今日の一曲 No.78:スーザ作曲「海を越えた握手」(BMC,フェアリー&フォーデン金管バンド)

「今日の一曲」シリーズの第78回です。

今回、第78回として、その78枚目にご紹介する盤とここに収録された一曲は、私めがまだ高校生だった頃に出遭った2枚組LPレコード盤の「行進曲(マーチ)集」からになります。

その盤のここに収められた行進曲(マーチ)は、オペラや劇中用のものではなくて、純然たる行進曲(マーチ)として創られた作品ばかりで。また、これを手にしたのには、高校生のときの私がふと感じた、ある思いがあってのことでして・・・。

そんな次第で、今回は、「行進曲(マーチ)」と呼ばれるこれに類する一曲をご紹介しながら、私が高校生だった頃のこのあたりのことも含めて、諸々語らせていただこうと思います。

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《高2生に起きた変革?1》

~“音楽を聴く”ことへの変化~

高校2年生の夏を過ぎた頃のことだ。私の内側とでも謂うのか、そのあたりでは、それまでに蓄えられてきていたであろうあらゆるものが様々に変革を起こし始めていた。詳しいことはここでは省くけれど、ある出来事がきっかけだったと、そう自覚している。早い話、どうしようもなかった馬鹿者が少しまともになり始めた、ってところだったんだな。

 

それで、この当時に起きていた変革は、幼少の頃から常に続けていた“音楽を聴く”ということに関しても、色々に変化をもたらしたようで・・・。例えば、些か唐突に、こんなことを思っていた記憶があるのだよ。・・・「行進曲(マーチ)」ねぇ~。これはこれで音楽だよなぁ~。えっ、でも、「行進曲(マーチ)」と呼ばれるこの種の音楽についてあらためてよく考えてみると、オレって、もしかすると、小学校へ入学した頃から? いや、もう少し前からかな? 以来ずうっと、あまりにも無自覚のままにその多くを聴き流してきたんじゃないのかな。 ちゃんと一曲一曲を聴いたことなんてあるだろうか。 ひょっとすると、音楽という、その認識さえ無いまま、これらを聴く、それを済ませてきたんじゃないのかな・・・などといった具合に。

恐らく、変革がもたらしたことのうち、“音楽を聴く”ということに関して謂えば、「幼少の頃や小学生だった頃に聴いていた音楽を、高校生になった自分はどう聴くのか」が、一つ、テーマであったのだろうねぇ。ぃや、いまに至って想うと、だけど。

幼少の頃の私は、“音楽を聴く”というこれについては、先ずは洋服職人である叔父からの影響が大で、その叔父が持っていたレコード盤からいろいろな音楽を聴かせてもらっていた。主には、映画音楽や、クラシック音楽と呼ばれるものではピアノやヴァイオリンの小品曲など、これらを聴いていたように想う。小学生になると、GSやフォーク、クラシックの類なら劇や喜歌劇の序曲、それと、バレエ組曲などもよく聴いていたかな。小学生の高学年から中学生くらいになると、洋楽のポップスやロック、ジャズの類も少し、クラシックの類ではピアノ協奏曲や交響曲など演奏時間が40~50分を超えるものも、とまぁ、叔父のお陰でもって、様々な音楽を自らも好んで聴くようになった。

ただ、どの音楽を聴くにも、大抵は、音楽が奏でるその音を自分の感覚だけで受け止めていた。作曲家や演奏者、または作品にある、これら歴史や背景については大方知らないまま聴いていたのだ。というよりむしろ、音楽のここに纏わる歴史や背景など余計に知る必要はない、音から感じるそれだけを愉しんだり面白がったりしている方が好い、と思っていた。ハハハハ・・・、ちょっと生意気。

で、高校2生の夏を過ぎたその頃の時期に、幼少の頃から聴いていた音楽を、もう一度あらためて、それら音楽の一つひとつにある歴史や背景なども知りつつ聴き直してみたくなった、のだろうねぇ。ま、記憶を辿ってみると、だけど。

 

《高2生に起きた変革?2》

~行進曲(マーチ)への認識~

ところがだよ、こんなことを考えているうちに或ることが引っかかった。「行進曲(マーチ)」かぁ~、って。

確かに、「行進曲(マーチ)」と呼ばれるこれらは、幼稚園や小学校に通うようになると、急に、また頻繁に耳にするようになる、その種の音楽とも言えそうだ。

ただし、そこでは、・・・50歳を過ぎたオッサンになった現在も、あれやこれやと思い出すと・・・、

「はい、真っすぐ前を向いて!」

「腕をちゃんと振るんだよ〜」

「○○ちゃん、下向かないのっ!」

「××くん、背中も真っすぐにね〜」

といった言葉までもが一緒になって記憶から蘇ってくる。もちろん、言葉の、その言い方は、場面それぞれによって多少違ってもいたけれど。でも、小学生だった頃から、また、中学校、高校へと入学してからも、この種の音楽が園庭や校庭で鳴らされる限りは、いつも同じような意味の、こうした言葉が飛び交っていたように想う。特に、運動会前や体育祭前の予行練習などでは、この種の音楽を何曲も何回も色々に耳にしていたはずなのに、聞こえてくる言葉の方は変わらずそうだったように想う。多くの場合は、顔を真正面に向けたなら、手や足をテキパキとリズムに合わせて動かすための音であって、楽曲が切り替わっても尚もそのための音でしかなく、たとえその切り替わった音を違うものとして聞いても、恐らく、自身では、これら「行進曲(マーチ)」の一曲一曲をそれぞれ異なる楽曲として認識する、そこへの意識はまるで無かった気がするのだ。

2~3歳だった頃の、もっと幼い頃は、ワクワクしてくる、はしゃぎたくなる、こうした音楽にも感じてたはずだけど。子どもながらにも社会へと一歩繋がりをもち始めた途端、「行進曲(マーチ)」は、徐々に規律的なものに。更には、威圧的であったり、抑圧的であったりといったそうしたものとセットになってしまったのでは、と・・・。そして、これが当たり前に感じるようになってからは、「行進曲(マーチ)」と呼ばれるこれら音楽の一曲一曲を、自身では、自らわざわざ聴こうとも、知ろうとも、全くしなくなっていたように思う。

(*但し、歌劇や喜歌劇などに用いられる行進曲は別とします。/*ちなみに、集団で行進をするなどの行為これ自体が嫌だったとか、学校でのこうした習わしには疑問があるとか、そのような意味で申し上げているのではありません。)

きっと、高校2年生の夏を過ぎてからの、その当時の私もこれと似たようなことを考え始めていたのだと、想う。

 

《おっ、発見!》

いやぁ、そうか!いま、これを語りながら思い出した!

高校の体育祭だ。そうだ、高校2年生だったその年の秋、通っていた高校の体育祭が終わった少し後くらいのタイミングだったはずだ。で、先にも言ったあれらのことを、ふと考え始めていたに違いない。

ってな次第で、またしても、自宅近所の、例の、物静かそうなオジさんが独りで営んでいるレコード店へと向かったというわけなんだなぁ。

店内に入ると、先ずは、ラックに並ぶレコード盤の数々をざっと見渡す。それから、おおよその見当で、お目当ての盤が置いてあるであろうそのラックの前へと進む。いつもの通り、お決まりの行動パターンだ。

「おっ、発見!」

2枚組4面に、行進曲(マーチ)ばかりが23曲も収録されているLPレコード盤を見つけた。ジャケットの裏面を覗くと、スーザ、バークレイ、タイケ、團伊玖磨といったこれら作曲者の名が連なっているのと併せて、ギャルド・レピュブリケーヌ吹奏楽団(パリ・ギャルド)やロイヤル・マリーンズ・バンドといった所謂有名どころの楽団の演奏によって収録されているとの、その旨の記載があった。

これ、レコード発明の1877年から100年を記念して編集された「行進曲(マーチ)集」みたいで、どうやらこの当時に、丁度出版されたばかりの盤であったようなのだ。

 

行進曲(マーチ)と呼ばれるこの種の音楽は、歴史的なところから謂うと、元々、軍隊の士気を高めるためであったり、戦う兵士たちを鼓舞するためであったり、あるいは、敵側を威圧したりする目的で生まれた音楽だ。故に、軍隊という組織のこれに属す軍楽隊において発展していった音楽ではあるので、どうしてもそこに威圧的なものや抑圧的なもの、これを感じるというのは多かれ少なかれあるように思う。いや、私だけの個人的な偏見も含んでのことかも知れないけど。

それでも、近・現代においては、祝賀的な目的で創られた曲、友好的な意味で創られた曲、楽しさや愉快さを広く皆で共有し合うような、そういった行進曲(マーチ)も多く創られるようになったわけで。これら行進曲(マーチ)作品では、作曲者たちのいずれもが、聴く側の人々にとっても演奏する側の者にとっても、好きリズムを、好きメロディを、好きハーモニーを、好きアレンジをと、試行錯誤・工夫を繰り返しながら様々に技法を駆使しては一曲一曲それぞれに思いを込めて創り上げた“音楽”でもあるわけで・・・。その意味では、他の音楽との違いはないかと。

おっと、能書きが過ぎたか。失礼しました。

 

話を戻そう。

それで、部屋に帰ると、早速、買ってきたばかりのそのLPレコード盤に針を乗せた。2枚の盤に収録された行進曲を順に一つずつ聴いていくと、実に、聴いたことのある音楽ばかりだった。「星条旗よ永遠なれ(スーザ)」、「雷神(スーザ)」、「ボギー大佐(アルフォード)」、「旧友(タイケ)」、「コバルトの空(レイモンド服部)」、「祝典行進曲(團伊玖磨)」などなど・・・。

が、聴いたことのある音楽の、これらについては、歴史や背景などといったそれどころか、曲名や作曲者名でさえ正確に知ったのはこのときが初めてで。謂ったら、それほどまでに、「行進曲(マーチ)」について疎かったということなのだよね。

 

《その海を越えたくなる》

とは言え、とうとう、高2生の私も、その買ったばかりの盤を繰り返し聴くうちに、自身のその内側の辺りが何とも心地好いと感じる、そんな行進曲(マーチ)と出遭うのだった。

ジョン・フィリップ・スーザ作曲、「海を越えた握手」。

スーザは、ご存知の通り、作曲家のなかでも“マーチ王”とも称された行進曲創りのスペシャリストだ。そのスーザ作曲の「海を越えた握手」は、1900年代の初頭、イギリスとアメリカの友好・親善を目的に創られた行進曲で、曲が完成した翌年にはロンドンで行われたエドワード7世御前の式典で演奏され、このときもたいへん好評を博したのだそうだ。

この盤では、1950年〜1960年代にかけて、BMC(ブリティッシュ自動車)、フェアリー航空機、フォーデン自動車の各社がもっていた金管バンドの・・・そのどれもがイギリスが誇る金管バンドであったらしいのだけど・・・、これら合同バンドの演奏によって収録されている。

この曲を聴いて、当時の高2生の私は、この「海を越えた握手」というタイトルが・・・日本語訳ではあるけれど・・・、聴いた演奏から受ける音のイメージと当に一致して感じられて、何と謂えばいいのか、何やら、“可能性”や“未来”までもが想像できるように思えて、とても嬉しくなったのだった。

実際に曲を聴くと、早速、行進曲(マーチ)特有のオープニングの1フレーズが鳴り響く。ここでは、小気味のいいスタカートで刻まれた連続音がこれとともに明るく快活な旋律に乗っかって勢いよく飛び出してくる。すると、先ずは、そのまま小気味いい感じの音たちが、こんどは幾分か可愛らしく軽快さのある旋律で奏でられていく。が、間もなく、明るく軽快なイメージのこれを残しながらも、次には力強く威勢を放った印象のフレーズへと変わっていく。そして、中間部のトリオへと入っていく。トリオでは穏やかさを感じさせる旋律が優しく歌われ演奏される。ところがトリオを過ぎると、一転して、重く威圧的な音が一時ながら表れる。と、直ぐに、トリオの部分の穏やかな旋律が再現されて、でも、先のように優しく歌われるのではなくて、前半部分にあった明るく快活なイメージで、いや更にそれを超えて、開放感に満ちた音で演奏される。

曲全体を通しては直ぐにも耳に馴染むそうしたアレンジかと。が、なんと言っても終盤の、ホント、活き活きとした高揚感と開放感に満ちた音たちのこれには心ワクワクさせられる。思わず、海が見えるそのずうっと遠く先を眺めてみたくなる、いや、まさに、その海を越えたくなる、そんな音楽だ。

尤も、これも、演奏するイギリスのその合同金管バンドあってのことで。その演奏は、打楽器の歯切れのいいリズムとその太鼓やシンバルの小気味いい響きを土台にしながらも、金管楽器のその音色は・・・トランペットではなくコルネットを用いている点も要因の一つかと思われるのだけれど・・・、決して鋭いということはなく、柔らかく包容力のある響きが前面に表れている。結果、サウンド全体としてもそのリズムの切れと音の響きの豊かさがバランス好く届いてきて、清々しくも幾分か暖かい感じがするのだ。だから、僅か3分ほどの間だけど、「あぁ~、この曲を、この金管バンドの演奏で聴けて好かったぁ!」と思えてくるのだよね。

 

《いまの自分こそを省みる》

こうして、高2生の夏を過ぎた頃から始まった、「幼少の頃や小学生だった頃に聴いていた音楽を、高校生になった自分はどう聴くのか」というこれは、「行進曲(マーチ)」と呼ばれるこの種の音楽に限らず、当時とその後の約5年ほどの間で、他のいろいろな音楽についても試していくことになった。

が、いまに至って当時を振り返ると、「行進曲(マーチ)」について聴き直してみたこの体験は、殊、貴重なことであったように思う。

それこそ、大人として、また、社会人として、いまこうして日々を過ごしている自分に向けて突きつけられているようでもある。関わり合っている人たち一人ひとりに対して、あるいは、関わりのある様々な物事の一つひとつに対して、私はきちんと丁寧に向き合えているだろうか、と。無意識のうちに、無自覚なまま、何の考えもなくやり過ごしてしまっているそんな自分が居たりはしないだろうか、と。

いやぁ~、むしろ大人になってからの方が有り有りだな。あれやこれやと忙しさなどを言い訳に、そんなことばかりしちゃってるんじゃぁないかな、きっと。

50歳を過ぎたオッサンにもなったからこそ、出会い触れ合ってきた音楽の一つひとつをあらためて丁寧に聴き直そうとしたその青っ臭い高校生だった頃のことを思い出して、いまの自分をきちんと省みる必要があるのかも知れないね。

その意味で、今回、ここで久しぶりに部屋のレコードラックから「行進曲(マーチ)集」の盤を引き出してきて、いま在る自分がこれを聴いているこのことは、丁度良い機会だった、とも言えそうだ。って、マジメっぽいこと言った?

 

「今日の一曲」シリーズの第78回、今回は、ジョン・フィリップ・スーザ作曲「海を越えた握手」(1987年に出版された「行進曲(マーチ)集」のLPレコード盤より、BMC、フェアリー&フォーデン金管バンドの演奏)を取り上げて、これに絡めて諸々語らせていただいた。