今日の一曲⑱:J・シュワントナー作曲「・・・そして、どこにも山の姿はない・・・(武蔵野音楽大学ウィンドアンサンブルより)」

「今日の一曲」の第18回目。今回は初めて吹奏楽曲を紹介しよう。中でも少しマニアックなものになるかな・・・。

 

J・シュワントナー作曲、「・・・そして、どこにも山の姿はない・・・」という曲だ。これを、しかも、『武蔵野音楽大学ウィンドアンサンブル』の演奏で、1979年~1981年の定期公演からセレクションしたものがLPレコード盤に収録されたものだ(上の写真)。

 

このLPレコード盤を手に入れたのは、この「今日の一曲」の第12回目(昨年12月17日)で坂本龍一の「SELF PORTRAIT」、第13回目(昨年12月27日)で武満徹の「ノヴェンバー・ステップス」を紹介したことがあるが、その頃ではあるのだが、その丁度間と言った方がより正確かも知れない。

これらを既に読まれた方は、社会人になりたての若ぞうがどんなことになっていたかを御存じかと思う。今なら、とても貴重な体験をしたと思える、その頃だ。

 

当時は若かったから、あの状況の中で、「どう生きていけば良いのか」、「どこに向かって歩んで行くべきか」、もう分からなくなっていた。ただただ、生活するために得られた機会を逃すまいというだけであったように思う。

3つのアルバイトを掛け持ちではあったが、それぞれ少しずつしか仕事がもらえなかったので、時間だけはあった。本を読み、仕事に繋がるかも知れない専門分野の勉強にほとんど費やした。が、やはり、こうしたことが役立つのかの確信はまるで持てないでいた。

 

幼少の頃からクラシック音楽(古典やロマン派)や洋楽・邦楽のポップス、中学生くらいからはロックやジャズ、フュージョン系音楽なども加えて聴いていたが、この頃から、徐々に現代音楽作曲家たちの作品に興味を持ち始めていた。そこで、現代音楽の色々を、幅広く手っ取り早く触れるのに好都合に思えたのが、吹奏楽曲だった。当時の私の感覚ではだよ(笑)。

 

今でこそ、全国コンクールなどで金賞を受賞するような高校の吹奏楽部がCDを出して販売もしているが、当時は、日本では唯一プロの吹奏楽団は「佼成ウィンドオーケストラ」だけで、アメリカの「イーストマン・ウィンドアンサンブル」、フランスの「パリ・ギャルド・ウィンドアンサンブル」くらいだった。しかも、海外のものはあまり入荷されていなかったのだと思う。手に入らなかった。

 

で、またまた「ジャケ買い」な感じでレコード店でのお得意の自分の手で行う検索作業だ(笑)。・・・意味不明なら、「今日の一曲⑰」をお読みいただきたい(笑)。

 

見つけ出したのが、「武蔵野音楽大学ウィンドアンサンブルVol.2」のレコード盤だ(上の写真)。そのB面の3曲目に収録されたのが、ジョセフ・シュワントナー作曲、「・・・そして、どこにも山の姿はない・・・」だ。

J.シュワントナーが「イーストマン・ウィンドアンサンブル」のために1977年に書いた楽曲。詩人キャロル・アドラーが書いた「アリオーソ」という詩をもとに作曲したとされている。

管楽器・打楽器の通常の吹奏楽編成に加えて、ピアノ、人の声や口笛、それと面白いのが、水をいれたクリスタル・グラスの淵を指でこすると音が鳴るは御存知かと思うが、音程の異なるクリスタル・グラスを7つ用いている。

神秘的な感じと、やや悲愴感が漂っている印象の楽曲だ。金管と打楽器群の大胆さと、クリスタル・グラスやピアノによる効果で冷淡な感じが繰り返される。吹奏楽曲ならではの響きが感じられる。

 

「悲愴感が漂っている」は、当時の心情がそう感じさせたことかも知れないが・・・。余計な情報だったか(笑)。

 

少々やり場のない想いで過ごしていた当時としては、この曲が妙に心地好く感じたのを記憶している。

「やり場がない想い」とか言いながら、こうして音楽から心地好さを感じながら過ごしていたのだと、今から振り返ってみれば、何て事はない。

 

悲観的に社会や人生を眺めていたときでも、とにかく目の前を歩むことだけは止めないで良かったと振り返る。

 

こうした心持ちの中であったからこそ、マスメディアに乗っかっている音楽や既成の音楽に飽きていたのだろう、現代音楽家の作品に何かを欲して求めていたように思う。お蔭で、吹奏楽曲や武満徹の音楽など新たな聴きなれない音楽たちと、この後、数々出会うことになる。

 

ネガティヴな感情に入り掛けながらも、辛うじてバランスを保ち救ってくれた音楽の一つであったと感じる。吹奏楽曲、J・シュワントナー作曲「・・・そして、どこにも山の姿はない・・・」を、「今日の一曲」として紹介させていただいた。