今日の一曲 No.29:八神純子「I'm A Woman」(アルバム「夢見る頃を過ぎても」より)

「今日の一曲」の第29回目。

今回は、八神純子の「I'm A Woman」を紹介しつつ、当時のエピソードを語らせていただく。このブログ初の「恋バナ」もあるかもよ?・・・(笑)。

 

私が高校生の頃は、この「今日の一曲」でも幾度となく説明している通り、ちょうど、日本も欧米もコンピュータ技術の目覚ましい発展に伴って、音楽はそのジャンルを問わず様々なサウンドを産み出し、試されもして、最も表現豊かにエネルギッシュに溢れていた時代だった。

そんな時代背景の中にあって、日本音楽界には加えてある妙な現象が起きた(私がそう感じただけかも知れないが)。「シンガー・ソングライター」という人たちが急激にクローズアップされるようになったことだ。そして、この人たちの楽曲が「ニュー・ミュージック」という言葉で一括りにされるようになった。

「ニュー・ミュージック」って、何とも大ざっぱでセンスのない言葉で一括りにされたものだと、当時から思っていた。馬鹿な高校生ではあったものの・・・。

『「ニュー・・・」はそのうち「ニュー・・・」でなくなるのになぁ〜』、『リズムやサウンド、メロディ・ラインがまったく違うのに、どれも「ニュー・ミュージック」ってなんだよ』などと・・・。

「ニュー・ミュージック」と称した日本の音楽関係者の方にはお詫び申し上げる。何十年も前の一人の馬鹿な高校生が、しかも気が弱いから心の中で叫んでいたことだ(汗・笑)。お許し願いたい。

 

 前置きが長くなってしまったが・・・本題へ・・・。

 

さて、八神純子も当時その一人として、しかも新進気鋭のシンガー・ソングライターとして登場。間もなく、ファースト・アルバム「思い出は美しすぎて」をリリース。バラード風の長いフレーズを伸びのある高音域の声を効かせて優し気に甘く歌い上げる楽曲が際立つ。

このアルバムを聴いたとき既に、国内の女性ヴォーカルとしては「最高なのでは?」と、素人なりというか高校生なりに感じていた。

 

で、今日紹介するのは、セカンド・アルバム「夢見る頃を過ぎても」の中に収録された「I'm A Woman」だ。 

もちろん、アナログのLPレコード盤だ(上の写真)。

私が20歳を過ぎたばかりの頃だ。

このセカンド・アルバム、ファースト・アルバムの印象を引き継ぎながらも、サウンドとしても、歌詞やメロディを含めた楽曲そのものも、新しい扉を開いて踏み出した印象をもった。

中でも、B面3曲目の「I'm A Woman」は 、ややアップテンポのロック調のサウンドに、そこに柔さとパワフルさの両面を併せ持った歌声が響き渡る。ファースト・アルバムまでの優し気で甘さのある歌声だけでなく、新たな力強さが加わり、もちろん、伸びやかな高音域の声は更に磨きがかかって「お見事!」と言うしかないと、当時、強烈な印象を受けた。

 

少々、軟弱な話にお付き合い願うことになるが(汗)・・・、

この頃だけ、少しだけだが何故か女性にモテた。いわゆる「モテキ」だったのかも知れない。あくまでも、私の人生の中での基準でだ。

が、「・・・八神純子も聴くよ・・・」といった話をもち出すと、決まって、幸運の女神にも感じられた彼女たちは去っていくのだった(苦笑)。

で、教訓、「女子の前で八神純子を話題に出してはならない」となったのだった。

・・・って、私がただ調子にのってイイ気になっていただけなのだとは思うが・・・、思慮深さも無くチャラいヤツだったのだろう、きっと。

八神純子のせいにしてはいけないな(笑)。

というわけで、「モテキ」はあっという間に過ぎていった。

ホントは「淡い恋バナ」も織り交ぜて書こうとしていたのだが、イイ歳コイて照れくさくなったので、今回は非公開。またの機会にしよう。・・・まぁ、誰も読みたくもないか(汗)。

 

話を戻そう。

「I'm A Woman」、このタイトルも、そして歌詞も、当時の私自身は深い意味に感じ取っていた。八神純子がご自身の歩むべき音楽人生その方向性を新たに選択をし、選択した道に踏み出した様を見せてくれているのだと・・・、その覚悟たる力強さ、豊かさ、自由さを・・・、あくまでも想像に過ぎないが、感じ得ずにはいられなかった。

「生きるとは覚悟ある選択をすることだ」と。

 

「国内最高の女性ヴォーカル」と感じさせた歌声が、軟弱なやさ男の若ぞうにカツを入れてくれたのかも知れない。

そんな「今日の一曲」として?(笑)、いや、「力強く生きる選択」を感じさせてくれた、八神純子「I'm A Woman」を紹介させていただいた。