今日の一曲 No.91:バッハ作曲「無伴奏ヴァイオリンのためのパルティータ第2番 ニ短調 BWV1004」(ヒラリー・ハーン(Hilary Hahn))

「今日の一曲」シリーズの第91回です。

さて、昨年の夏から今年1月に掛けて取り組んでいた資料作りについては、第89回でも触れさせていただきましたが、今回、91枚目にご紹介する盤に収録された音楽も、資料作りの主に執筆作業を黙々と続けていくなかでは、とても相性のイイものでした。

ここからはバッハの作品が天才ヴァイオリニストによって奏でられるそれが聴こえてきて、私はその作業の間中、この聴こえてきた音たちに随分と助けてもらっていた気がします。

そんなわけで、今回は、その天才ヴァイオリニストが奏でるバッハに触れながら、諸々語らせていただこうと思います。

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《資料作りに没頭?》

昨年の8月から今年1月に掛けての私めは、週末のミニライヴと、10月に開催した「ほっと楽しやハートライヴ」という自身の企画ライヴの他には、ろくにライヴもやらず、曲創りもせず、多くの時間を“資料作り”に当てて、これに励んでいたのだった。

その“資料作り”とは、「子どもたちの自立力育成を探求して」と題したエッセー的な要素のある資料・・・これの作成のことで、その内容は、「日本の教育(公教育)」についてのことが殆んどだ。

 

ここまで読んで、えっ? と思われた方は、同ホームページ「子どもたちを育む『自立と自律』」のページの冒頭部分だけでも覗いていただくと、ここに至った詳しい経緯が分かる。

 

まぁ、けれど、端折って少々語らせていだくと・・・。

 

教育や子育てについては、7年程前から自分なりに探求していることがあって、この7年程の間では、教育学、心理学、哲学、社会学、経済学などの各分野での研究成果や科学的理論についても新しく色々と知った。それで1年程前からだろうか、これら学術的な探求と自身が社会生活を通じて経験してきたこれとを合わせて、ここいらで一度、何等か形にしておきたいなぁ、と思っていた。

そんな折、ふと、音楽活動とも絡めた或る企画を想い付いた。それが昨年6月に開催した「教育を語りあおうよ音楽Cafe-Barで(Vol.1)」という企画だ。そして、この企画用の資料として作成したのが「子どもたちの自立力育成を探求して・第1編」だった。

すると、6月のそれを開催した後、幾つか問い合わせがあった。大方は、企画の内容について、と、資料があれば欲しい、といったものだった。

内容については、早速、同ホームページに「子どもたちを育む『自立と自律』」というページを設けたり、6月のその企画を開催したときの様子を「ブログ」に載せたりして、対応した。

ところが、その資料の方だった。

6月に作成した「・・・第1編」は、その企画の枠内で、私が口頭で説明するそれを補足する程度のもので、謂わば、要点だけを並べたダイジェスト版だったのだ。

「いやぁ、この資料だけでは、きっと、何も分からないよなぁ」

「どうしようかな・・・」

などと、独りでぼやいているうちに、

「やっぱり、一つの読み物として成り立つ、そういった資料を作るしかないね」

といった覚悟をするに至ったというわけで(汗)。

そんなことでもって、先ずは、「第1編」のこれをより詳しく説明した「第1編(詳細編)」と、その続編の「第2編」を作成することにした。

ちなみに、私めの頭の中では、今後(来年かな?)更に「第3編」を作成した上で、完結させようと思っている。

 

まぁ、でもね、教育など、こうした事柄というものは、そもそもがそうそう正解などあろうはずがないもので。自分で経験、あるいは探求してきたことだからと言って、そのすべてをきちんと整理して書き綴っていく、それには、当然のことながら幾つものハードルを越えていく必要がある。

何よりも、読んでくださる方々に向けて“分かりやすく伝える”こと、それは必須だ。私が普段、曲を創り、ライヴでそれを演奏する、そういったものとは、特に表現上においては、“共有するその仕方”が違う。内容は独創的であっても、文字・文章を用いてこれらを伝えていくにあたっては、極力、独自の表現方法などそうしたものは省かなくてはならない。明確に、誰もが共有できる語を配置して述べていかなくてはならない。そういったある種のシンプルさが求められる。それは、いまここで書いているブログなどよりも更にだ。

 

実際、作業に取り掛かると、当初に私が覚悟してたそんなものはもう問題外で、“覚悟してた”これを遥かに超えることばかりだった。書き進めては、その度に、そのうちの半分くらいを消してからまた書き直す、といった次第で。アハハ。

作業が割と順調に進むようになったのは、始めてから2ヵ月も経過してだった。

結局、原稿が出来上がったのは昨年の12月上旬で。予定していたよりも1ヶ月ほど長く掛かってしまった。

原稿が出来上がってからは、年が明けた1月も含めて更に約1ヶ月半、資料配布のために、印刷をして冊子にして綴じたり、また、データファイルにしてCD-Rに焼いたり、とそうした作業に時間を割いた。

 (*今回、作成した資料は、2018年12月5日より配布を開始していますが、先ずは、私と日頃よりお付き合いのある方がほとんどで、広くは、2019年5月31日の「教育を語りあおうよ音楽Cafe-Barで(Vol.2)」から配布していくことになると思います。また、これ以降の各ライヴを通じて配布する予定でいます。)

 

《黙々と続ける作業と相性がイイ音楽》

そんなことで、昨年の夏から約4ヵ月間余りに渡っては、私は、独り、机上に置かれたPCと、雑多に積み上げられた書籍やノートの山を目の前に、黙々と地味ぃ~な作業を続けていた。

作業を始めて2ヵ月ほどすると、苦戦していた作業も比較的順調に進むようになった。これには、自分自身が作業自体に慣れてきたのもあるけれど、もう一つには、やはり、音楽のお蔭かと。作業中も、その部屋には音楽を流した。

そして、こんなときに聴く音楽は、特に執筆作業のその最中においては、やはり、第89回(2019/03/26公開)で紹介した武満徹のギター曲や、バッハの、中でも第15回(2016/12/29公開)で紹介した無伴奏チェロ組曲など、こうしたものが何故かとても相性がイイのだった。

色々なものが混じり合って出来ている音、多重感のある音はどうも相性が悪い。

至ってシンプルな音の方がイイ。一つの楽器を独りが奏でる、そんなのがイイ。

それは、一気にぎゅうっと集中するといった感じではなく、静かに穏やかな心持ちのまま自然と集中していく、そうした感覚のものだ。

 

ところで、作業中ではなく、作業の合間に休憩を摂って聴くなら、ストラヴィンスキーやバルトークなど、複雑で難解な感じのする、こうした現代音楽作品の方がイイ。

 

“作業効率(学習効率)と音楽の関係性”または“睡眠と音楽の関係性”などについては、近年、科学的にも様々解明がされているようだ。これらに関して論じたものも幾つか本で読んだことがある。曲のテンポ、旋律の起伏、編曲による音の厚みや楽器編成、あるいは、ト長調やハ短調といった調が何であるかなど、脳科学や心理学などが音響学などとも合わさって研究が進められている。これらの研究成果を辿っていくと、そこには尽きない面白みもあって、同時に、音楽に携わる者としてこれを捉えるにしても、教育を探求する者としてこれを捉えるにしても、たいへん参考になる。

が、私がこれら研究成果を可能な範囲内で実際に試してみたところでは、また、これはあくまでも私的な見解になるけれど、個々人が音楽と普段からどう関わっているか、あるいは、これまでどう音楽と関わってきたかで、個々人が置かれた状況によって様々な違いが生ずるのが実際で、これら研究成果のうち“どれかだけを完全”などと思って真に受けない方がいい。ある程度の傾向を示しただけものだ、とそのくらいに捉えておく方が好いように思う。

その作業の場にどんな音楽を流すのが適当なのか、いやいや、この場に音楽は流さない方がいい、などといったことは、その時々の個々人の感覚を大切にした方がいい。まして、複数の人間が居る場や多くの人間が集団で居る場合には、最大公約数的なところこそ探ることは可能であるにしても、皆に好い、とは決してならないかと。

 

だから、武満徹のギター曲も、バッハの無伴奏チェロ組曲も、ここで申し上げているのはあくまでも私個人の感覚であって、今回の資料作りのその間では、これらの音楽が私の作業を効率的にして助けてくれたよぉ~、相性のイイ音楽だったよぉ~、というだけのことであって、これが誰にでも、また、いつでも当てはまる、とは言えない。

まぁ、でも、こうした研究成果を目安に、それぞれが色々と試してみるのは有りだと思う。ハイ。

 

《買いそびれてしまった盤》

さて、その資料作りも、主に執筆作業をしていた4ヵ月余りのその間では、これまでにご紹介してきた・・・武満徹のギター曲、バッハの無伴奏チェロ組曲、これらの他に、もう一つ、相性のイイ音楽があった。

 

今回、「今日の一曲」シリーズの第91回として、91枚目にご紹介する盤は、その“もう一つ”だ。

この盤には、バッハの無伴奏ヴァイオリンのための曲が、3作品収録されている。

ヴァイオリン奏者、ヒラリー・ハーン(Hilary Hahn)が、1997年に17歳でデビューしたときのアルバムだ。

ただし、私が持っている盤は、2016年に再版されたリマスター盤の方のCDだけどね。トホホ。

なぜ“トホホ”かは、後ほど。

 

ところで、ヒラリー・ハーンについての詳細なる紹介は、ここでは必要ないかと。なので、極々簡単にだけご紹介させていただくことに・・・。

ヒラリー・ハーンは、アメリカ合衆国バージニア州レキシントンの生まれで、ボルティモア出身のヴァイオリニスト。10歳の頃には一流のオーケストラや指揮者を相手に共演。当時から“天才少女”との呼び声も高く、その存在は日本のクラシック音楽ファン間でも広く知られていたかと思う。特に2000年以降は、世界各地で積極的にリサイタルを開催、併せて、レコーディングにも数多く挑んでいる。そして、いまや、“数十年に一人の…”、あるいは“百年に一人の・・・”と称されるまでのヴァイオリニストだ。その逸材ぶりは、いまだけでなく、この先も、まだまだクラシック音楽ファンを様々に楽しませてくれることだろう。

 

私が、ヒラリー・ハーンというヴァイオリニストの存在を最初に認識したのは、彼女が初来日した2001年の、その数年前だったと記憶している。恐らく、1999年頃かと。

すると、他の記憶とも辻褄が合うのだけれど。

その頃というのは、私が新たな職場へと身を置き始めた頃で。ところが、職場が変わろうとも“仕事人間”であり続ける、これだけは相変わらずだった。しかもだよ、その新しい職場でも、私が手掛ける仕事は周囲から高く評価された。そんなだから、ますます自信満々に毎日を送っていたのだった。

自惚れも大概にしないとね。ホント愚かだねぇ、馬鹿者だねぇ。

いま現在に至って振り返ると、この頃の自分が一番嫌い、かな・・・。

 

で、その当時、何処でだったか、ふと立ち寄ったCDショップでだった。ある一枚のCDに目が行った。ジャケットを眺めながら、若くはあるけれど凄いヴァイオリニストが出てきたんだなぁ~、といった印象をもった。が、このとき手に取ったそのCDは、ラックの元の位置に戻すだけにしてしまったのだった。ただ、どうやら、「ヒラリー・ハーン」という名前だけは記憶に留めていたらしい。

それから1~2年が経過して、2001年のこと。

たまたま聴いていたラジオから、ヒラリー・ハーン初来日のリサイタルの様子が伝えられている、それを耳にした。日本の多くのクラシック音楽ファンを魅了したその様子が伝えられていた。これを聴いた私は、その若きヴァイオリニストの才能と人気の凄さを再認識するのだったけれど、またしてもそこまで。CDを買いに行こうかなぁ、などといったところには至らないのだった。

 

が、こんなだったのは、ヒラリー・ハーンのことに限ってではなかった。

 

ぅん~、そうなのだよ。当時の私は、“重症な仕事人間”になってしまっていたのだ。そう、ただの“仕事人間”ではない、“重症”だったのだ。

部屋で音楽を聴く、といったそうしたこともめっきり少なくなっていた。新しく発売されたCDなどへの好奇心も、それを買いたいと求めたりする意欲もすっかり薄れてしまっていたのだ。いや、むしろ、“我を振り返る”そんな必要がどこにあるのか? とそんな傲慢な考えでいたかも知れない。

きっと、だけれど、自身の本来の生き方(本当に自分がしたいと思っていること、あるいは自分がするはずだった行動)も、その生きていくペースも見失っていたのではないかと想う。

このとき既に、身体も心もその奥深くでは、悲鳴をあげていたはずなのに・・・。

でも気付かないのだよねぇ。気付こうともしないから。

そして、1年後には病気を発症、3年後に何もできなくなってしまう。

(*病気を抱えていた頃のことは、恐縮ながら、今回は省かせていただきます。)

 

で、当時においての私は、ヒラリー・ハーンのデビューアルバム、これも、とうとう買いそびれてしまうのだった。

先の“トホホ”の理由はこれ。

 

その後、10数年もの時を経て、何とはなしに立ち寄ったCDショップで見つけたのが、今回、ここでご紹介している盤というわけだ。

もちろん、今度はその場で即購入した(笑)。

 

《痛みを伴った心地好さ》

さて、ご紹介の盤については、もう少しだけご説明申し上げよう。

1997年、ヒラリー・ハーンのデビューアルバムとして制作されたこの盤には、無伴奏ヴァイオリンための作品として、バッハの、「パルティータ第3番 ホ長調 BWV1006」、「パルティータ第2番 ニ短調 BWV1004」、「ソナタ第3番 ハ長調 BWV1005」の3作品が収録されている。

ヒラリー・ハーンが17歳のときの演奏で、ヒラリー・ハーン自身にとっては、恩師ヤッシャ・ブロツキーを亡したばかりというなかでの録音であったらしい。

私が所有している盤はそのリマスター盤で、2016年に再版された高音質CD(Blu-spec CD2)だ。

その収録された3つの作品からは、“若き天才”ヒラリー・ハーンの、そのエネルギーに満ち溢れたヴァイオリンの音色と響きが一瞬の乱れもなく届いて、精確な演奏技術を以って奏でられている、これを感じることができる。

 

が、「パルティータ 第2番 ニ短調 BWV1004」からは更に加えた何かを感じる。

それは、あまりにも有名な第5楽章「シャコンヌ」冒頭の、そのフレーズのせいであるかも知れないのだけれど。

この「パルティータ 第2番 ニ短調 BWV1004」からは、謂えば、ヒラリー・ハーンの恩師ブロツキーへ捧げるその想いが他の作品よりも余計に溢れ出ている感じがするのだ。それはまた、ヒラリー・ハーンの演奏が精確で揺るぎないテクニックのただそれだけに偏ったものでは決してない、人間らしい心の在りようも豊かに表現して魅せてくれる、その証しであるようにも感じられて。

そしてこれが私には、痛みを伴ってこの身に突き刺さる感じさえあるのだけれど、何故かとても心地好いのだ。

ん? 別に“ M”ってわけじゃないぞ。だからと言って、“S”でもないと思うけど(笑)。

おっと、妙な方向へ進みそうだ(汗)。

話を戻そう。

その“痛みを伴いながらも心地好い”とは?

ヒラリー・ハーンが、恩師を亡くしたその哀しみを素直に打ち明けてくれているかのようで・・・。ちゃんとその哀しみや痛みとも向き合っているように感じられて・・・。が、それでいて、確りと前を向いて歩んで行くから、とそれを恩師に伝えているようでもあって・・・。更には、彼女のこうした恩師への願いや祈りがバッハの音楽と丁度よく絡み合っているようにも想えて・・・、とこんな具合にあれこれと想像を巡らしているうちに、これがとても心地好く感じてくるのだ。

もっとも、バッハのこの作品は、豊かな感情表現など求めてはいない。作品これ自体は、あくまでも、演奏する者に高度で精確な演奏技術を求めているわけで、ヒラリー・ハーンが奏でるヴァイオリンがこれに十分に応えているからこそ、私もこんな勝手な“想像”や“感じ方”ができるのだ。

でも、何だろうなぁ、この身の奥につっかえている厄介な何かを、痛みを伴ったそれが、やがてそれと一緒にすうっと抜け出ていって、厄介なそれも取り除いてくれるかのようで、心地好いのだ。

 

《大切にしたい、を感じる》

“痛みを伴いながらも心地好い”この心地好さも、もしかしたら、10数年前にこれを買いそびれてしまった、そのお蔭かも知れない。

当時の私では、この盤を手にしてこれを聴いたとしても、こうした心地好さを感じ得ることはできなかっただろう。資料作りの間、たとえこれを聴いていても、ヒラリー・ハーンが奏でるバッハの心地好さがこの執筆作業を助けてくれている、などとは感じたりしなかっただろう。

調子のいいことを言うようだけれど、この10数年の間にこの身に色々なことがあったから感じられている、そんな気がするのだ。“結果 all right”ってことなのかも、ってね。

 

この無伴奏ヴァイオリンのための作品のように、一つの楽器を独りで演奏するそのシンプルさには、これを演奏する側の者がもち合わせている、そのあれもこれもが露わになり易い、そんな側面があるように想う。

大げさに謂えば、演奏する側には、限りなく正確かつ精密な演奏技術が要求される。が、それだけではない。人間的な心の在りようによって生まれる演奏表現もまた欠かせない。というよりも、それはどうしたって演奏に表れてしまうかと。またシンプルな手段・手法で奏でようとすれば、それがシンプルであるほど、その分更に余計にそうであるかと。

そうしたことで言えば、私も、人様を前に音楽を奏でる側に立つ、それは度々あるわけで。私の場合もヴォーカルとギターを独りで奏でるだけの、音を届けるその手段・手法としては至ってシンプルなものだ。

資料作りについて、先に、表現をする上で音楽とは“共有するその仕方が違う”とは言ったけれど、“分かりやすく伝える”といったシンプルさが求められるその部分では、文字や語句を順序よく一つひとつ綴って述べていくのと、音を奏でるその一瞬一瞬を繋げていくそれとは似ていて、そういった意味では、我が“心の在りよう”というものはどちらにも同じに大切に思う。

 

“重症な仕事人間”だった私が、それから様々に経験を経たからと言って、いま現在の私が、どれほど物事が分かっているのかと問われれば、何も確かなものはない。本当に自分の生き方が分かっているのかと問われれば、それにも明確な答えをもっているわけではない。そもそもこれらを問い続けたところで、何処まで行っても何もないのかも知れないし。

それでも、“重症な仕事人間”だった頃の私と、いま、ヒラリー・ハーンが奏でるバッハの「パルティータ 第2番 ニ短調 BWV1004」を聴いている私と“どう違うのか”と問われれば、それは少しだけなら分かる。

“重症な仕事人間”だった頃の私には、目の前に見えるそれが効率的に機能すること、それが一番に大切だった。が、いま、ヒラリー・ハーンが奏でるバッハの「パルティータ 第2番 ニ短調 BWV1004」を聴いている私は、目に見えるものばかりでなく、目に見えないものを想像すること、ここに無いそれを想い描いて感じること、それも併せて大切にしたいと感じている。そう、“感じて・・・”、いる。

 

資料作りの、その執筆作業の間、ヒラリー・ハーンが奏でるバッハの心地好さがその執筆作業を助けてくれた、それは、実際にそうであったと思う。が、もしかすると、それだけではなかったのかも知れない。私に、10数年前のその頃の自分を省みるように仕向けて、またそれを痛みに感じさせては、いま一度、何を大切にしたいと感じているのかを諭す、そうした役割まで担っていたのかも知れない。

何も急ぐ必要はない、焦らず、大切に感じていることを丁寧に形にしていくのだ、と。

特に、「パルティータ第2番 ニ短調 BWV1004」という作品からは、こうしたものが他よりも増幅されて我が身に届いていた、のかも。

・・・なんてね。

 

資料作りを一旦終えたいま、またあらためて、ゆっくりと心鎮めてこれを聴こうと思う。

過去も、現在も、未来も、形になって見えているものも、目には見えていない想像するだけのものも、どれも大切に・・・感じて・・・、この盤のヒラリー・ハーンが奏でるバッハの無伴奏ヴァイオリンのための作品を、「パルティータ第2番 ニ短調 BWV1004」を、聴いてみようと思う。

 

「今日の一曲」の第91回、今回は、バッハ作曲、無伴奏ヴァイオリンための作品を、ヴァイオリニスト、ヒラリー・ハーンのデビュー当時の演奏を収録した盤から、特に、「パルティータ第2番 ニ短調 BWV1004」を取り上げて、諸々語らせていただいた。

 

今回もまた、読者の皆様には長文をお読みいただき、心より感謝申し上げます。

ありがとうございました。

 

*よろしければ、同ホームページ「子どもたちを育む『自立と自律』」のページも覗いていただけたらと存じます。