあって」などとバレバレの嘘をついて、ここへと来たのだった。

でも、後にも先にもこんなことをしたのはこの時だけだと想う。

詳細な理由については、今回は語らないでおこうと思う、また知ろうとはしないでいただきたく思う。そりゃぁ、いまでこそ私だって多々図々しくもあるオジさんではいるけれど、若い頃はそれなりに思い悩んだリ迷ってみたりすることも色々あったのだよ。だからここは、すみませ~ん、ご理解を。

 

ところで、この山小屋、長期のアルバイトさんは武蔵野美術大学出身の若手アーティストさんが担うというのが慣例であったようで、と言ってもこのときに居らした方で二代目ではあったけれど(笑)、が、そんな雰囲気から、もちろん夫婦であったり家族連れであったりのお客さんも少なくないのだけれど、普段から多少ユニークな暮らしをされている方、文学や芸術、または工芸を生業とされている方なども時折ここには現れるのだった。それで、こうした人たちとも稀に偶然にも出会い会話を交わす愉しみもあって、一種特別な場所であるとの認識で、若い時分の私はここを訪れることを大切にしていた。

そして、その独りで訪れたときは、時期的に丁度、アルバイトさんの方でも平日の昼間は結構自由な時間があったみたいで、これをいいことに、私は、連日に渡って日中の間は、そのアルバイトの武蔵野美大出身のアーティストさんでもあるYさん(仮称)と、音楽談義や芸術談義、時には人生談義をして過ごした。またこうしている間をとても贅沢で貴重な時間に感じて過ごしてもいた。

 

ちなみに、このときも、他にお客さんは数組居たように想うけれど、日中の間は皆、大抵は霧ケ峰周辺に散策等に出掛けて、山小屋に残る人は居ないのだった。

 

そして音楽談義の方は、それはどうしてもタイミング的に、サイモンとガーファンクルのことについても話題となった。

すると、Yさん、

「この曲なら、なんとかピアノで弾けるんだよね」

と、山小屋に置いてあったアップライトピアノで、そのある一曲を弾いて聴かせてくれるのだった。

併せて、とても恥ずかしそうに、それは口ずさむようにではあったけれど、歌ってもくれた。

 

When you're weary,feeling small,

When tears are in your eyes, I will dry them all,

I'm on your side.

When times get rough

And friends just can't be found,

Like a bridge over troubled water

I will lay me down.

Like a bridge over troubled water

I will lay me down.

・・・・

 

Yさんの演奏姿は何と言っていいか、自己流で身に付けたらしく、鍵盤に触れるその手元や指先の動作が幾分かぎこちなく不自然な動きをしていて、けれど、聴こえてくるそのピアノの音は一つの曲として確りと成立していた。

私はその些か妙で不思議な動作の演奏者を目にしながらも、そこから奏でられる音の心地よさを味わってこれを聴いた。

日本語の表題では、「明日に架ける橋」。

これまでにも何度か聴いたことのある曲だった。

宿泊している間には、Yさんのピアノに合わせて一緒に歌ったりもした。

 

《レコード店へと向かう他ない!?》

さてさて、大学生生活4年目のその春へと、再び時を戻そう。

この時期、「卒業研究」の実験準備に加えては、6月の「教育実習」、夏には「教員採用試験」など、これらにも備えなければならなかった。巷では、サイモンとガーファンクルが5月には大阪と東京で行うコンサートのために来日するというので再びその話題が盛り返しつつあったけれど、どうやらここに構っていられる余裕などない、とそれを自覚するのは容易くもあった。

ただ、そうした自覚を自身に言い聞かせる度に、既に記憶の一つとなっていた、あの幾分かぎこちなく不自然な動作でピアノを弾くYさんの姿とそのたった一曲が、何故か、我が脳裡では繰り返されるのだった。

それで、“せめてもの慰めに”とまぁ、それは単なる言い訳かも知れないけれど、でも今後に備えるべき様々を考えていては、“この事は直ぐにでも済ませておく必要がある”と思った。

となれば、もう、レコード店へと向かう他なかった(笑)。

 

大学生時代に立ち寄っていたレコード店と言えば、例の船橋市と習志野市の境あたりにあったレコード店のことになるのだけれど、こうしてそこで手にした盤が、今回、「今日の一曲」シリーズの第98回として、その98枚目にご紹介する盤だ。

「サイモンとガーファンクル(Simon & Garfunkel)」が1981年9月19日に復活コンサートとして開いた「セントラルパーク コンサート(THE CONCERT IN CENTRAL PARK)」、そのライヴ・アルバムで、2枚組のLPレコード盤だ。1982年の春先には日本でも発売されていたと思う。

この2枚組LPレコード盤、アンコールの2曲は除かれているものの、本ステージで演奏された19曲とともにライヴ中のトークも含んで、ライヴのほぼすべてが収録されている。

買ってきた盤を、早速、実際にレコードプレーヤーに置いて針を乗せてこれを聴くと、観客の声や拍手までもが曲中にも及んで入り込んでいて、彼ら二人の歌声や演奏に聴き惚れながら、それはどうかすると、その熱っぽく興奮した会場に居るようなライヴ感も一緒に体感できるのだった。

いや、あの~、ニューヨーク・セントラルパークに実際に行ったことがあるわけではないので、その大部分が想像や妄想の類からの感覚であることは、それは拭えないのだけれどね。エヘ。

 

《友人との再会も合わさって》

が へこたれて 憂鬱なときは

君の瞳に涙がいっぱいのときは

君の涙を乾かしてあげよう

君の味方だもの 

辛いときがきて

頼る友達もいないときは

明日に架ける橋のように

僕が身を投げかけてあげよう

明日に架ける橋のように

僕が身を投げかけてあげよう

・・・

(訳:小林宏明より)

 

いま現在に時を戻そう。

この盤に針を乗せたのは、これまでにせいぜい3~4回で、いま、37年振りに針を乗せて聴いている。

そして、あらためて19曲を順に聴きいている中では、あの山小屋での光景と当時の心具合が想い出されてなのだろうか、やはり、「明日に架ける橋(Bridge Over Troubled Water)」が聴こえてくると、ほんの少しの間、あのYさんのぎこちなくピアノを弾く姿と山小屋でそれを聴いたときの心地好さが、いままた、でも一緒にここにあるかのように感じられる。それはあるいは、つい最近になって、これには僅かな間に偶然的な繋がりが次々と重なってであったようなのだけれど、長く音信不通のままであった友人から突然にも連絡があって20数年振りに再会することができた、そんな嬉しい出来事があったからなのかも知れない。この曲の歌詞のままを、その大切な友人のもとへ贈り届けたいような思いも合わさって。

・・・・

「でも、待てよ」

と、心の内の一方では、やや俯瞰的でいる自分がそう呟いたりもする。

こんなことを感じたり、そんな思いが湧いたりするのは、復活コンサートの、再開なり再会の“喜び”と、空白の間に出来上がった“ぎこちなさ”の、その両方が入り混じった空気感も漂う中、それでも、“懐かしさ”と“いま在る現実”とを一瞬のうちに繋ぎ合わせては多くの人を熱狂の渦に巻き込んでしまった彼ら二人の演奏がこのライヴ盤から聴こえてくるからなのかも知れない、と。

ここはもう少し冷静になって受け止めてもみよう、あの頃よりは大人になったはずだし、と。

 

少しばかり興奮気味のこれを抑えて、自分の心の内のその感情を鎮めながら、またこの曲の続きを聴く。

 

なぁ~んってね、ちょっとキザだったか?

ぅん~、気取ってみたかったのだよ~。

 

まぁ、それにしても、「明日に架ける橋(Bridge Over Troubled Water)」これを聴いていては優しい気持ちになれて、素直に心地好い。

 

今回は、サイモンとガーファンクル(Simon & Garfunkel)のライヴ・アルバム「セントラルパーク  コンサート(THE CONCERT IN CENTRAL PARK)」、その2枚組LPレコード盤から、「明日に架ける橋(Bridge Over Troubled Water)」を第98回の「今日の一曲」としてご紹介しながら、諸々語らせていただいた。